- ナノ -



とくん、とくん──心臓が鼓動する。微温湯に浸されているような心地のいい感覚。俺はどこにいるんだろう。目を開けているのか、閉じているのか、それさえも解らないし、身体に力が入らなくて腕を動かすことも出来ない。

曖昧な意識の中でナツキは"こう"なる前のことを思い出す。

えぇと……エクセラに会って、ウェスカーに会って、そしたら頭が割れそうなくらい痛くなって……名前を呼ばれて──どうなったっけ?

そこからの記憶は途切れてる。でもうっすらと覚えてはいる。ウェスカーの命令に従ってクリスとシェバ──二人を殺そうとしていた。殴った感触は僅かながらに腕に残っている。
俺はウロボロスウイルスに適合した正真正銘の化け物だった。信じたくはなかったけど、こうなってしまった以上は事実として受け入れる他ない。

だとしたら、もう二人には会えない。二人はB.O.W.をこの世から排除するためにいるんだから。生物兵器の俺は……もう……。

──存在しちゃ、ダメなんだ。

胸がずきりと痛んで、目の奥が熱を持つ。じわじわと滲んだ涙が頬を伝うのを感じた瞬間に、不意に瞼が持ち上がった。微温湯のような暖かさは途絶え、霞んだ視界に見覚えのない天井が映る。天井に取り付けられた蛍光灯を眺めて、二、三瞬く。

「どこだ、ここ……」

のそのそと気だるい身体を起こす。パッと見は医務室のような、そんな無機質で冷えきった部屋だ。皮膚の引き連れる感触に視線を落として思わず「うわ」と声を漏らす。衣服どころか身体のあちこちに乾いた血がこびりついていた。治療も、着替えもされないまま診察台に転がされたらしい。銃もそのままだし、扱いがぞんざいすぎやしないだろうか。

穴の空いた衣服の隙間から傷を確認する。

「……、」

痛みをほとんど感じない時点で薄々予想はしていたが、傷跡さえ見当たらなかった。普通なら死んでも可笑しくない怪我だった筈なのに。ちょっと撃たれたくらいでは死ねないらしい。

何も解らないまま死にたかった。そうすればこんなに苦しい想いをすることもなかったのに。

ゆるゆると息を吐き出して、もう一度辺りを見回した。扉が二つ。向かって左右に一つずつ。鍵の有無はここからじゃわからないが、このままここにいてもウェスカーに良いように利用されるだけだ。

「逃げなきゃ……」

これ以上二人を傷つけるような真似はしたくない。意を決して診察台から降りようとしたら、ぐにゃりと視界が歪んだ。酷い目眩にふらついてたたらを踏む。傷は治っても抜けた血までは元には戻らないらしい。
すんでの所で壁に手をつき転倒は回避したが、気分の悪さは過去一番だ。吐き気、頭痛、全身の疼痛のトリプルコンボは冗談抜きで笑えない。

壁を伝いながら、やっとの思いで扉までたどり着き、ノブを掴もうとしたら消えた。正確に言うと扉が向こう側に開いた。

「おわ、」

掴もうとしたノブが引っ込み、空振って体勢を崩す。普段なら踏ん張れたろうが最悪の体調ではそれも出来ず、ぐらりと視界が傾いて、ナツキは身体を固くした。

ぼすん──床とキスするよりも前に比較的柔らかい何かにぶつかって、両肩をがしりと掴まれた。

「……目が覚めたようだな」

「……っ!」

頭上から聞こえた声に俺は考えるよりも先に目の前の身体を押し、距離を取った。掴まれていた肩は思いの外容易く離される。一番会いたくないと思っていた男と一番にエンカウントするなんて。今日は間違いなく厄日だ。

ウェスカーの表情は相変わらずサングラスに覆い隠されていてうかがい知ることが出来ない。その不気味さと緊張から、全身に汗が滲む。

(どうしよう。どうするべき……?)

痛む頭を必死に回転させて、じりじりと後退しながら銃に手を伸ばした。

「やめろ」

その一声で腕の動きが止まる。頭は銃を掴もうとしているのに、身体がそれを拒否する。自分の身体なのに、自分の身体ではないような、そんなもどかしい感覚にナツキは歯噛みした。

「……無駄な抵抗は止せ。疲れるだけだ」

「アンタに好き勝手使われるくらいなら死んだ方がマシだ……!」

身体はともかく口だけは自由だ。なけなしの抵抗とばかりに噛み付く。

「……全く。自己犠牲の精神など似なくて良いものを」

息を吐き出して、ゆるゆると首を振る。ナツキが睨み付けてもウェスカーにはこれっぽっちも効果はないらしい。
悔しい。またこのまま操られてしまうのだろうか。いや、それだけは……避けなければ──。

「勝手に死ぬことだけは許さん。お前は俺の最高傑作なのだ。お前だけが俺の作る世界に存在することを約束されている」

「ふざけんな!!そんなの嬉しくもない!俺は!俺は……」

言葉に詰まり、俯く。握りしめた拳は小刻みに震えていた。泣きたくはなかったのにぽろぽろと目尻から涙が零れ落ちる。

"力"なんて欲しくなかった。
"特別"なんて要らなかった。
"普通"でいたかった。

悲しくて、辛くて。このまま消えて無くなりたいとさえ想ってしまう。

「──何も考える必要はない。感情などあるだけ無駄だ」

弱った心の隙間にウェスカーの言葉が入り込んでくる。怯えるようにおずおずと顔を上げた。サングラスの奥にある赤い瞳が俺を映す。

「忘れてしまえ。その方がお前にとっては楽だ」

その声に引き摺られるようにじわりじわりと思考が鈍る。脳に霧が掛かったみたいに不明瞭で。そんな中、ウェスカーの声だけが耳の奥で大きく反響した。

何もかも忘れよう。感情も思い出も何もかも……そうすれば、もう何も──

「……めだ……」

思考を放棄して、閉じかけた瞼の裏に二つの影が浮かんだ。クリスとシェバ。俺がどれだけバカで、ヘタレで、ドジだったとしても、ずっと一緒にいた二人をこのまま忘れて良いわけない。

