両手で耳を塞いでも聞こえてくる、カサンドラ様の悲鳴。ダニエラ様の私を求める声。それでも主人の命令は絶対だった。肩を震わせて、息を詰める。聞こえない振りをする度に胸が張り裂けそうになった。
何もかもが壊されていく音が恐ろしい。これは悪い夢なんじゃないかと何度も頬を摘まんたが、結果は変わらず同じだった。
(どうか、神様──)
無宗教の癖にこんな時だけ神頼みをする自分の都合の良さには呆れるが、もはや神にもすがりたい気持ちなのだ。願うように窓から空を見上げて、手を組み祈りを捧げた。
「──おるちーな、様……?」
私の部屋は城の東側にあり、窓からは礼拝塔がよく見える。その塔の天辺に雪のように白いドラゴンが取り付いていた。大きな翼をはためかせてドラゴンが咆哮する。びりびりと窓枠が振動して、隙間の埃が落ちた。
私は知っている。あれが、オルチーナ様だと。ずっと昔、私が今より少しだけ若い頃に一度だけオルチーナ様が見せてくれた、もうひとつの姿。あの姿になるほどの事態が起こっているのだと思うと私はいてもたってもいられず、チェストに駆け寄り引き出しを開けた。そこから布切れに埋まった繊細な銀細工のナイフをひっ掴んで、部屋から飛び出す。
初めて命令に背く。内心で申し訳ございません、と謝罪して私はただ走った。目指す場所は礼拝塔だ。廊下を走り抜けて、ワインルームの前の階段を駆け下りる。城内は先程よりも更に酷く荒らされ、そこかしこの壁に銃痕が付けられていた。
「どうして、こんなことに……」
鈍く光るナイフを握り締めて、私は苦虫を噛み潰した。地鳴りのような音が響いて、礼拝塔の瓦礫がメインホールの天井を突き抜けて落ちてくる。土煙を上げて目の前に降り注いだそれらに足がすくんだ。
「城が……壊れていく……」
城だけでなく、全てが壊れてなくなっていく。ベイラ様もカサンドラ様もダニエラ様も、殺された。たった一人の男に殺されてしまった。そして、男はオルチーナ様さえも殺そうとしている。少し前までの平穏はどこに消えたのだろう。私はオルチーナ様とお嬢様と一緒に暮らしているだけで良かったのに。
もうどう足掻いても元通りにはならない。ならばせめてオルチーナ様だけでも助けたい。震える両足を叱咤して私は礼拝塔に向かった。
「──!?」
私が礼拝塔の扉の前にたどり着くと同時に、より一層大きな音がした。空気さえ振動させるようなその音に目を見開き、私は急いで目の前の扉を押し開け、汗ばんだ手でナイフを握りしめて身体を中に滑り込ませた。
土煙の舞う礼拝塔の中央。傷付いた白いドラゴンが横たわる。瞳は淀み、光は失われていた。
「──オルチーナ様!!」
身体を維持することが出来なくなったのだろう。足先から徐々に結晶体になり白く砕けていくその姿を見て私は叫んでいた。
あぁ、オルチーナ様。何と、おいたわしい姿に──何度呼び掛けようとも答えが返ってくることはない。
死んだ。殺された。あの、男に。
私はゆらりと立ち上がり、傍らに立つ草臥れたコートを羽織った男を睨んだ。この男が全てを壊したのだ。城も、お嬢様もオルチーナ様も、ぜんぶ。哀しい、苦しい、憎い、幾つもの感情が私の中で渦巻いている。
「許さない!私の、私の主をよくも──」
ナイフを握りしめて、私は男に突進した。
──タァン。
一発の銃声が、響いた。
◇
side:Ethan
やっと、城主であるドミトレスクを倒した。やっと、城から脱出できる。
奴もろとも高所から落ちて痛む身体に顔を歪めながら、イーサンは静かに息を吐き出した。手のひらに穴が開いたり、腕を切り落とされたり、足やら腹を突き刺されたが生きている。人間、その気になれば何でも出来るらしい。
頑丈な身体で良かった。
そんなことを考えていると、突然扉が勢いよく開け放たれる。驚いて目を向けると、そこには使用人の服を着た男が息を切らして立っていた。
「オルチーナ様!!」
見知らぬ男の出現に反射的に身構えたがその男はイーサンには目もくれず、ドミトレスクだった黒ずんだ結晶体に駆け寄る。オルチーナ様、オルチーナさま、そんな風に何度も残骸に向けて呼び掛け続けていた。ドミトレスクや娘達とは違う、あまりに人間らしいその男にイーサンは戸惑う。そう言えば娘達を殺したときに知らぬ男の名前が飛び出していた。もしかしなくともこの男が──。
「おい、お前──」
声を掛けようと口を開くと同時に男がゆらりと立ち上がった。涙を浮かべた鋭い眼光が俺を写す。その手には銀のナイフが握られている。明らかな殺意にイーサンは開きかけた口を閉じて、一歩後退した。
「許さない!私の……私の主をよくも──」
男が叫ぶ。煌めく銀にイーサンは迷うことなく、銃の引き金を引いていた。
──タァン。
乾いた破裂音。男の胸元に血が滲んで、凶刃はイーサンには届かないまま床に落ちた。口端から血を溢し、男は呆然と血の吹き出す胸を押さえてよろめく。噎せるように血を吐き出して、ずるずると身体を引き摺ってドミトレスクだった物に近づいた。
「……オルチーナ、さま……」
膝から崩れ落ちるように座り込み、震える声で名前を呼ぶ。もうイーサンの事は眼中にないらしい。死の間際、残り滓の生をかき集めるように男は結晶化して崩れたドミトレスクの一欠片を掴み、ゆるゆると微笑みを浮かべた。
「……ひとりになんか、しません……いま、おそばに……」
それを最後に男は力なく倒れた。赤い血が辺りに散らばり、鉄さびの臭いを撒き散らす。暫く無言でイーサンは立ち尽くし、男の亡骸を見つめた。だが、いつまで経っても他の者のように結晶体にならない。ドミトレスクもあの虫の娘達も、ライカンでさえ白く砕けたのに、何故──そこでようやっと気付く。彼は人間だったのだ。あの呪われた城にいた、唯一の。
生暖かい彼の肉体を仰向けにして、開いたままの目を閉ざした。そしてその胸に結晶像を抱かせる。それがイーサンに出来るせめてもの情けであり、贖いだった。
「…………すまない」
古びたフラスクを拾い上げて、イーサンは城を後にした。
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