それは唐突な出来事だった。
交代でソファとベッドを使うことになってはや5日。今日はVがソファで寝る番だった。寝心地が悪い、といってもレッドグレイブの瓦礫で寝るよりは数倍寝心地は良いのだが、やはりベッドには負ける。カーテンの隙間から差し込む朝陽で目が覚めた。まだ誰も目を覚ましていないらしく、部屋にはシャドウとグリフォンの寝息だけが響いている。
「……ふ」
なんて穏やかな空間だろう。一週間前まで悪魔の蔓延る街を駆けずり回っていたというのに。この世界には悪魔も魔界もない。平凡で平和な世界は退屈だが悪くない。
身体を起こし、キッチンに向かった。籠に伏せられたグラスを手に取り、冷蔵庫から水を取り出して注ぐ。冷えた水が喉を潤して、空っぽの胃に落ちていった。
足元の引き出しからフライパンを取り出して、コンロに置く。料理なんてこの世界に来るまでしたこともなかったが、見よう見まねながらそれなりに出来るようになった。油をひいて、卵を割る──良かった、今日はちゃんと黄身が破れなかった。
「よし……」
内心でガッツポーズなんて柄じゃないが、成功すると何だか嬉しい。これもこの世界に来なければ知らなかった事だ。
塩胡椒を振り掛けて蓋をする。その間に食パンをトースターに放り込んで、サラダを皿に盛り付けた。そうしている内にキッチンにいい匂いが立ち込める。ああ、そうだ忘れていた──換気扇のスイッチに手を伸ばした。鈍い音を立ててファンが回りだして、キッチンの空気を入れ換えていく。
そうしている間にトースターが出来上がりを知らせてきた。タイミングはばっちりだ。火を止めて目玉焼きと出来上がったばかりのトーストをそれぞれの皿に盛り付ける。
「詩人ちゃんが料理なんて、似合わねぇなァ……あ"っちぃ!!」
匂いにつられてかグリフォンとシャドウが起き出した。ニヤニヤと笑うグリフォンにあっつあつのフライ返しをぶちこんで黙らせる。起き抜けからうるさい鳥だ。ちょっとくらいは焼鳥になればいい。
トレイに二人分の朝食をのせて、リビングへ運ぶ。セッティングは完璧だ。そろそろイオリを起こさなければ──そう考えたときだった。視界の端できらりとなにかが光った。
「……?」
テーブルの端に置いてあった本が光っていた。イオリのブレイクの詩集だ。ハードカバーの隙間から光が漏れている。別段驚きもせず、本の光っているページを開けた。
ぐん、と身体を引っ張られる感覚に身を堅くする。目の前が真っ白に染まり、そばでグリフォンの悲鳴が聞こえた。
「……ここは」
視界がはっきりしたときには目の前の光景は丸きり変わっていた。倒壊した建物、隆起した道路、そして、空を貫かんばかりに成長した魔樹クリフォト──元の世界、レッドグレイブだ。ご丁寧にVの元々着ていた衣服も杖も靴もそばに転がっていた。
「おいおい、戻るにしてもバッドタイミング過ぎんだろ!」
「……そうだな」
珍しくグリフォンと意見が合う。
杖を拾い上げて、緩く息を吐き出した。何も言えないまま戻ってきてしまったのが心残りだ。せめて別れの言葉くらいは言いたかった。もはやそれも叶わぬ願いでしかないが。
「げぇ!早速お出迎えが来たゼ、Vちゃん!」
グリフォンの言う通り、エンプーサがぞろぞろと物陰から姿を現していた。感傷に浸る暇も与えてはくれないらしい。つくづく不快な虫ケラどもだ。
「グリフォン、シャドウ。やれ」
「はいよっと!」
グリフォンは身体に紫電を迸らせながら悪魔に突っ込んでいく。その後をシャドウが身体を黒い刃に変形させながら追いかけ、敵を蹴散らした。
(分かっている。こんな血生臭い世界にあいつは似合わない)
だから、思ってはいけないんだ。出来ることならイオリもこの世界に連れていきたかった、なんて。
END ROLL