庭園から先へと進むと真新しい設備が整う建物に続いていた。先程まで遺跡にいたからまるでタイムスリップしたような気分だ。相変わらず人がいた形跡はあるのに、人の気配はない。
手始めに通路の一番手前にある部屋から調べたが、目ぼしい資料も手懸かりもなかった。仕方なく部屋を出て次に行こう、と一歩踏み出す。
「──えっ?何いまの……」
ピンク色をした何かが視界の端で蠢いた。思わず二度見したが、二回目の瞬間にはもう何もいなかった。気のせいだと思いたいが確かに見えた得体の知れない物にナツキは身体を硬直させる。
「ちょっと、どうしたの?」
「今、何かいたと……思うんだけど……あそこに……」
「……?何もいないわよ?」
残念な事にクリスとシェバはアレを目撃していなかったらしく、一人石化するナツキに訝しげに眉を潜めている。今さら指を指しても居ないものはいない。二人は身体を凍りつかせているナツキを他所にさっさともう一つの部屋へと入っていった。
「ちょ、お、置いてかないでって!」
ナツキはカチカチの身体を再起動させて、慌てて二人の後を追いかけた。
薄暗い部屋には実験設備が一通り揃っていた。庭園で見かけたあのオレンジ色の花を研究しているらしく、ガラス管には花が入れられていて、光合成用のライトがぼんやりと室内を照らす。
「さっきの花を加工して何かを作っているようね」
ガラス管の中を覗きながらシェバが呟く。その奥でクリスがコンピュータを立ち上げて情報を確認していた。
「画像にあった研究施設……ここで間違い無さそうだな」
「核心に近付いたって感じね」
二人が画面に集中している間、ナツキも少しくらいは力になりたい、とすぐそばのファイルラックに手を伸ばした。だが、もう撤収した後なのかファイルラックには殆ど資料は残っていない。仕方ない。と残った資料をかき集めてナツキは資料に目を通した。
『プロジェクト"N"計画』
見出しにはそう書かれていて、その下には小難しい文字の羅列とよくわからないグラフ表。見るだけでも頭が痛くなりそうな資料だ。目頭を揉んでからナツキはゆっくりと資料に目を通した。
『このプロジェクトは機密レベルA。口外及び資料の持出しは固く禁ずる』
そんな書き出しから始まっている。機密レベルなんて物があるのか、なんて呑気に考えて続きを読んだ。
『このプロジェクトの概要はウロボロスウィルス完全適合体の開発である。ウロボロスウィルスは他のウィルスと比べ、適合率が低く、また適合しても安定した肉体を保つ事が難しい。そこで既存の肉体に適合させるのではなく、肉体を持たない状態──受精卵にウロボロスウィルスを注入し、適合させる方法を考えた』
常人では考えられないような研究だ。嫌悪感を隠せない。眉間にシワをよせてナツキはページを捲った。
『結果報告:様々な人種の受精卵にウロボロスウィルスの注入を試みたが、その大半は死滅した』
その下には表が貼り付けられており、名前の横に×が並べられていた。かなりの人数がいたのかその表は次のページまで続いていた。それだけ沢山の人が犠牲になったということになる。
指先でその×をなぞり、一番下で止めた。そこだけ○がついていた。
『偶発的に日本人男性の精子を利用した受精卵が適合。状態も安定。今から彼の成長が待ち遠しい』
どく、と心臓が嫌な音を立てる。
指先は氷のように冷えきっていた。
『"N"は拒否反応もなく成長している。バイタルも安定。ウロボロスウィルスの影響か通常では考えられない速さで肉体が成長している。それに合わせて睡眠学習を行い、最低限の言語、知識を読み込ませた。この様子なら──』
日本人。彼。そして"N"。
これは偶然なんだろうか。そもそもどうして俺はあそこにいたんだろう。記憶がそこだけ可笑しいのも、何故?
プロジェクト"N"
プロジェクト"Natsuki"
プロジェクト"ナツキ"?
そんな筈はない。だってずっと日本で生きてきて、そう高校に通ってた。友達だって、両親だっている。文化祭では演劇をやって、でもあんまりいい役を貰えなくて──思い出を掘り返して安心を得ようとしたけれど無意味だった。
絶対に覚えていないと可笑しい物が思い出せない。そこに気づいた瞬間、信じてきた物が崩れていく感覚がした。うまく呼吸が出来なくなって、指先の感覚さえわからない。持っていた資料がバサバサと音を立てて手元からこぼれ落ちた。
「ナツキ?どうした?」
「──あ……ごめん。調べてたら落としちゃった……」
クリスに呼び掛けられて、ナツキは思い出したように大きく息を吸い込んで散らばった資料をかき集めてファイルラックに押し込んだ。不審そうな視線を向けてくるクリスにナツキはにっこりと笑顔を貼り付ける。ちゃんと笑えているか不安だったがクリスは「そうか」とそれだけ言って視線を外した。
(大丈夫。頭文字が合っていたのも何もかも偶々だよ)
偶然だ、とそう思い込まなくちゃ、自分が自分でなくなってしまいそうな気がした。
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