- ナノ -


今はすっかり使われなくなった歌劇場の掃除をする。時折お嬢様が来るくらいでほとんど無人だというのに、埃だけはしっかりと溜まるのは何故なのか。調度品にはたきをかけながら、私は静かに息を吐き出した。出来れば今日は北棟は全部済ませてしまいたい。その後は──

「ねぇ」

不意に声を掛けられる。この声はベイラお嬢様か、と声色で背後に立つ人物を判別しながら、手を止めて振り返った。

「いかがなさいましたか?」

薄く笑みを浮かべたベイラ様は今しがた掃除をしたばかりのピアノの椅子に腰かけて、鍵盤を端から指でなぞった。久しく使われていないとはいえ、高価なグランド・ピアノは今も問題なく音を奏でる。高音から低音に音が流れて、そして止まった。

「久しぶりに音楽が聞きたいわ」

「でしたら、何かレコードでもお掛けしましょう」

その言葉の裏に隠された要求にあえて気付かない振りをして、レコードを勧めるとベイラ様は不満げに頬を膨らませた。

「わかってる癖に意地悪なのね。ピアノの音が聞きたいの。ねぇ弾いて」

「プロのようには弾けませんよ」

「いいの。ほら」

ベイラ様は立ち上がり、席をあけると椅子をぽん、と叩いて催促する。「仕方ありませんね」と苦笑混じりに頷いて、はたきを傍に立て掛けてピアノの鍵盤に指を乗せた。

息を整えて、指先に力を入れた。混じりけのない透き通ったピアノの音が歌劇場に響く。この地方の古い民謡だ。緩やかなメロディに、ハミングが重なった。ベイラ様が目を閉じて、リズムを取りながら鼻唄を奏でている。私は目を細めて、ピアノの鍵盤を叩き続けた。

それから幾つ曲を弾いただろう。民謡から始まり、ソナタ、クラシック──ベイラ様の希望を叶え続けているうちに、気がつけば歌劇場の椅子にオルチーナ様とカサンドラ様、ダニエラ様が座っていた。血のように赤いワインの入ったグラスを揺らして各々優雅に楽しんでいる。

穏やかな一時。この時間がいつまでも続けばいいのに、そんな事を思いながら私はピアノを奏で続けた。


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