- ナノ -



今朝から調子が悪い。それでも、執事たるもの一時たりとも休むわけにはいかない。何故ならこの城の執事は私しかいないのだから。

歪みかけた視界を頭を振って振り払う。早く洗濯物を取り込んで、それから──

ふらり、傾いた身体に、踏ん張ろうとしたが出来なかった。反射的に伸ばした手は何も掴めず、飾り棚の上の調度品を薙ぎ倒しただけだった。けたたましい音が辺りに響き渡る。

(何たる失態を……)

片付けなくては、と床に張り付いた身体を持ち上げようと腕に力を入れて、何とか身体を起こす。心臓がおかしな脈を打ち続けている。心なしか身体も熱い。

熱を冷ますように一度深呼吸したものの意味はない。自覚しなければ平気だ。そう自分に言い聞かせて、私は床に散らばるガラス片に手を伸ばそうとした。

ぐにゃり、と視界が歪み、ガラス片に顔から突っ込みかけて、すんでのところで防いだ。手のひらが犠牲になってしまったが。
赤い血がボタボタと手のひらから溢れてくる。床から自分まで酷い有り様だ。

「あぁ!どうしたの!?」

「怪我してるわ!」

「お母様を呼ばなくちゃ!」

お嬢様達が駆け寄ってきて、私の身体を支えてくれた。ベイラ様が大慌てでオルチーナ様の自室の方へ走っていくのが視界の端で見える。私を覗きこむ顔はいつも以上に青白く不安げな色を宿していて、申し訳なさに私はぼそぼそと謝罪した。

「何言ってるの!?死ぬなんて許さない!」

「そうよ!貴方が死んだら、あたし……!!」

死ぬ、なんて大げさ過ぎるけれど、お嬢様がそれだけ心配してくれているのが分かって私はゆるゆると微笑んだ。それがより私を儚く見せてしまったらしく、カサンドラ様は今にも泣き出しそうな顔をする。

(私は歪んでいるな……)

お嬢様達のその心配そうな顔で嬉しさを感じてしまうのだから──。


カツ、カツというヒールの音を鼓膜が捉えた。オルチーナ様の足音だ。

「お母様!どうしましょう!?」

「落ち着きなさい、カサンドラ。ダニエラ、貴方はリネン室からタオルを。ベイラは厨房から氷水を持ってきなさい」

流石と言うべきか、オルチーナ様は私の状態を一目見て理解したのだろう。的確な指示をお嬢様達に出すと私の身体を軽々と抱き上げた。本来ならお仕えしなければならぬ主人に抱き上げられ、運ばれる情けなさに私は目を伏せる。

オルチーナ様は私の自室へ入るとベッドに私を丁寧に下ろした。

「……ありがとう、ございます。お手数をお掛けして……申し訳ございません、オルチーナ様」

「お前は働きすぎよ。城がいつ見ても埃ひとつないのは素晴らしいけれど、倒れてしまっては本末転倒だわ」

腕を掴むと、オルチーナ様は傷付いて、血にまみれた手のひらに舌を這わせた。舐め残しのないように指の間までぬるりと舌が入り込む。

「私は……この城で、たった一人の執事ですから……」

「バカね。たった一人だから、無理してほしくないのよ」

「……あぁ、オルチーナ様……」

「安心なさい。娘もちょっとくらい放っておいたって平気よ。私達はお前より数倍頑丈に出来ているのだから」

ありがとう、ございます。そう言うとオルチーナ様は小さく微笑んで、私の額に手を置いた。冷たい体温が心地よくて、自然と瞼が落ちる。そこから闇に引き込まれるのはすぐだった。


おやすみなさい──


最後にオルチーナ様の優しい声が聞こえた。





徐々に浮上する意識。微睡みながらも瞼を持ち上げた。目覚まし時計に起こされずに目覚めたのは久しぶりだな、と天井を見つめたままぼんやりと考える。窓から射し込む穏やかな陽気から察するにかなり長い時間眠っていたらしい。

