- ナノ -
後頭部に当たる感覚が硬い。仕事から帰って床で寝てしまったようだ。バタンキューするほど疲れていたつもりはなかったのだが、自分が思っているより身体は疲れていたらしい。それにしても嫌な夢を見たような気がする。

「うぅん……」

唸りながら、緩慢な動きで身体を起こし、両腕を伸ばす。ごきりと音が鳴った。風が頬を撫でて、肌寒さを感じぶるりと震えて──

(ん?風?)

帰宅したなら室内の筈だ。バタンキューしたなら窓もベランダも開けていないと、思う。おそらく。

違和感に恐る恐る瞼を持ち上げる。見えたのは遊具が幾つか。見上げればそこには、真ん丸いお月様が浮かんでいた。

「は、外!?」

驚いて立ち上がり、周囲を確認した。いつもの帰宅途中にある公園だ。人気はない──いや、いた。背後にあったベンチに一人。黒いノースリーブのコートを纏い、身体中にタトゥーを刻み込んだ男が腰かけている。街灯の心許ない明かりの下で男は熱心に本を読んでいた。

「ぁ……俺の荷物……」

草臥れたビジネスバッグとコンビニのレジ袋は男の脇に置かれていた。呟きが聞こえたらしくようやっと男は顔を上げる。黒い、瞳だ。病的なまで白い肌にその色はよく映えていた。

持っていた本を閉じ、男はゆらりと立ち上がる。片手には銀色の精巧な造りの杖が携えられていた。

「"月が花のように天の一角にさしかかり、静かな喜びに満ちて夜に微笑みかけている"」

男の口から飛び出したのは、ブレイクの詩のフレーズだ。よくよく見てみると男の手元にあるのは楽しみにしていた詩集だった。焦げ茶色の革表紙に金の箔押しが入ったあれは見間違えようがない。

「え、ええっと……」

逃げるべきか悩んでいる間に男はもう目の前まで来ていた。長く垂れ下がった前髪が男の不気味さを強調している。

「この詩人、好きなのか?」

「あ……はい、好きです」

差し出された本を受け取り、男の問いに肯定すると男は「そうか」と口角を僅かに上げた。それから徐にコートの内側からなにかを取り出し、こちらに見せる。同じ装丁の本──違うところは表紙に手書きで大きく"V"と書かれているところか。

「おお、同じ……」

まさか同じ趣味の人間がいるとは思わなかった。とはいえ、男の不審さを完全に拭いきれた訳ではない。頭の中はこの男と話を切り上げれる方法を模索している最中だ。

出来の悪い頭を必死でフル回転させて──どさり──いる途中で突然男が前触れもなく倒れた。

「へ!?だ、大丈夫ですか!?」

その予想はしていなかった。慌てて男を仰向けに寝かせて、肩を揺すり、声をかける。色も白いし隈も酷いし、どこか身体が悪いのか。とりあえず救急車を呼ばないと──。

「まさか腹減りくれぇで倒れっちまうとは!ネズミの一匹でも食わせとくべきだったぜ!」

携帯を取り出そうとポケットをまさぐっていた時だ。不意にそんな声が聞こえて、心臓が跳ねた。10センチは跳んだ。自己最高記録を更新した。

反射的に声がした方向を確認する。

「よう兄ちゃん、ここで俺に食われて死ぬのとその男を助けるの、どっちがイイ?」

「しゃ、しゃ……しゃべっ……!?」

瑠璃色をした大鷲擬きが流暢に言葉を発していた。"擬き"と称したのはその鳥の嘴が普通ではなかったからだ。上半分はともかく下半分は三股に分かれて、大きなものでも丸のみ出来そうな口をしていた。明らかに普通ではない。ぎょろりとした金の目が俺を映し、薄く細められる。

「なぁ、聞いてっかァ?黙ってっと食っちまうぜ?久々の人間はウメェだろうな」

「ひぃ、た、た、助けるっ、助けるから……!!」

鳥の言葉はハッタリではなさそうで、俺は
ただただ頷く他なかった。
一日目。

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