「そんなのダメだ……!」

まとわりつく言葉の呪縛を振り払い、銃を引っ付かんでウェスカーを睨み付けた。ナツキの反発を予想していなかったのか、赤い瞳が驚愕に揺れる。

「俺はもう……アンタの言いなりにはならない!!」

身体は相も変わらず情けなく小刻みに震えていたが、意識だけは強く保つ。脂汗を滲ませながら、俺は狙いもそこそこに引き金を引いた。

乾いた破裂音が一つ。当たらないことは解ってた。逃げる隙が欲しかっただけだ。

「っ!」

視界の端でウェスカーが銃弾を避けるのを確認しつつ、ナツキはその脇をくぐり抜けて部屋から飛び出した。





息が切れても、喉の奥に血の味が混ざってもナツキは必死に走り続けた。幸いウェスカーが追ってくる気配はなかった。単純に放置していてもまた捕らえられるからなのか、もう用済みだからなのか。理由はさて置き助かった。

「はぁ、はぁ……」

足元がなだらかに揺れる感覚がする。丸い窓の向こうには墨のように真っ黒な海が波打っていた。どうやら船の上らしい。気絶している間に全然知らない場所に連れてこられたみたいだ。

方向も解らないままただ走った。
二人に会いたい。それだけを胸に。

「は……」

もう走れない。胸を押さえて歩調を緩めた。壁に手を這わせてふらふらと覚束ない足取りで前へと進む。
道なんて解らないから、ただただ行き当たりばったりに前に進み、時折曲がった。二人がどこにいるのかもわからない。もしかしたらこの船にはいないかもしれない。言い知れぬ不安に押し潰されそうになる。

「……こんな、時に……」

武装マジニが理解できない言語をわめきたてて行く手を塞ぐ。煩わしい敵の出現に怒りがふつふつとわき上がる。拳を握りしめて心に燻る激情をマジニに叩きつけた。

ぐちり。頭部を守るヘルメットごと頭が飛ぶ。熟れた果実の様に血飛沫を撒き散らしながら頭は宙を舞い、壁にぶつかって落ちた。そばで崩れ落ちる頭のない身体を見つめて呆然とする。殴っただけで頭を飛ばすなんて、人間ではあり得ない異常な力だ。

自分は人間ではないと再確認して絶望する。

「──っうわぁあああああ!!!!」

怖くて、泣きたくて。ただ絶叫した。
周囲に集まってきたマジニを乱暴に蹴散らして逃げ出す。背後から放たれる銃弾が身体を傷つけたけれど、痛みなんてほとんど感じなかった。

形容できない色んな物が混ざりあった感情のまま逃げ惑い、突然の爆音と共に大きく揺らいだ船体に足元を狂わせて尻餅をつく。びちゃ、と赤い液体が地面に染みを作った。全部ナツキの血だ。夥しい程の量なのに、身体にはもう傷はなくて。

「……うっ……くりす、しぇば……」

ぽたぽたと零れ落ちた透明が赤に混ざる。敵地の真っ只中だというのに無防備に背中を丸めて泣きじゃくった。
頬を濡らし、二人の名前を嗚咽混じりに漏らす。

──ただ助けて欲しかった。自分が化け物なのはどうにもならないのに。

マジニの近づいてくる気配がする。逃げないといけないとはわかっているが、立って逃げるのが酷く億劫で蹲り目を閉じた。
どれだけ怪我を負っても死なない。きっと腕がもげようが、足がもげようがウイルスは俺を生かすのだ。ならもう逃げるのも無意味なんじゃないだろうか。

そんな諦めにも似た感情がナツキの身体を強ばらせた。


タァン──


銃声が響いた。
それから、二対の足音。

「「ナツキッ!!?」」

重なる二つの声。ずっと切望していたのに、いざこの状況になると怖くなった。拒絶されたらと思うととても振り返れなかった。

そっと肩に手が添えられて、顔を覗かれる。

「ナツキ、良かった!大丈夫?」

「……シェバ……俺に近づいたら危ないよ……俺は化け物、だから……」

心配そうに見つめる瞳から逃げるように目を反らして、二人を拒否する言葉を吐き出した。自分で言った癖に心が張り裂けるように痛んで、苦しい。

「バカね、ナツキはそんなことしないでしょ?」

「そんなこと、あるよ……さっきだってウェスカーに操られて──」

「ナツキの意思じゃない、だろ?……もしまた操られたら今度は殴ってでも元に戻してやるさ」

「でも……」

「大丈夫よ。私達が信じられない?」

俯いたまま首を横に振る。
あぁ、どうして二人はこんなにも優しいんだろう。大粒の涙を溢しながら、ナツキは二人の名前を呼んだ。それは情けないくらいに震えて、弱々しかったけれど。
何も言わずにシェバはただ抱き締めてくれた。

「……ありがとう」

暖かな抱擁にまた目頭が熱くなる。ナツキが泣き止むまで二人はずっと背中を撫でてくれた。



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