幸い足は言うほど早くないようだった。唾を飲み込んで工房の台の後ろに隠れながら様子を伺う。補助灯の微かな光を頼りに目を凝らした──が、よく見えない。
うぅん。こういう時に鳥目は辛い。
"パパ"を連呼する背筋の寒くなるような声が徐々に近づいてくる。極度の緊張にどくりどくりと心臓が五月蝿いくらいに脈を打つ。
「うぅ……ぱぱぁ、あああ"ぁ……」
来た──息を止めて、気配を絶った。ずるずると身体を引きずりながら、辺りを見回している。赤ちゃんだからか目は良くないらしく、台の影に隠れる二人には気付かずに横を通りすぎて隣の部屋へと入っていった。
その隙に二人は音を立てないよう細心の注意を払いながら、エレベーターホールに走る。そしてすぐさま配電盤に鍵を差し込み開けた。
「あぁ、やっぱり……ヒューズが抜かれてる」
赤いエラーランプが点いていた辺りで薄々察してはいたがあるべきものはなく、代わりにヒューズの場所には赤子を模したレリーフが押し込まれていた。これではエレベーターは動かない。どうにかしてヒューズを探さなければならないようだ。
こんな真っ暗闇の中、あの赤ん坊を撒きながら探さなきゃいけないなんてゾッとするが、やる以外にナツキたちに選択肢があるわけでもない。背後からベビーの声も迫っている。ここでもたもたしていたら二人とも仲良くベビーに喰われるのがおちだ。
「早くいこう、イーサン」
「あ、あぁ……」
ナツキを殴った時の威勢も何処へやら、イーサンはかなり動揺しているらしい。度重なる精神攻撃に続いて"アレ"だ。無理もない。珍しく狼狽しているイーサンの腕を掴んでナツキは書斎へ逃げ込み、隠し部屋から廊下へ抜けた。
ベビーの声はぴたりと止んだ。
うまく撒けたようだ。完全に安心するのはまだ早いが、とりあえず胸を撫で下ろす。
「イーサン、あれはローズちゃんじゃない。あんなぶっさいくな赤ちゃんじゃないでしょ?」
「……あぁ、そうだな。ローズはもっとかわいい」
「ん。その調子」
ぐっとサムズアップをして笑うと、イーサンも少しだけ口角を上げた。
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