side:Ethan
「あ、水道あるじゃん!水出る?手が血まみれだったから洗いたかったんだよね!」
壁際にひっそりと取り付けられた小さな洗面器を見つけてナツキが駆け寄る。こんな時に手が洗いたい、なんて呑気な奴だ。よっぽど手を洗えるのが嬉しかったらしく、鼻歌が聞こえてくる。
つり橋にはビビり散らす癖に、ライカンには果敢に向かっていくし、妙なとこ図太い。本当におかしな男だ。だが、ナツキがいるお陰でチクチクと嫌な所を突いてくる精神攻撃のダメージが軽減されている気がする。独りだったらどうにかなっていたに違いない。
ご丁寧にすぐそばに吊り下げられていたタオルで濡れた手を拭いながら、ナツキは満足そうに振り返った。
「スッキリしたぁ」
「義手は水に濡らして大丈夫なのか?」
「これ防塵防水だから平気だよ」
「へぇ、便利なもんだな」
ナツキの着けている義手は鈍色の指先さえ隠されてしまえば動作も何もかも本物の腕と遜色ない。自分の知らぬ間に科学技術も随分と進歩したものだなと考えつつ、そういえば、と血に濡れた指輪の存在を思い出す。
「あ、イーサンも手洗う?」
はいどーぞ、と場所を譲られた。手を洗うつもりはないが、いちいち否定するのも面倒で曖昧に頷いて蛇口を捻り、水を出す。
冷えた水が指先を濡らす。ナツキの言う通り、血を洗い流すと気持ちは幾らか晴れるような気がした。
「それって結婚指輪?」
ひょこりとナツキが手元を覗きこんできた。「あぁ」と頷いて答える。こびりついた血を洗い落とすと六桁の数字が内側に刻み込まれているのが見えた。見なくても分かる大事な日付。ミアとの思い出。
「そっかぁ……結婚って良い?俺結婚とは無縁っていうか……」
出来ないから──その言葉の意味を計りかねて、イーサンは眉をひそめた。
「まあ結婚は……いいと思うぞ?家族が増えるからな」
一概にはいえないとは思うが、イーサン自身は結婚してよかったと思っている。大変な目に巻き込まれてはいるが、愛娘のためなら頑張れる。家族とはそういうものだ。
ナツキから受け取ったタオルで指輪を拭い、そっと上着のポケットにしまいこむ。
「家族、か……」
どこか物憂げにナツキは呟いた。
「もう家族、いないのか?」
「ううん。いるよ……お父さんが一人。血は繋がってないけど」
成る程。複雑な家庭環境、というのは理解した。ナツキの身の上がひとつ知れて、少し警戒心が解ける。
「なら、生きて帰らないとな」
「はは……そうだね」
ナツキは何故か困ったように笑いながら、頬を掻いていた。
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