本当に酷い目にあった。元々運のない方だと自覚はしているが、とことんツイていない。橋を渡ろうとしたら突っ込んできたトラックに轢かれかけるし、あっちゃこっちゃでボウガンの的にされかけるし、下水溝を通ったせいで足元がびちょびちょに濡れて気持ち悪い。トドメは港の桟橋で躓いて海に着衣ダイブだ。重なり続ける不幸にナツキの気分はすでに最悪と最低を通り越していた。
二人の背中をひたすらに追いかけながら、ナツキは気付かれないように小さくため息をついた。疲れた、なんて言って俺のために戦っている二人の迷惑をかけたくはないが、かれこれ数十分ずっと走りっぱなし。こちとら文化部所属の運動不足の引きこもり学生なのだ。体力なんてこれっぽっちもない。じり貧の体力でここまで走り続けられたのは奇跡に近い。
走り過ぎてちょっと喉の奥から血の味がする。前の二人が歩調を緩めてくれたタイミングで俺は大きく息を吸い込んだ。
──キュィイイィン
「……ん?」
汗ばむ衣服の襟を掴んで扇いでいたら、劈くような金属音が聞こえたような気がして、ナツキは眉をひそめた。扉の格子の隙間から見えた人影に目を凝らす。細いロープが巻き付く茶染みのできた被り物をして、浅黒い色をした細長い身体、そしてその手には大きなチェーンソーが握られていた。さぁっと顔から血が一瞬して無くなるのを感じる。
被り物の隙間から覗くぎょろりとした目と目が合った。その瞬間、俺は絶叫していた。
「ぎゃぁああぁあ!!!???」
「ナツキ!シェバ!こっちだ!!」
ナツキの叫び声で、新手の敵──チェーンソーマジニの出現に気付いたクリスさんが大慌てで回れ右をする。今までの疲れなんてどこかに吹き飛んでいた。縺れる足を必死に動かしてチェーンソーマジニから距離を取る。背後から近づく、チェーンソーの唸る音がとてつもなく恐怖心を掻き立てた。
「な、何なのこいつ……!!あんなもので斬られたら一溜まりもないわ!!」
シェバさんが肩越しにチェーンソーマジニを睨みながら叫んだ。これまで幾人を斬ってきたのか、チェーンソーの刃は赤黒い血がこびりついている。
クリスさんはショットガンで、シェバさんはマシンガンでチェーンソーマジニに応戦しているが、状況は頗る悪い。痛覚が麻痺しているのか、中々怯まないし、倒れる気配がない。それにあの触手の化け物と比べて動きが素早くすぐに間合いを詰められている。
「あんなのどうやって倒せってんだ……」
二人が必死で戦っている中、俺は物陰に隠れて縮こまっていた。重ねられた木箱の後ろから二人の背中を見つめて、ハンドガンを握りしめる。
このまま指を咥えて見ているだけで本当にいいのだろうか。
「そんな訳、ないじゃん……」
自問自答して、俺はハンドガンに視線を落とす。まだ一度しか使っていない。不安はあるけれど、俺を守ってくれる二人の力になりたい。唾を飲み込んで、俺は顔をあげた。
触手の化け物を倒した時のように、何か使えるものがないかと周囲に視線を巡らせる。
(……あれ、使えるかも……)
あちこちに置かれている赤いドラム缶が目に入った。チェーンソーマジニに気付かれないように忍び足で近づいて中身を確認する。すんすん、と臭いを嗅ぐ。想像通り石油系の薬品臭がした。ガソリンだ。これを撃てばガスボンベの時同様、爆発して大ダメージを与えられるだろう。
「よし」
出来ることから少しずつ、だ。
意を決して、俺は一歩前に足を踏み出した。と、同時に耳の横から黒い何かが二本、にゅっと伸びた。
「え……?ひ、ひぃ!?」
それが人間の腕だと気付いた時には身体を拘束されていた。デジャブ。あの廃屋での出来事を思い出して、恐怖がぶり返す。二人に助けは求められそうにない。俺は振りほどこうと必死に手足をバタつかせた。
「この……離せっ!離せったら!!」
そう叫ぶと、どういうわけかいきなり手を離されて勢い余ったナツキは地面と不本意なキスをするはめになった。顔面を強かに打ち付けて、痛みに悶える。鼻がもげたかと思うくらいに痛い。涙をちょちょ切らせながら、取り落としていたハンドガンに手を伸ばした。
「「ナツキッ!!」」
呑気にハンドガンを拾い上げるナツキを覆うように影が掛かり、焦った二人の声が聞こえた。チェーンソーの音がいやに近い。ギギギ、とナツキは錆び付いた機械のようにゆっくりと顔をあげた。
「……んぎゃぁあぁあああ!!!こっちにくるなぁああぁああ!!!」
今まさに振り下ろされんばかりに上げられたチェーンソーに絶叫した。何とか立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。情けない事に腰が抜けている。万事休す。俺の命もここまでらしい。振り上げられたチェーンソーを見つめて、死を覚悟した。
「…………?」
見つめ合うこと数秒。
振り下ろす時間は十分にあった筈だ。それなのに、まだ真っ二つにはされていない。
「は?」
不思議な事にチェーンソーマジニはナツキには攻撃をくわえず、そのままUターンするとクリスさんとシェバさんを狙い始めた。一体全体どういう事なのか。訳もわからない。座り込んだまま、呆然とその光景を見つめた。
気が付けばチェーンソーマジニだけでなく、普通のマジニさえもナツキには攻撃してこなかった。疑問は抱きつつも、襲われないならそれはそれでいいか、と楽観的に考えて、立ち上がる。自分はさて置き、クリスさんとシェバさんはまだ戦っている最中だ。二人を追いかけ回すチェーンソーマジニに向けてハンドガンを構えた。
普通の人と殆ど大差ないシルエットに銃を向けるのは怖い。触手の化け物の時とは訳が違う。指先が震えた。上手く狙いがつけられない。
「しっかりしろ!俺……!」
頼りない自分を勇気づけて、俺は引き金を引いた。乾いた破裂音と腕に伝わる軽い衝撃。二人に当たったら、敵に当たらなかったら、なんて不安は杞憂で終わったようだ。
10メートル程離れた場所でがくり、と糸が切れたようにチェーンソーマジニは膝をつき、そして倒れ伏した。
「やった……」
倒せた。俺はへなへなとその場に座り込む。五月蝿いほどに鳴り響いていたチェーンソーの音はもう聞こえない。胸元を押さえて、張り詰めていた息を吐き出した。
「大丈夫か?」
「……はい、何とか。クリスさんも大丈夫ですか?」
「あぁ。ナツキのお陰でな」
目の前に差し出された手を掴んで、立ち上がる。シェバさんは──と視線を向けると丁度チェーンソーマジニの腰に付いていた鍵をもぎ取っている所だった。よくあんな奴の腰に付いている鍵なんて取れるものだ。俺だったら絶対に無理だ。近付きたくもない。起き上がってきそうで怖い。
「そう言えば、ずっと気になっていたんだが……"さん"なんて必要ないぞ?」
「へ?」
「ついでに敬語もいらない。堅苦しいのは嫌いなんだ」
「いいんですか?」
「勿論だ」
クリスさん──改め、クリスはにかっと笑った。釣られるようにナツキも笑顔を浮かべる。ちょっとだけ距離が縮まった気がして嬉しかった。
「何、二人してニヤニヤしてるの。先に進むわよ」
「何でもないさ」
駆け寄ってきたシェバさんが俺達を見て訝しげに眉をひそめる。俺はクリスは目を合わせて笑いあった。
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