腹と背がくっつく直前の胃袋に久しぶりのきちんとした食事はとてもおいしく感じた。喋るよりも食べ物を胃袋に詰め込むのを優先して、あっという間に平らげると男は穏やかに微笑んだ。
グリフォンの機転もたまには役に立つ。そんな事を思いつつ、食べ終わった皿をキッチンに運ぶ男の背を眺める。男はキッチンで皿を何やら大きな機械に突っ込んでいた。
「ところで、名前は?俺はイオリ」
茶色い液体の入ったグラスを両手に持ってキッチンから戻ってきた男はそう名乗った。そういえばお互い、名前も知らないまま一夜を明かしたのだ。Vは寝ていたけれども。
グラスを受け取り、名乗る。
「……Vだ」
「ふぅん。ブイね、ブイ」
明らかな偽名だというのにイオリは気にした様子もなく、ブイと名前を繰り返した。妙に呼び方に拙さを感じたが、わざわざ指摘するほどでもない。この名前に然したる思い入れはない。ただの仮の名だ。
「ブイはどっから来たんだ?この辺の人?」
「……ここはどこだ?」
「ん?東京都の世田谷区だけど……」
聞いたこともない都市名だ。「日本だよ」と更に知らない単語を並べられて、Vは眉をひそめた。トウキョウト、セタガヤク、ニホン……少なくともレッドグレイブ市の周辺にそんな地名はない。
「レッドグレイブではないのか……」
「レッドグレイブ……?」
「あぁ。俺はそこにいた筈だ」
一ヶ月。クリフォトが育ちきる前にネロが力をつけて戻ってくるのを待っていた。成長を僅かでも遅らせるために悪魔に襲われる市民を助けていた矢先、ベヒモスに呑まれて──昨夜の話になるわけだが。
イオリは首を傾げて、ポケットから取り出した薄い機械を取り出して操作していた。見たこともない機械だ。そういえば、イオリの家には妙な機械が多い。キッチンに並ぶ大きな箱もそうだが、テレビらしき機械は驚く程に薄い。
「……んん……載ってないなぁ……」
真剣な顔をして何かしていたイオリがぼそりと呟く。良い結果を得られなかったようで「参ったな」とぼやきながら、頭を掻いていた。
「んー……そうだ、あれなら……ちょっと待っててくれ」
そう言って、イオリは席を外した。別の部屋に入っていったタイミングでグリフォンがVの肩へと着地する。
「おいおい、どういう事だァ?トウキョウトなんて聞いたこともねぇ」
「別の場所に飛ばされたという事だろう」
どういう原理かはわからないが。
カーテンの隙間から覗く景色は幾つものコンクリートに固められたアパルトマンが建ち並んでいる。
「どうすんだよ、Vちゃん?」
「レッドグレイブに戻るしかあるまい」
「ここがどこかもわかんねぇのに?」
「戻れなければその内魔力が渇れて死ぬだけだ」
げぇ、と嫌そうにグリフォンは顔をしかめた。身体に残された魔力は磨り減っていくのみで増えることはない。魔力を失いこの身が滅びれば、グリフォンもシャドウもナイトメアも同じように消える。そういう運命なのだ。
グラスの中の水面を眺めて、嘆息する。
「探すのに時間かかった。これならブイの住んでるところもわかると思う」
暫くしてイオリが部屋に戻ってきた。手には一冊の大型の本がある。Vの隣に座り、テーブルの上で本を開いた。どうやら世界地図のようだ。見開きには世界の各大陸が記されている──が、そのどれもがVの記憶と一致しない。
「…………これは、本物か?」
「え?」
「こんな世界、俺は知らない」
Vの言葉を聞いたイオリはひどく戸惑った表情を浮かべていた。
二日目。