The World is Full of Shit,But...?
※ストーリー根幹に係わる重大なネタバレがあります。ご注意下さい。
<2011年4月11日>
「誰よ、あなた。こんなとこに呼び出して……。で、重要な話って何?」
「ニュースでやってるの、本当ですか? あなたが不倫してるとかって……。ウソですよね、あんなの」
「そんなこと、あなたに説明する必要ないでしょ……?」
「そっか……否定しないんだ。目ェかけてやってたのに、こんな下らない女だったなんてな……」
山野真由美(やまのまゆみ)は、背筋を駆け上がってくる恐怖を感じた。相手の目に宿る狂気に気づき、ジリジリと後退する。
「何なの、あなた……ひ、人を呼ぶわよ!」
「あーうるさい……うるさい! うるさい黙れ!!」
山野と相対していた者は、自ら発した言葉を引き金にした。彼女の襟元を強引に掴み、勢いよく押した。押された山野の華奢な身体は、そのまま背後に控えていた大型テレビに、大きな音を立てて叩きつけられる――ことはなく。
「ひっ……!!」
ズブズブと山野を飲み込んでゆく。テレビは音もなく水面を描いていた。
テレビの中に人が沈む――有り得ない事態に、山野だけでなく、それを行った者でさえ大きく目を見開いた。
「い、いやっ!!!」
恐怖に歪む顔を見て、口角が上がった。
* * *
<2011年3月某日>
世の中クソだな。
それは足立透(あだちとおる)の口癖であった。とはいっても、心の中で呟くだけに止めている。人間なのだから不満の一つも吐きたくなる。が、彼には許されない。刑事だからだ。しかもドが付く田舎の。
田舎に来てみて初めて分かった。田舎はある意味、都会より怖い。何処に目と耳があるか分からないのだ。公私も別けられないほど地域住民に慕われている――と言えば聞こえはいいが、地域の安全と平和を守るため、身を粉にして働いて当然とされる番犬役であり、便利屋を押し付けられる日々だ。
「……ハァ」
だから、せめて溜息くらい盛大についてもいいだろう。コンビニで買った小袋を片手に、いつものように背を丸めて公園のベンチに座った。直りきっていない寝癖と、曲がったネクタイが、彼のズボラな気性を物語っていた。
「何処にいるんだろうねぇ、トラちゃんは……」
何が悲しくて刑事が迷い猫を必死に探しまわらくてはならないのか。しかももうすぐ30に手が届く、という年には地味にキツイ仕事だ。
「堂島さんも人が悪いよなぁ」
あと30分で昼休みという時間になって、迷子の猫探しをさせようというのだから堪らない。
足立は一応『熱心に』30分探した後、12時きっかりに自主的な休憩に入った。腹が減った状態では探せるモノも探せない。昔の武士だって戦が出来ないと言っていたじゃないか。と、自己肯定を完了させる頃には、彼の頭から鬼の上司はすっかり追いやられていた。
缶コーヒーのプルタブに指を掛けて勢いよく持ち上げる。ガサリとパンを袋から取り出したとき、
「ん?」
ふと視線を感じて顔を上げると、こちらをジッと見ていた女の子と目があった。いや、彼女が見ているのは足立が手にしたアンパンだ。(何となく、張り込みではないがアンパンの気分だった)
パンを右に持っていけば少女の視線も右に、左にやれば左に動く。
「えー……と、食べる?」
「いいんですか!?」
苦笑混じりに尋ねると、少女は光の速さでとんできた。
「メイちゃん、学校はいいの?」
「ふぁい、まだはるやすみですひゃら」
「……パンは逃げないからゆっくり食べようか」
よほどアンパンが好きなのか、少女は足立が差し出したパンをものすごい勢いでがっついている。
(なんでこんな事になったのかねぇ)
彼女には悪いが、足立にとっては一度うっかり餌を与えてしまった犬か猫に餌を与え続けている気分だ。今日も満面の笑みでアンパンを頬張っている彼女を尻目に缶コーヒーを啜った。
(成長期って凄いな)
3個目のアンパンにかぶりついている姿を見て、自分もこうだったろうか、と記憶を探ろうとした。しかし、親から抑圧されていた子供時代を思い出し、すぐにその行為を放棄した。
(苦い……)
