- ナノ -


side:Chris

そう遠くない所で水の跳ねる音がして、クリスは再びハオスが動き出したのかと思ってぎくりと振り返った。だがハオスは倒れたままの状態で動いていない。ピアーズはクリスの横にいる。後はナツキくらいだ。恐らくコンテナの上から飛び降りたのだろう。

「ナツキ?」

水音が聞こえてから、少し待ったのにナツキが来ない。広いと言えど端から端まで歩いたって十秒掛からないだろう大きさだというのに。再度「ナツキ、どうした?」と呼び掛けても返事はなく、クリスは不審に思って音のした方へ向かった。

「ナツキッ!?」

ハオスが倒れているコンテナの陰を覗いて目を見開く。ナツキが苦しげに胸元を押さえて、蹲っていた。急いで駆け寄り、その背に手を添えて安否を確認する。

「!?」

少し長い前髪の隙間から煌々と光る赤い瞳に背筋が凍った。あの日を思い出す──ウェスカーに操られたナツキと相対したあの日を。

「ナツキ!しっかりしろ!気を確かに持て!」
「く……くり、す……」

カタカタと身体を震わせて、ナツキは何か溢れてしまいそうなものを堪えるようにぎゅうっとシャツを皺ばむ程に握り締めて、唇を戦慄かせながら「ウロボロスが」と青白い顔でナツキは漏らす。
右肩から飛び出す触手はナツキの弱々しい声とは反対にナツキの身体を飲み込まんばかりに活発さを増していた。

「い……一体何が!?」

ピアーズが尋常ではないナツキの様子に尋ねてきたが、それに答えている余裕はない。ナツキの背中を撫でて何度も名前を呼び続ける。

「ナツキ!ナツキ!!しっかりしろ!」
「く、りす……」

うわ言のように名前を呼ぶナツキに嫌な予感が胸を過った。

「おれを、ころして……も……むり、か、も……」

その言葉にクリスは首を振り「ダメだ」と独り言のように呟く。ナツキを殺すなんて、クリスには出来やしない。それに、約束した。必ず助けると。名前を呼び続ける、と──

「ナツキッ!!」

もう返事はなかった。代わりに触手がクリスの身体を掴むように巻き付く。至近距離で迫った触手を避けられず、クリスは容易く締め上げられて足が地から離れた。

「──ぐぁっ!」
「隊長!?くそっ!ナツキ!どうしたんだよっ!?」

一切の手加減などない締め付けにクリスは呻く。突然の事にピアーズが反射的に銃を構えるも、ナツキは反応しない。ただ目の前の敵を殺そうと、殺意だけを瞳に宿している。

赤く煌めくその瞳はウェスカーを思い出す。自身のかつての隊長の姿を思い出し、俺は顔を顰めた。一歩、また一歩と距離を詰めてくるナツキに、ピアーズは同じように一歩ずつ後退していく。銃を構えているものの、撃つのを躊躇しているのか、引き金が引かれることはない。

「ナツキッ!!ぐっ……!!」

名前を叫ぶと触手の締め付ける力がきつくなった。まるで、それ以上名前を呼ぶな、とでも言うように。ならばまだナツキの意識は完全には呑まれていない。元に戻すチャンスはある。

だが、このまま縛り上げられたままだと身体が上と下に分かれてしまいそうだ。ナツキを傷付けるのは気が引けるが致し方ない。辛うじて動く右腕を腰に伸ばしてコンバットナイフを抜き、自分を拘束する触手を薙いだ。弾力のある触手が赤黒い液体を撒き散らし、俺は緩んだ触手から抜け出した。

