- ナノ -



入ってきたときとは別の扉から廊下へと出た。廊下には生臭い血の臭いが充満していて、警戒しながら視線を廊下の奥へと向けると血痕と共に鋭い爪痕が壁に残されていた。猫のような小さなものではなく天井から床まで達しそうな程の大きな三本線だ。

「な、なななにこれ!?」

「何かいるみたいだな……ナツキ、気を抜くな。銃を持っておけ」

「う、うん」

険しい表情でクリスがその爪痕を指先でなぞった。乾いた血が壁から剥がれてパラパラと落ちる。傷がついてからかなりの時間が経過しているようだ。

ナツキは指示通りにハンドガンを握りしめた。グリップが冷や汗で濡れて気持ち悪い。ぬるりと滑りそうになる銃を持ち、ナツキ達は廊下を音を立てないように早歩きで進んだ。

奥へ進むほど血の臭いは濃くなり、壁にはペンキを叩き付けたような赤が広がっていた。その近くには必ず鋭い爪痕が残されていた。どんな恐ろしい怪物がいるのだろう。想像するだけでも手が震えそうだった。

廊下の突き当たりにあった水密扉のようなハンドルのついた扉を開く。中は薄暗く視界が悪い。一歩踏み出すと足元がねばついた。そろそろと視線を落としたら、真っ赤に染まっている。
こういうことには慣れたと思ったけどここまで凄惨だと気分が悪くなりそうだ。胃から競り上がってきそうになる吐き気を何とか押さえて、息を大きく吸い込んだ。うぇ、肺いっぱいに血の臭いが。

クリスが薄暗い中を手探りでレバーを引き下ろした。ががが、とどこか引っ掛かるような音を立てて部屋の奥のシャッターが上がる。

「ひぇっ!?」

ガラス張りの向こうに張り付いたピンク色が過る。今度は気のせいじゃない。間違いなく、いた。桃色の蜥蜴みたいなやつだった。当然大きさは人と同じくらい。

この惨劇を産み出したのはあれだと想像するのには難くない。

「ナツキ、行くわよ!」

「ちょっ、シェバァアアア!?」

二の足を踏んでいたらシェバがガラスをナイフで叩き割っていた。けたたましい音を立ててガラス片が辺りに散らばる。先程の化け物の事など頭から吹き飛び、ナツキは目を丸くして叫んだ。ナイフでガラス割るって果敢すぎやしませんか。普通なら怪我するって、あれ。

頭からガラス片を被ったにも関わらず、怪我一つないシェバの頑丈さに恐れおののきつつ、おっかなびっくりとガラスを跨いだ。

「あ、わんこ」

足元についた補助灯を頼りに進む。大小様々な大きさの檻が積み重ねて並べられていた。ナツキが覗いた檻には大型犬が入れられている。恐らく被検体として用意された動物が檻に入れられているのだろう。犬以外にもヤギやウサギが怯えた様子で檻の中で縮こまっている。

「おいで〜わんこ〜」

適当に呼び掛けながら、柵の間から手を差し伸べた。だが、犬はくぅん、と弱々しい鳴き声を上げて檻の隅で小さくなっている。「俺は怖くないよ〜」なんて言っても犬に通じるわけもなく、余計に怯えた様子で震えていた。
拒否されてちょっぴり落ち込み、肩を落とす。はぁ、とため息を溢し、立ち上がった。

ピシッ──ひび割れる微かな音の後、激しい破砕音が響いた。前触れのなく聞こえたそれにナツキは弾けるように顔を上げる。広い空間の奥の方でクリスがショットガンを構えていた。

「何だこいつは!?」

此方からは何がいるかは見えない。ハンドガンを片手にナツキは急いで駆け寄った。

「な、こいつさっきの……!?」

角を曲がった先には桃色をした蜥蜴みたいな生き物が這っていた。僅かな明かりに照らされて表皮がぬらぬらと不気味に光る。前足には鋭く尖った大きな爪が三本あり、後ろ足は爪はないが太股はかなり太く筋肉質だ。頭部は脳ミソらしき物がむき出しになっており、目は見当たらないが蛇のように長い舌が口からにゅるりと顔を覗かせている。こんな生き物はどの動物図鑑にも載っていないだろう。

シェバがクリスに続いてマシンガンで応戦するが、あまり効いていないのかソレ──リッカーβは動きを止めることなく距離を詰めてきた。

「避けろ!」

爪を振り上げて飛び掛かってきたリッカーβをサイドステップで避ける。桃色の体躯が真横を通り過ぎて冷や汗が流れた。あんな爪で引っかかれたら、一撃で致命傷だ。あっという間に首を掻き切られて絶命、なんて笑えない。

三人とも散らばり、リッカーβから距離を取った。ナツキもハンドガンで攻撃したが、やはり豆粒レベルの銃弾では大したダメージを与えられていないみたいだ。それでも多少くらいはあるはず、と信じて撃ち込んでいく。塵も積もればなんとやら、だ。

後退りながら、何度も引き金を引いた。一発、二発、三発──内心で弾数を数えて、リロードのタイミングを見計らう。不意にリッカーβが前足を上げた。飛び掛かってくる動きとはまた違う。

(この距離じゃ爪は届かないと思うけど、何をする気だ……?)

ハンドガンを構えたまま、警戒する。じわじわと滲む脂汗がインナーを湿らせた。

リッカーβが首を振るう。

「──かはっ!?」

カンマ一秒。リッカーβの口から何かが飛び出し、ナツキの首もとに巻き付いた。身構えていたのに、避ける暇もなかった。

舌が首をへし折らんばかりの力で巻き付いてくる。必死に巻き付く舌を掴み、抵抗するが向こうの方が力が強く外れそうにない。悲鳴も上げれないまま、徐々に視界が狭まってくる。


──このままじゃ、死ぬ。


思考もままならない中、それだけははっきりと理解していた。嫌だ。いやだ。死にたくない。酸欠でがくがくと痙攣する手の平に力を込めた。無我夢中だった。気がつけば俺はリッカーβの舌を引きちぎっていた。

締め付けから解放されたナツキは肩で大きく息をしながら呆然とする。手元に残っていた舌先がぼとりと床に転がった。

「ナツキ!大丈夫か!?もう一体に手間取って遅くなった!」

ショットガンをリッカーβに撃ち込みながら、クリスが駆け寄ってきてくれた。ちょっと遅い、なんて文句を言う余裕もなくてナツキはただ片手を上げて、無事を知らせる。その向こうでシェバが怯んだリッカーβにマシンガンで止めを刺しているのが見えた。

へなへなとその場に座り込み、ナツキはため息を漏らす。もう二度とリッカーβとは出くわしたくない。切実に。あんなのを相手していたら弾が幾らあっても足りない。空になったマガジンを取り出して、新たに弾を詰めておく。

「ナツキ、首は大丈夫か?」

「まあ、何とかね……」

川の向こうでおばあちゃんらしき人影が手を振っているのが脳裏に映ったような気がしないでもないが、多分気のせいだ。たぶん。

「そうか……なら良かった」

「おわ!?やめてよ、クリス」

やや乱暴に頭を撫でられて、折角手櫛で整えていたナツキの髪があちらこちらに跳ねる。表面では嫌がりつつも、クリスに頭を撫でられるのは嬉しかった。

今まで誰にもそんなことをされたことがなくて、温かい気持ちになるのだ。ナツキは誰にも見られないようにひっそりと笑みを浮かべた。


prev mokuji next