相手は小学生だ。格好を付けてブラックにしなくても、微糖にすれば良かったと思いながら一気に飲み干した。
「ご馳走様でした」
あっという間に平らげてしまった彼女は、行儀よく手を合わせたあと、おもむろに足立の後ろに回った。
「足立さん、今日も凝ってますね」
足立が犬猫よりマシだと感じて、面倒だと思いながらも、この妙な関係が続いている理由がコレだ。彼女は律儀に、毎度、御礼とばかりに足立をマッサージしてくれる。コレが中々気持ちがいい。聞けば近所のお年寄りにもよくマッサージしているとのことだ。
「あーそうかもねぇ。昨日は夜遅くまで残業して書類を片付けていたから」
程よくサボっている自分のツケもあったが、八十稲羽署(やそいなばしょ)へ転属したばかりで、田舎の署内では新人の域を出ない年齢の足立は雑務を申し付けられる事が多々あった。が、明らかに自分で行わなければ成らないと思われる仕事も、彼の処理能力を評価しているように見せかけて押し付けてくる輩も居た。
便利屋を押し付けてくるのは、高い税金を払っているのだから当然だと、声高にのたまう市民だけではない。愛想笑いを振りまきながら、高圧的に仕事を押し付けてくる同僚の顔が思い出された。彼らの笑顔の裏で、以前の――足の引っ張り合いばかりをしていた――中央の、同僚たちの顔がちらついて見えた。
足立は虚ろな目をしていた。内心ではいつもの、世の中クソだな、を呟いていた。
「サラリーマンも大変なんですね」
足立の顔が見えないメイは呑気に言った。彼女は足立を普通のサラリーマンだと思っている。田舎の情報網がずば抜けているとはいえ、小学生の、10歳の少女にまで浸透しているワケではないらしい。
この公園を利用するのは足立だけではない。春めいてきた暖かな日差しを求めて、何人かのサラリーマンが短い昼休みをめいめいに過ごしている。制服姿ではなく、スーツ姿の足立をサラリーマンと思っていてもなんらおかしくはなかった。
裏も表もない、あどけない少女の声がするりと鼓膜に入ってきた途端、足立の中に巣食っていた虚無感が霧散した。肩に触れる小さな手が、今いる場所を教えてくれる。
虚ろだった目が焦点を結び、公園の緑を捉えた。
「大人は大変だよ。メイちゃんは今一番いい時だから、今のうちにしっかり遊んでおくんだね。でも子供もそれなりに大変なのかな? 今の小学生って同じゲームを持っていないと友達と一緒に遊ぶことも出来ないんでしょ?」
足立にしては珍しく、建前ではない優しい言葉をかけてやった。茶化した言葉を付け加えたのは、大人の大変な部分を知るにはまだ早いと思ったからだ。降り注ぐ暖かな日差しのように穏やかな気持ちが胸に広がった。
しかしメイは、
「あたしは早く大人になりたいです。早く働きたい。なんでも自分で出来るようになるし、欲しいものだって買えるし、どこにだって行ける」
と、迷いのない声で、きっぱりと言った。足立は、先程自分が言ったゲームではないが、何か欲しいものでもあるのだろうか、と考えた。親の教育で、ねだっても買って貰えなかったのかもしれない。
大人を万能だと思い込むのは、子供にありがちな考えだ。夢ばかり見て憧れて、背伸びをして、幻想に恋をする。
「あのねぇ……」
後ろの彼女を振り返りながら呆れた声を出した。流してしまうのが一番楽だと知りながら、なぜか幼気な幻想を叩いてみたいという衝動に駆られた。それにしても、強く掴まれた肩が痛い。
「ちょっとメイちゃん、痛いって」
痛みに耐えかね、彼女の手をムリヤリ自分の肩から外すと、その拍子に彼女の袖が落ちた。目に入ったのは、細く白い腕と――。
「……ソレって」
管轄では無いが資料で見たことがある。丸くテカテカ光る皮膚――月日が大分経ったモノもあれば、真新しい、赤黒いモノもあった。タバコを押し付けられた跡だ。それがいくつものぞいていた。
少女は慌ててソレを隠した。顔は青くなり、足立の視線を避けている。先程までの加虐めいた気持ちは一気に消沈し、怒りがこみ上げてきた。
――メイは、親から虐待を受けている。