(……珍しく、やらかしてしまった……)

自分の体調管理も出来ないなんて執事として最低だ。情けない。本当なら地下牢行きでもおかしくないのに、どういうわけか私はまだ、生きている。ふう、と小さなため息を吐き出して、先程から動かしづらい左手を毛布の中から出した。思わず笑みが漏れた。
明らかに過剰なほどに幾重にも巻かれた包帯。不器用すぎるそれはきっとお嬢様の誰かが巻いてくださったのだろう。そういう事には慣れていないお嬢様達が私のために四苦八苦してくれたのを想像するとわざわざ巻き直すのも気が引けて、私はそのままにすることにした。

額に乗った生温くなったタオルを右手で取り、私は身体を起こす。そして気がつく──ベッドの周りで眠る人影に。

寝づらいだろうにお嬢様達はベッドサイドで腕を枕にして眠っていた。もしかしなくとも夜通し看病し続けてくれていたのだろうか。まさか、私のために?

「あら。目が覚めたのね。具合はどう?」

「万全、とはいきませんが、眠る前よりかはずっと良くなりました」

「それなら良かったわ」

ぼうっとしていると扉が開いて背を屈めながらオルチーナ様が入ってきた。両手には水差しとグラスが握られている。オルチーナ様はサイドテーブルに水差しを置くと、グラスに水を注いで私の目の前に差し出した。いつもとは逆転している立場が慣れなくて、私は遠慮がちにグラスを受け取る。

「ありがとうございます」

失礼します、と一言告げてから、グラスを傾ける。冷たい水が喉を潤して、胃袋に流れ落ちていく。頭も幾らか冴えてきた。

「ご迷惑おかけして申し訳ございませんでした、オルチーナ様。お嬢様方にも……」

「死ぬんじゃないかって大騒ぎだったのよ」

「はは……それは、随分と心配お掛けしてしまったようで……」

「なら、死なないように見ときなさいって言ったらこれよ」

ため息混じりに笑い、オルチーナ様は周りで眠るお嬢様に視線を投げ掛けた。釣られるように私もお嬢様を見る。いまだ目覚める気配はない。お嬢様達の寝顔を眺めながら、私は毛布の端を握りしめて口を開いた。

「今回の失態は地下牢行きではないのですか?覚悟は出来ております」

かつてのメイドや侍従長のように。
血を搾り取られ骨と皮だけの躯となり地下を徘徊する幽鬼──モロアイカ。あれになるのは恐ろしいがそれでもオルチーナ様の願いがそうならば私は受け入れるつもりだ。

「……よくお聞きなさい」

「はい。どんな処分も甘んじて受けます」

「お前は──いえ、貴方は食料なんかじゃない。娘と同じ──私の家族よ」

「……え?」

一瞬思考が停止して、理解が遅れる。戸惑った表情を浮かべてオルチーナ様を見た。私の反応が面白かったのか、オルチーナ様は口元に手を当ててクスクスと笑う。

「娘達にも聞いてごらんなさい。……ほら、ちょうど起きたわよ」

身じろぎをして、腕を伸ばし、欠伸をひとつ。姉妹らしく同じ動作で目を覚ます。そして目を擦りながら私の顔を見て、数秒静止した。

「目が覚めたのね!」

「心配したのよ!」

「死んだかと思った!」

三者三様の反応をしながら、私に飛び付いてきた。三人分の衝撃と重みがダイレクトに胸部にぶち当たる。非力な私が支えられる訳もなく、そのままベッドに逆戻りさせられた。
六本の腕が私の存在を確かめるように身体に強く巻き付く。それは先程のセリフ同様、確かに私を案ずるもので。全身に伝わる熱を感じながら私はお嬢様達をそっと抱きしめ返した。

「ほら、言ったでしょう?」

「……はい」

やはり私はオルチーナ様を含めお嬢様達が好きだと、改めて感じた。



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