- ナノ -

終章



微温湯に浸されているような、不思議な感覚。
目を開けても、閉じても一面は真っ白で何にも分からないのに、誰かに抱きしめられているような感覚がする。

『だれ?』

俺の後ろにいる、温かい人は誰なのだろう。
それが気になってぽつりと言葉を漏らした。
小さな呟きだったのに、その二音は不思議な空間に大きく反響した。

けれど背後の誰かは何にも答えない。

『誰?』

今度は少し声を大きくして尋ねた。

やはり、同じだった。何にも答えない。

痺れを切らし、俺はそろそろと顔を上げていく。
とすん。後頭部が相手の恐らく胸元辺りに当たる。

金色の髪が視界に映った。

後ろに撫で付けられたその髪型は見覚えがある。
目を丸くし、俺はその男をまじまじと見詰めた。

『うぇすかー……』

少し舌足らずな感じで名前を呼んでしまった。
怒ってるかな、と俺はドキドキしながらウェスカーを見つめる。

『ナツキ』

名前を呼ばれて、必要以上にどきりとした。
肩が跳ねたのに気付いたらしい頭上でくすりと笑う音がする。

『……ナツキ』

『なに?』

『お前は生きろ』

――え?

ウェスカーの言っている意味が分からず、俺はきょとんとしてただ一音だけを返す。
ぽすんと頭に手を乗せられた。暖かな手のひらだ。

優しく撫でるその手が世界を壊そうとしたなんて、少し信じられない。

『お前はまだ、此方に来るべきじゃない』

『どういう……――わっ!?』

ウェスカーと向き合おうと身体を動かしたその瞬間、思い切り背中を押され菜月はつんのめる。
べしょりとだらしなく地面に叩きつけられ、涙目になりながら振り返る。

『なにす――……うぇ、すかー……?』

文句のひとつでも言ってやろうと口を開くが途中で止まる。止めざるをえなかった。
だって、ウェスカーの姿がだんだんと薄れていくから。

足先から、徐々に。

砂のように、消えていく。

暫しその様子を呆然と見詰めていた俺は我に返り、口を開く。

『何で、どうして……?』

『お前はもっと世界を見ろ、もっと生きろ』

嫌だと思ったら世界を変えろ。お前にはその力がある。

さらさらと消えていく。
最期に、小さく笑う。

一粒の涙と、言の葉だけを残し、ウェスカーは消えた。

――ナツキ。

最後の最後、まるで自分の子を呼ぶように、愛しさをこめて呼ばれた。
返事をする事も出来ずに、呆然とする。

どうしたらいいかなんて、俺にはわからなかった。
ただ、分かったのは、ひとつ。


とても、心が痛くて哀しい、という事だけだった。



切なさを感じながら、俺は静かに目を閉じた。



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