オルチーナ様には三人の弟妹がいる。兄弟と言っても血は繋がってはおらず、年齢も様々。単にミランダ様が養子縁組したから兄弟になっただけ、という関係性だ。幼少期を共に過ごしたこともなく、それぞれがそれぞれの領地にいて滅多に会わないため、彼女らの関係は贔屓目に見ても良好とは言い難い。
特に村の南西に大きな機械工場を構えているカール・ハイゼンベルク様とは馬が、というよりはその出身が気に入らないらしく、オルチーナ様は一方的に毛嫌いしている。ハイゼンベルク様もそのような態度を取られればオルチーナ様を嫌うのも当然といえば当然で。会う度繰り返される嫌みと悪口の応酬にはほとほと参っていた。
それはさて置いて。一応、長女という立場のオルチーナ様は度々ミランダ様の命で弟妹への伝言を承ることもある。その仕事は勿論私に回ってくる訳で。
「ふぅ……」
白い息を吐き出して、お気に入りの厚手のコートの前を引き寄せた。これ一枚で大抵の寒さは凌いでくれる優れものだ。
薄く雪の積もった山道を踏みしめて、草をかき分けて前へと進む。時折獣の唸り声が聞こえてくるが、私が襲われることはない。彼らはそういう風に"躾"られているからだ。
そばの草木が揺れて、大きな影が茂みから出てきた。黒ずんだ肉体、白髪混じりの毛髪、口元からはだらしなく涎が滴っている。ぎょろりとした血走った目が俺を映す。吐息が届くほどに近い距離。私は何も言わずに見つめ返した。
微かに残る知り合いだった痕跡を見つけて、私は心の中で嘆息する。
あと何人あの村に私の知り合いは残っているのだろう?知らない。わからない。オルチーナ様に仕えるようになってから知ることを止めた。
(本当に私は……馬鹿な男だ)
自嘲して、目を伏せる。村を裏切り、オルチーナ様側についたのは私の意思だというのに。どのくらいそうしていたろうか。二、三度小さく唸ると再び茂みの中へと消えていった。
吊り橋を渡り、館の途中にある庭園に差し掛かると噎せかえるような花の香りが漂い始めた。癖のある花粉の匂いに眉間にシワを寄せる。あまり好みではない匂いだ。
道中にある少し上がった所に住んでいた庭師のヨーゼフ・シモンはもう、いない。特別交流があった訳ではないが、どことなく心が痛む。廃屋となって久しいそこに私は静かに黙祷してから、更に奥へと進んだ。
エレベーターに乗り、ようやっとベネディエント邸までたどり着いた。
ドアを四度ノックする。しかし、返答はない。念のためもう一度ノックを繰り返したが、結果は変わらなかった。仕方ない。ここの館の主の引っ込み思案は今に始まったことではない。「入りますよ」と声を掛けて、ドアを押し開けた。ドミトレスク城程ではないが、それなりに大きな館には様々な顔付きのビスクドールがあちらこちらに並べられている。しんと静まった玄関ホールを見回したが、人影どころか気配もない。地下の人形工房の方にいるのかも知れないな、と当たりをつけつつも一先ずは奥のリビングルームに向かおうと一歩踏み出した。
「……?」
何かが爪先に当たる。視線を下に落とすと毛糸だまが数個床に転がっていた。編み物をしていた途中のようだ。そばのテーブルには棒針がくっついた編み物が乗せられている。足元の毛糸だまはここから落ちたらしい。縺れそうな程に足元に散らばる毛糸だまを拾い上げて、椅子の上に避難させた。
「ドナ様どこに、」
「来てくれたんだ!アンジーとっても嬉しい!」
「──!?……驚かせないで下さい、ドナ様」
音もなく背後から声を掛けられて心臓が止まりかけた。ウェディングドレスを纏ったビスクドールはふよふよと浮遊しながら、驚く私を見てケタケタと可笑しそうに笑い声を上げている。
全くドナ様のいたずら好きはどこかダニエラ様を彷彿させる。流石にアンジー程、口は悪くはないけれども。
「あたしはアンジーだよ。ドナじゃない!」
「それは失礼致しました」
人形の名前はアンジーだが、それを裏で操っているのはドナ様なのに。不満そうに見上げられて渋々「アンジー嬢」と呼び直すとアンジーは満足そうに頷いた。
「──ではアンジー嬢、こちらをドナ様へお渡しいただけますか?オルチーナ様からの書状です」
「なんだぁ、遊びに来たんじゃねーのかよ」
私の手にある手紙を見るとつまらなさそうに口を尖らせる。ぱしっと乱暴に手紙を掠めとると、奥のリビングルームへ飛んでいった。
遊びに来れるような暇があるなら私は城のロフトや隠し部屋の掃除をしている。あの辺りは他の部屋と比べると掃除を後回しにしがちで埃が溜まりやすいのだ。
「あ、あの……」
「ドナ様、お元気そうで何よりでございます」
か細く消え入りそうな声が聞こえて顔をあげると、リビングルームに続くドアの隙間から顔だけを出してこちらを覗いているドナ様がいた。会釈をするとあたふたとして一度奥に引っ込み、それからおっかなびっくりとした調子で私の前に出てくる。相変わらず顔は黒いヴェールに隠されていて窺えない。
「よ、良かったら……お茶でも……。クッキーを、焼いたから……」