なぜいつもお腹を空かせてこの公園に居たのか――学校が無かったからだ。学校があるときは恐らく給食で凌いでいたのだろう。それが休みで無かった、だから。
「メイちゃん、君は、親に暴力を振るわれているの?」
少女の肩に手を置いた足立は、目線を合わせるように座り込んだ。少女は傍目にわかるほど動揺し、小刻みに身体を震わせている。
「違う、ちがう……そんなこと……ない。お母さんはあたしに酷いことことしない」
「ご飯を食べさせて貰えて無かったんじゃないの?」
「違うの……。お母さん、大好きなの」
メイは首を振って、泣きながら否定している。時々聞いた母親の話を思い出した。話ぶりから随分母親を慕っているように感じていたが、実はその母親こそ諸悪の根源なのではないのか? 眉根を寄せた足立は、安心させるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「安心していいよ、僕はね、ホントは刑事なんだ。君を守ってあげられるよ?」
まさか世の中を卑下している自分がこんな立派な事を言う日が来ようとは。足立は自分の発した言葉に半ば感動を覚えていたが、それを聞いたメイはザァッと顔から色を無くした。
「違う、本当に違うんです!! あ、足立さんには、関係ないです!!!」
メイは足立の手を振りほどいて走り去った。手痛い拒絶を受けた足立は、しばらく事態を飲み込めず、惚けたまま、小さくなっていく背中を見送った。
「世の中、クソだな……」
事態を理解してまず口にしたのはいつもの口癖だ。
どれだけ酷い親だろうと、赤の他人よりよっぽどいいらしい。いくら親切にしてやっても、このザマだ。先程まで気持ちがいいと感じて居た穏やかな春の日差しでさえ憎々しく思えた。
以来、あの公園に寄る気にならなくなった足立のサボり場所はジュネスになった。メイともあれ以来会っていない。
サボり場所を変えただけで切れてしまう、元々、その程度の浅い関係だったのだ。虐待にしたって本人が違うと言うなら違うのだろう。わざわざ面倒事に首を突っ込む義理はない。去り際に言われた言葉も、負け惜しみとしか思えなかった。
* * *
<2011年4月11日>
テレビに押し込もうとする足立と、踏み留まろうとする山野とで膠着状態が作られていた。男の力に対抗する彼女は普段以上の力を発揮していた。テレビの淵に掛けられた手は、力を入れすぎて爪が割れ、血が滲んでいる。
「不倫なんてバカな真似したあんたが悪んだ」
いい加減諦めろとばかりに足立が言う。悪いのはお前だ、と。
「あなたには関係ない!! 私達の事を、関係ないあなたがとやかく言わないで!!!」
山野は叫んだ。それは心からの叫びだった。確かに不倫は不道徳で法律にも抵触する。しかし、それをとやかく言えるのは関係者のみであって、関係のない足立にも、面白おかしく騒ぎ立てるマスコミにも無いのだと、彼女は悲痛に訴えた。
「関係ないわけ……」
山野の叫びは足立のかんに触った。少なくとも自分は純粋なファンだった。中央から左遷された自分を、癒してくれた彼女を、テレビ越しとはいえずっと応援していた。それなのに。不倫という裏切り行為でどれだけ傷ついたことか……。
――足立さんには関係ないです!!!
そうだ、彼女も関係ないと言って自分を拒絶した。どれだけ目をかけ、気にかけていたか、彼女は知らないのだ。
「あなたに生田目さんの何が分かるの、私の、何が分かるって言うのよ!!!」
――お母さんは庇ってくれた。お母さんは悪くない。足立さんは何も分かってない!!
そう言って去っていった小さな背中を今でも覚えている。その時は、結局、加害者が母親であろうがなかろうが、少女は傷を負って、いつも腹を空かせていた。それが事実だと思った。
「分からないさ……」
ふいに腕から力が抜けた。もしかしたら母親が好きな彼女は、母親を庇っていたのかもしれない。だがそれも、今思いついた、ただの思いつきでしかない。分からないと言われた自分であるが、それでも、コレだけは分かる。
「言ってくれなきゃ……分からないよ」
君を知りたかったんだ、と、力なく呟いた足立に山野はグッと唇を噛み、逃げるように天城屋のロビーを後にした。