- ナノ -
奇妙な融解と突然の別離からはや一ヶ月が過ぎようとしていた。正直ショックで寝込みそうになったが、有給で溜まった仕事に忙殺されて落ち込むことも出来ないまま数日が過ぎ、その頃には気持ちは比較的落ち着いていた。

久々の休みだったが家にいるとブイの姿がちらついて辛くて、気がつけば家を飛び出していた。とはいえ、何か用事があった訳でもない。行く宛もなくふらふらと公園のベンチに腰かけた。

夢だった。で済ませるつもりもないが、別世界の人間にもう一度会える確率なんて宝くじを当てるよりも低いだろうし、そもそもこんなことを誰かに話しても高確率で信じて貰えない。

"V"と書かれた詩集だけが、あの日の証になっていた。どこに行くにも鞄に忍ばせて、時間があればこうしてページを捲っている。何度も読み返しては、ブイの事を思い出す。

「ブイ……会いたいな」

風が言葉を拐っていく。きゃっきゃと遊具に向かって駆けていく子供達の姿を眺めてイオリは嘆息した。

ふと、視線を落とすと本のあるページが光っていた。摩訶不思議な出来事に目をしばたたかせる。恐る恐るそのページに指をいれて、一思いに捲った。

「……っ!」

目映い閃光に視界が真っ白に染まって、身体が引っ張られる感覚がした。まるでジェットコースターのように、強く身体が引かれ、風音が激しく鼓膜を打ち付ける。ブイの本だけは手放したくない、と強く抱き締めて、訳のわからない現象にひたすらに耐えた。

そこまで長い時間ではなかった。唐突にそれは収まり、イオリは尻餅をつく。

「は、どこだよ……ここ……」

先程までの青空は曇天に、緑豊かな公園は消え、赤黒い地面と巨石がいくつも転がっていた。あんぐりと口を開けたまま目を擦ったが、目の前の景色は変わらない。肉の腐った臭いと鉄さびの臭いが混ざりあって酷い悪臭が鼻に刺激を与えてくる。吐き気を催すそれを堪えながら、一先ず歩いてみることにした。

「まじでどこだ……」

辺りを注意深く見回したが、人の気配はしない。というか街ですらない。

戦々恐々としながら、しばらく歩いたが風景に大した変化はなく、物音もしないし静かだ。このまま誰にも会わなかったら──餓死。

「笑えねぇ……」

最悪の展開を想像して頭を抱えた。本当にそれだけは回避したい。死ぬときは大往生って決めているのだ。

そんなことは置いといて。
現状を打破するためには歩くしか無さそうだ。歩いていれば何れどこかしらの人里にでもたどり着くだろう。ブイみたいにグリフォンやシャドウのようなお供がいれば上から世界を見渡せただろうが生憎イオリにはこの身ひとつしかない。装備品はブレイクの詩集のみ。身に付けていた筈の鞄はここに飛ばされた衝撃で失くなっていた。

あまりにも心もとない装備品だが、イオリにとってはお守りがわりの大事な物だ。失くなっていなくて良かった。

「ブイって地味に自己主張激しいよなぁ……」

名前を書くにしたってハードカバーの表なんて中々思い付かない。著者の名前より目立っている。表紙の大きく書かれたVの文字をそっとなぞり微笑んだ。

「ん……何の音だ?」

不意に鼓膜を震わせた地面を踏みしだく音に振り返った。ら、トカゲがいた。身の丈サイズの。トカゲモドキよりも小さいが、その瞳は俺をとらえて爛々と光っていた。

もしかしなくても: 狙われてる。

「う、そ、だ、ろぉぉぉ!!!」

絶叫しながら、全力で駆け出した。振り返る余裕はないが間違いなくトカゲは追いかけてきている。

あれが悪魔だとイオリは自然と理解していた。ならばここはブイのいた世界とみて間違いはないだろう。この世界のどこかにブイがいる、そう考えれば、延々と走り続けられる──

「死ぬ、も、むりぃ……!!」

訳もなく。しがない会社員、趣味は読書のインドア派の俺の身体は早くもスタミナ切れを訴えた。心臓がうるさく脈をうっている。咳き込みながら喘ぐように酸素を供給した。今すぐにでも立ち止まって休みたい。でも足を動かさなくては待っているのは死だ。

「……うっ……!」

足が縺れ、受け身もとれないまま地面に叩きつけられた。膝や腕から血が滲む感覚があったが、確認している暇はない。痛む身体を起こそうとしたが、強い衝撃が背中にぶつかり再び地面に打ち付けられた。
トカゲが身体にのし掛かっている。身をよじり必死に逃げようとするもびくともしない。

「ひっ!」

四苦八苦している内にトカゲが鋭い爪のついた腕を振り上げていた。あんな大きな爪で引っ掛かれたら一溜りもない。斬殺される自身を想像して、冷たい汗が流れた。

「ブイ、助けて……」

振り下ろされた瞬間、恐怖で目を閉じる。
そして彼に助けを乞うた。
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