ロングスカートをシワが寄るほどに握りしめている。緊張からか声は心なしか上擦っていた。
「ハイゼンベルク様とモロー様の所にも行かねばなりませんので申し訳ございませんが……」
お茶会の誘いは嬉しいが、生憎私の仕事はこれで終わりではなく、ハイゼンベルク様とモロー様も訪ねなければならないのだ。
「そ、そう……そうだよね……」
明らかに肩を落とし、落胆した様子のドナ様につきりと心が痛む。「すみません」と謝罪を重ねていると、背後から軽く頭を叩かれた。振り返るとアンジーが浮いている。カタカタと身体を震わせて、小さな手を振り上げてきた。
「折角ドナが誘ってるってのに!断るってか!?てめぇなんかおっさんと入れ違いになっちまえばいいんだ!」
「……アンジー嬢それはどういうことで?」
意味を計りかねてアンジーに聞き返すと、代わりにドナ様がおずおずと答えた。
「あ、あの……ハイゼンベルクは、ラジオを直しに来てくれるから……待っていた方が……いいと思うの……」
「あぁ、そういう事でしたか」
「じゃ、じゃあ……」
「えぇ、良いですよ」
顔は見えないが、声色だけでドナ様が喜んだのが分かる。用意してくるから待ってて、とドナ様はキッチンに駆けていった。
◇
リビングルームで私とドナ様は向かい合っていた。隣の席にはアンジーが座っている。紅茶の良い匂いと焼き菓子の甘い匂いが混じり合うテーブルを囲う。
お互いにお喋りに花を咲かせるようなタイプではないため、カップを動かす音だけが部屋に響いていた。ふと見るとドナ様のカップが丁度空になっている。すかさずポットに手を伸ばした瞬間、小さな手が私の手を振り払った。
「ったく、てめぇは黙って紅茶啜ってりゃいいんだよ!」
「申し訳ございません。つい癖で……」
職業柄自分がもてなされる側に回るのはどうにも慣れない。数度目のそれにアンジーは心底うんざりしたように、けっと吐き捨てた。
「城じゃねぇんだからここでまで働く必要ねぇんだよ。ドナの心遣いに気付けよニブ男!」
「そうだったのですね。ありがとうございます、ドナ様」
「え!?……う、うん……ここではちょっとくらい、休んでほしい……」
油断していたのか、会話を振られてドナ様は大袈裟に肩を跳ねさせてこくこくと何度も首を上下に振った。
「ですが、お気持ちだけで十分です。他人に尽くすことは私の性に合っていますので」
鍬を握るよりもこちらの方が合っていると気付いたのはオルチーナ様に仕えるようになってからだが。
ぎこちない手つきで紅茶を注ごうとするドナ様の手からポットを取り返して、手慣れた動作でカップに紅茶を注いだ。「おい」とアンジーが不満げな声を上げる。それに私は微笑みを返して、クッキーに手を伸ばした。
「これだから仕事バカは……」
「誉め言葉として受け取っておきます」
「誉めてねぇーっての!!」
「クッキーとても美味しいですね。今度作り方を教えていただきたい」
「無視かよ!ふざけんな!!」
騒ぎ立てるアンジーをスルーしたら、小さな両手でぽこぽこと叩かれた。細やかすぎる攻撃を片手で制しながら、もう片方でクッキーに手を伸ばす。
「じゃあ、また、来てくれる……?」
「そう、ですね……すぐにとは言えませんが、また近いうちに」
「レシピ用意して待ってるから、絶対来てね」
絶対だよ。と念押しするドナ様に頷いて答える。喜ぶ気配を察して、私も微笑みカップに口をつけた。
かぐわしい紅茶の香りを楽しみながら、私は目を細める。シワの深い顔が赤い水鏡に映った。こんな風に過ごすのは久しぶりだ。時間が過ぎるのが緩やかに感じる。
「よう、邪魔するぜ」
そんな声と共にやってきたのは、ハイゼンベルク様だ。隣にいたはずのアンジーがいつの間にやらハイゼンベルク様の足元にいてきゃっきゃと跳ね回っている。まとわりつくアンジーを適当にいなしながら、ずかずかと大股でリビングに入ってきた。
「何だ、てめぇもいたのか」
私の姿を認めると片眉を上げて、物珍しそうにじろじろと眺めてくる。あまり気分の良い物ではないが、何も言わずに私は立ち上がった。
「どうも、ハイゼンベルク様。オルチーナ様からの書状です」
挨拶もそこそこに私は懐から手紙を取り出して、ハイゼンベルク様に差し出した。オルチーナ様の名前を出した瞬間、顔に嫌悪感を露にする。隠そうともしないその反応に私は苦笑した。
「ミランダ様からの伝言だそうです」
「だろうな」
心底面倒そうにため息をつく。受け取った手紙を皺が寄るのも気にしないで雑に懐にしまいこんで「ところで」と続けた。
「そろそろ転職は考えてねぇのか?あのババアんとこが嫌になったらいつでも俺のとこに来てもいいんだぜ。てめぇの器量は俺も認めてんだ」
「私は何があろうとオルチーナ様の執事を辞めるつもりはありませんよ」
「そりゃ残念だ」
ハイゼンベルク様はその言葉とは裏腹に全く残念そうな顔もせずに笑っていた。
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