- ナノ -


夕食を終え、雑務をこなす。もう一日が終わろうかという時間だが、私にはまだまだ仕事は残っている。執事の一日は主人よりも長いのだ。皿洗いを終えた後は明日の食事の準備、それから城の見回り。自室に戻って明日の予定の確認。そしてやっと就寝だ。

毎日のルーティン。

洗い終えて籠に干していた皿を拭いて、戸棚へしまう。ガラス扉を閉じて、すぐそばにある食料保存庫の中を覗いた。もう少しでオルチーナ様が好んでいるハムが無くなりそうだ。また取り寄せておかねば。

ちりん──微かに聞こえたベルの音に私は顔を上げた。オルチーナ様の寝室からだ。胸ポケットに入っている懐中時計で時刻を確認する。十一時を過ぎようとしているところだ。

(この時間帯であれば……)

ワゴンを引き寄せて、オルチーナ様専用のワイングラスと生ハムを用意する。厨房にある簡易の小さなワインセラーからワインボトルを取り出すと、私はワゴンを押して足早に寝室へと向かった。

寝室に入るとオルチーナ様はソファに座り、読書をしていたらしい。私の入室に気づくと手元の本を閉じて、緩やかに笑みを浮かべた。

「オルチーナ様、ワインを持って参りました」

「流石、私の執事ね。準備がいいわ」

「ありがとうございます」

蝋燭の柔らかな光のせいか、どこか妖艶ささえ感じさせるその微笑みに私は恭しく頭を下げた。そして直ぐ様夜食の準備に取りかかる。本が積まれた机に軽食を並べ、グラスにワインを注いでオルチーナ様の手渡した。

「退室した方が?」

「そこにいなさい」

「かしこまりました」

半歩後ろに下がり、オルチーナ様の後ろに控えた。
オルチーナ様は芳香を楽しむようにグラスの口に鼻寄せて、それからゆっくりと傾ける。血のように赤いグラスから、血のように赤いワインが流れていく。二、三口程飲み、オルチーナ様はワイングラスを置いて静かに息を吐き出した。

「お母様が……もうじき儀式を始めると仰っていたわ」

「儀式、ですか」

詳しいことは何一つ聞かされてはいない。ミランダ様が何か大きな事をしようとしているということだけはオルチーナ様の顔でうかがい知れた。

「何事もなく終わればいいのだけれど」

僅かに憂いを帯びた横顔。常に強く、美しくあらせられるオルチーナ様の滅多に見せぬ表情に、どう言葉を返すべきかと逡巡する。けれど、何も言えないまま時間が過ぎた。パチパチと薪の弾ける音だけが響く。

「……件の件について、何も存じ上げませんが……私に出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」

「そうね。お前は何も……何も知らなくていいのよ」

「……何故ですか」

「愚問ね」

「失礼致しました」

答えるつもりはない。そういう意味合いの返答だと瞬時に判断して頭を下げる。別段気にした様子もなく、オルチーナ様は優雅にワインを楽しんでいた。残量に気を配り、私は残り少ないグラスに再度ワインを注ぎいれる。独特の芳香が鼻腔を擽った。

「私はオルチーナ様とお嬢様がいらっしゃればそれ以上は何も望みません」

「私も同じよ。儀式なんて本当はどうでもいい……娘達と、お前さえいてくれれば……」

「それはミランダ様には秘密にせねばなりませんね」

「秘密……えぇ、そうね。ふふ……」

人差し指を口許に寄せると、オルチーナ様は小さく笑みを浮かべる。

「本当に……今が続けばいいと思うわ」

それは誰しもが願うような細やかな願い。悠久を生きる彼女もやはり、元々は人間なのだと感じた。
「そうですね」と私は肯定する。金色に輝くオルチーナ様の瞳が私を映して、細められた。

「もう就寝されますか?」

「ええ」

「では……」

オルチーナ様のそばに膝をつき、懐から小振りの銀ナイフを取り出した。就寝前のいつものやり取り。毎日ではないが、こうして呼び出された日は血を差し出している。

戸惑いなく自分の左手首に銀ナイフを滑らせた。もう何度目だろう。この行為にも慣れてしまった。薄い皮膚に線が入り、熱を持つ。赤い液体が滲んだ。痛みに微かに表情を歪めたが、何も言うことなくただ腕をオルチーナ様に差し出した。

暗がりでてらてらと妖しく光りながら滑らかな舌先が手首をなぞる。

「濃厚な風味……何度味わっても衰えないわね」

オルチーナ様は一頻り血を啜ると舌舐りをして、口角を吊り上げた。切り方が甘かったのか、血は止まっている。右手のナイフを再度左手首に添えようとするとオルチーナ様に遮られた。

「もういいわ」

「よろしいのですか?」

意外にも一口で切り上げたオルチーナ様に首を傾げる。もしや具合が悪いのだろうか。と不安を抱く。

「お前が考えているような事はないから、安心なさい」

私の心を読まれていたらしい。ふん、と鼻を鳴らして、オルチーナ様は机の引き出しを開けた。そして薬瓶と包帯を取り出すと、私の腕を掴む。

「お、お待ちください。オルチーナ様のお手を煩わせる訳には……」

「お黙り」

「ですが──痛ぅ、」

消毒液が傷口に沁みて、激痛が走った。顔を歪めた私の頭上でため息が聞こえて、手首に包帯が手早く巻かれる。

「血を求める私が言うのも何だけれど……お前はもっと自分を大切にしなさい」

「……はい」

左手首にそっと唇が落とされて、先程とは違う熱が集まった。


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