「ぐあっ……!!」

ナツキが苦しげな悲鳴を上げて、二、三歩よろめく。その様子に罪悪感を抱きながらも、血塗れになったナイフを握り直した。

「隊長……どうすれば?」
「……ここは俺に任せてくれ」

隣に来たピアーズを手で制し、クリスは此方を睨むナツキを穏やかな目で見返した。

「……ナツキ」

名前を呼ぶ。クリスは信じていた。ウロボロスに呑まれようとも、またナツキは戻ってくる、と。

ナツキが右腕をもたげた。切った筈の触手は再生し、更に数を増やしてうねっている。ナツキの首や胸元にまで渦巻き始めた触手に信じているとはいえ、焦りを覚えた。

天井近くまで伸びた触手が、クリスを目掛けて振り下ろされる。

「ナツキ……戻ってこい!」

赤い瞳を真っ直ぐに見つめて呼ぶ。ピアーズが危険だと叫ぶ声が背後から聞こえたが、俺は動かなかった。

──信じて、いたから。

ずしん、と触手が振り下ろされた。

「ナツキ……」

結果として触手がクリスを傷つける事はなかった。すぐそばに落とされた触手を横目に見て、クリスは一歩前に踏み出す。ナツキの表情が怯えたように震えた気がした。

「ナツキ、帰ろう……俺と一緒に」

手を差し出して、俺は言葉を投げ掛ける。赤い瞳は殺意と恐怖と怯えが混ざりあって不安定に揺らいだ。

どうしてナツキにはこんなにも辛い運命しかないんだ。いつもそう、自己犠牲ばかりで。そんな必要ないのに、自らを犠牲にする。いつだって理由はこうだ。

──俺はB.O.W.だから。

確かにナツキは他人よりも頑丈かもしれない。力が強いかもしれない。それでもクリスからすれば人間と何一つ変わらない、普通の子供だ。ちょっぴり臆病だけど、正義感はあって、心優しい──だからこそ、クリスはナツキを好きになったし、大切にしたいと思った。

溶岩の中に飛び込んだナツキの背中を思い出して、つきりと胸が痛んだ。

「どんな姿になったって、ナツキはナツキだ……俺はお前が戻ってくるって信じている」

みるみるうちにナツキの赤い瞳を水の膜が覆って潤む。頬を伝い落ちていく雫は今までに見た中で何よりも悲痛な色をしていた。

「……くりす、クリス……クリス……!」

ぐしゃぐしゃに顔を歪めてナツキは何度も俺の名前を呼び、そしてショックを受けたように呟いた。

「俺……また、クリスを傷付けた……!」

叱られた子供のようにナツキは眉を下げ、頭を抱えて蹲った。嗚咽を漏らしながら、ナツキはただただ謝罪を繰り返す。

「ごめん……ごめんなさい……クリス……ダメだよ、やっぱり……俺、」

──存在しちゃ、いけないんだ。

吐き出された言葉の鋭利さにクリスは身体の動きを止めた。

違う。そんな事はない。あの時、明るくて仲間想いなナツキにどれだけ救われたか。俺だけでなく、シェバもきっとそうだ。

蹲るナツキに歩みより、クリスは何も言わずにただ抱き締めた。触手ごと強く。

「……っ」

ナツキがびくりと肩を震わせて、クリスから逃げようとしたが、後頭部を押さえて胸に押し付けた。腕の中でナツキが小さく震えているのが伝わって、抱き締める力を強める。

「……約束しただろう?」
「…………」
「呼び続けるって」
「……、」
「ずっと呼んでやるから……」
「……」
「だから、そんな悲しい事を言うな、ナツキ」

ナツキは何も言わなかった。
ただ涙を流して俯いていた。

「ナツキが俺を大切だって言ってくれたように、俺もナツキが大切なんだ」
「……クリス……」

ミリタリーベストをぎゅっと握り締めて、ナツキは顔を上げる。

「おれ……本当に、クリスのそばにいて、いいの?クリスが憎んだ人に造られたのに、それでも?」

不安げに投げ掛けられた問いの答えはとっくの昔にクリスの中で決まっていた。背中をとんとんと撫でながら、クリスは頷いて優しく微笑んだ。

「いいさ。俺はナツキだから好きになったんだ」
「……うん……ありがとう」

ナツキが泣き止むまで、クリスはずっと抱き締めていた。



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