ゆっくりとクリスの胸元から顔を離した。目元が熱を持っている。きっと腫れてしまっていて、今のナツキの顔は見れたものじゃないだろう。
目尻に残った雫を袖で拭い、ナツキは気合いをいれるようにぺちんと顔を叩いた。こんな大変な時に取り乱すなんて我ながら本当に馬鹿すぎる。
もう大丈夫か?と尋ねてくるクリスに頷いて答えた。
これから先何があっても俺にはクリスがいてくれるから。それが何よりも心の支えになってくれる。だから、大丈夫だ。
『庫内の減圧が完了しました。扉のロックを解除します』
気圧の調整の終了を告げるアナウンスが響いた。赤から緑へと正常動作に戻った扉を確認しようとしたら、ピアーズと目が合い、気まずさに視線を斜め右上に泳がせる。ふ、とため息が聞こえて、ピアーズが歩み寄って来た。おずおずとその顔を見て、また怖くなって視線を落とす。
「──……ナツキ」
「ぅ、うん……」
「無理すんなよ」
身構えていた俺に掛けられたのは労りの言葉で。本当なら怒ったっておかしくないのに、ピアーズはただそれだけ言って踵を返して扉の方へと歩いて行った。
言葉少なだったけれども、許されたような気がして肩の力を抜けた。
「ナツキ、さぁ急ぐぞ」
とんとクリスが肩を叩き、ナツキを促す。黙ったままナツキは静かに頷いて、クリスの背中を追いかけた。
水密扉のバルブを回し、重そうな扉をクリスが押し開けて先へと進む。細い通路が橋のように伸びた広い空間に出た。
『施設内に異常発生。圧壊の可能性があります』
アナウンスの落ち着いた声色に騙されそうになるが、内容はとんでもなくヤバい。アナウンスと共に地鳴りのような音を響かせ、激しく揺れ始める建物に顔をひきつらせた。安心するにはまだ早いようだ。
『施設内のスタッフは至急、避難してください』
聞くや否や、三人は一斉に駆け出した。通路は脆いところからすでに崩れ始めていて、足場は秒読みで無くなっていく。
地面を蹴り、跳躍する──背後で先程までいた足場が壊れた音がした。迫りくる崩壊に息をのむ。
「くっ!なんだこれは!?」
ジュアヴォの蛹が通路を塞ぐように壁になっていた。硬く聳え立つそれは、そう簡単には破壊できず、乗り越えられそうにない。周囲にあった蛹から変異したジュアヴォも生まれて、状況は悪くなる一方だ。
「俺が壊す!下がってて!」
手頃な瓦礫を右の触手で掴み、渾身の力で殴り付ける。だが、一撃では表面に少しヒビを入れただけだ。続けて二撃目を加えようと腕を振り上げたが、背後からジュアヴォの気配が迫った。
「後ろは任せろ!お前は破壊に集中しろ!」
「──っうん!」
ピアーズが背後に迫る敵をショットガンで吹き飛ばし、ナツキを守るように立ち塞がる。背中合わせの頼もしさに口元が緩む。期待に応えるべく、ナツキは振り上げた触手を壁に打ち付けた。
壁は砕け、道が拓ける。
「壊れたよ!行こう!クリス!ピアーズ!」
応戦していた二人に声をかけて、ナツキは走り出した。道中にいた敵はクリスとピアーズが牽制射撃で動きを止めて、一気に駆け抜ける。
通路の先の扉を飛び付くように開けて、奥に転がり込んだ。丸い形をした脱出ポッドが並んでいる。敵は居ないようだ。クリスが一番手前のポッドの操作端末に駆け寄り、操作し始めた。ピアーズもその脇に立ち、端末を確認している。
二人の背中を眺めて、ナツキは小さく息を吐き出して自身の右腕に視線を落とした。赤黒い触手は絶えずぐにゃぐにゃと動いている。人ではない事を再度実感して、顔を顰めた。
このまま脱出したとしても、クリスに迷惑を掛けるだけじゃないのか。二人は気にしないと言ってくれたけれど、他の人はきっとそうじゃない。こんな腕じゃ、誰がどう見ても……化け物だ。
不安がわき上がる。脱出すると言ったのにこんなネガティブな発言をしたらクリスは怒るだろう。まだそんなことを言っているのか、と。分かってはいるが複雑な気持ちだ。
(せめて、この腕さえどうにかできれば……)
目についたのは二人の腰に付いているコンバットナイフだ。戦闘用に造られた刃は長く太い。もう一度自身の右腕を見る。
想像して少し心臓が冷たくなったけれど、やっぱりそのくらいしか思い付かなかった。元の腕は潰れて海の藻屑になってしまったし、飛び出した触手はナツキの意思ではどうしても自分の中に戻せそうにない。なら仕方ないじゃないか。
生唾を飲み込んで、クリスの装備に手を伸ばした。
「よし……いけるぞ」
ナツキがコンバットナイフをくすねるのと同時にクリスが操作を終えて振り返る。そしてナツキの手の内にあるナイフを見て顔色を変えた。
「……ナツキ、どうするつもりだ、それを……」
「死ぬつもりじゃないから、大丈夫だよ」
声を固くして、顔を強張らせるクリスを安心させるようににっこりと笑ったけれども、それは悪手だったらしい。クリスは余計に顔色を悪くさせたし、ピアーズが眉間に皺を寄せて一歩前に踏み出す。「大丈夫」と再度告げても意味はなく、三人の間には緊張感が走った。
「えっと……多分さ、このままじゃ……シェバにも会えないと思うんだ」
だから──と、俺は息を止めて、左手に握ったコンバットナイフを右肩の付け根に添える。クリスの止める声も無視して一気に引き下ろした。
「──っ!」
激痛に目眩がしたが、耐えられないほどではない。幸い途中でつっかえること無く、スムーズに切り落とせたから余計な痛みも感じずに済んだ。それでも直後は痛みに全身が震えて、ナイフを取り落とす。からん、と乾いた音を立ててナイフが地面を滑り、ナツキから離れたというのにまだ動いている触手に当たって静止する。
痛みを逃すように深呼吸をして、血とも体液とも言えない何かが溢れる右肩を押さえた。腕も触手も無くなって違和感がある。
「──馬鹿な事をするな!!」
「わっ!?ご、ごめん……クリス……」
わなわなと唇を震わせ、クリスは怒鳴った。良かれと思ってやった事でここまで怒られると思わず、ナツキはおどおどと謝罪する。
「別にその、死ぬつもりじゃ──」
「……痛かっただろう?……無茶するな」
尤もらしい言い訳を並べるよりも前に、ぽんぽんと頭を撫でられた。言葉を忘れて、ただクリスを見つめる。そして、気づいた。
また心配かけてしまった。
また、悲しませてしまった。
ほんの少し自己嫌悪。空回りしてばかりだ。
「……行きましょう。隊長、ナツキ」
「あぁ」
黙って成り行きをみていたピアーズが脱出ポッドの扉を開けて、静かに声をかけた。クリスが相槌をうち、ナツキの手を掴んで歩きだす。
離さない、というように強く握り締められた手からクリスの感情が伝わってくるようだった。ナツキも謝罪の意味を込めて握り返して、共に脱出ポッドに乗り込んだ。
がこん、と扉が閉まり、ポッドは射出に向けて動き出した。
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