龍が如く1
29:喧嘩葬儀
その日はいつもと違っていた。
錆び付いた扉が嫌な音を立てて開いた。冷えきった床に背中をつけたままアスカは視線だけをそちらに向ける。仏頂面をした錦山が紙袋を片手にこちらを見下ろしていた。あまり機嫌が良くないのは見て、明らかだった。
「っ……!」
何の言葉も発することなく、紙袋が投げつけられた。身を固くしたが、幸い中身はそこまで重いものではなかったらしい。ぶつけられても想像したほどの痛みはなかった。
「着替えろ。葬儀に行くぞ」
「ぇ……?」
唐突に言われて意味を理解するのに時間がかかった。
(そうぎ……葬式……?いったい誰の?)
誰が死んだのか検討もつかない。よく見れば錦山もいつもの白いスーツではなく、黒いスーツに身を包んでいた。緩慢な動きでアスカは地面に落とされていた紙袋の中身を確認した。
想像の通り、上質そうな黒いスーツが入っていた。ご丁寧に手袋まで用意されている。手触りの良いスーツを紙袋から引っ張り出し、身に纏う。指先が震えてうまくボタンを留めれずにいると錦山が舌打ちをした。
「ーー、」
苛ついた錦山の表情に恐怖で息がうまくできなくなる。顔から血の気がなくなったのを感じた。
青ざめたアスカに気にした様子もなく、錦山はスーツのボタンに手を伸ばす。上から下へ、全部のボタンを留めると襟にバッジを付けられた。太陽を模した丸と山形の中に錦と書かれている錦山組の代紋だ。
「来い」
小さく頷き、震える足で錦山の背中を追いかけた。
何時ぶりの太陽だろう。強い太陽光に目が眩んだ。乱暴に腕を引かれてたたらを踏みながらも着いていく。事務所のすぐ近くの大通りにはすでに車が用意されていた。綺麗に磨かれた黒い車の脇に待機していた新藤は錦山の姿を認めると、一礼してから後部座席のドアを開ける。
ぼうっとその様子を眺めていると、錦山がこちらを振り返り顎でしゃくる。無言のまま言われる通りに乗り込んだ。ドアが閉められて車は発進する。
窓の外を移ろう景色はどうしてか夢幻のように見えた。
東城会本部。大きな門扉の端に立て掛けられた看板をアスカは呆然と見つめた。嘘だと、たちの悪い夢だと思いたかった。
「世良、さん、が……」
ーー死んだ。昔からアスカの事を懇意にしてくれていたあの人が、死んだ……いや殺されたのだろう。信じたくはなかったが、こんな大々的な葬儀なのだ。世良が死んだのは紛れもない事実ということだ。
はらはらと涙が溢れだして落ちる。
ずっとアスカの事を贔屓にしてくれていて、バカみたいな報酬をくれていつも突っ返していた。優しくはないが、アスカに助言をくれる人生の先輩のような存在だった。
「なんで……どうして……」
監禁されていたせいで何もわからない。どうして世良が殺されたのか、誰に殺されたのか。犯人がわかったとして、アスカに出来ることは何もないのだが。
「おい、行くぞ」
腕を掴まれた瞬間に不意に脳裏に映った世良の顔。ずっとサイコメトリーをすることをやめていたためノイズ混じりで分かりづらかったが、それは確かに錦山の記憶だ。血塗れの世良、それから見知らぬ男。世良の死に錦山が関わっていたことにもう驚きもなかった。
目を伏せて、引かれるままに門をくぐり石畳を歩く。新藤は車を駐車場に停めるために裏手へ回っているためいない。
別の組員にも頭を下げられているのを見ると錦山も組長なのだと嫌でも分かった。
入り口の受付で記名をすませる。アスカの分は錦山が勝手に書いており、受付の男が訝しげな顔をしていたが、相手が組長だからか何も問うことはなかった。言葉を交わすこともなく、会場へ入る。
錦山に腕を引かれながら、俯いて歩く。痛いくらいに強く手首を握りしめられて身体が震えた。
「ーーアスカちゃん……?」
名前を呼ばれて、錦山に掴まれていない左腕が誰かに掴まれる。聞き覚えのある声色だった。おずおずと顔をあげると、眼帯の男が視界に映る。
「やっぱりアスカチャンやないか!電話もポケベルも通じんから心配してたんやでぇ!何でこないなとこに……」
「ごろーー」
「真島さん。こいつは俺の子分なんであんまり気安く声かけないでもらえますか?」
名前を呼ぼうとした瞬間に腕を引っ張られ、目の前に錦山の背中が広がった。話をぶったぎられて、真島はあぁ?と錦山を不愉快そうに睨む。
「錦山組て……アスカチャンほんまなんか?」
「……ぁ、ち……が……」
肩越しに尋ねられてアスカは上手く言葉を発せなかった。眉を下げ、ただただ真島を見つめる。"たすけて"の4文字すら言えなかった。
下手なことを言えば、錦山にまた痛め付けられてしまう。それを想像しただけで、顔から血の気が失せた。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、一瞬にして上手く酸素が供給できなくなる。胸元を押さえ、ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す。
「アスカチャン……!?」
異変に気付いた真島が目を見開き、アスカに手を伸ばそうとしたが錦山がその手を弾いた。
「どうやら具合が悪いみたいなので、空き部屋で休ませてきます。では……」
「……ぁ、」
乱暴に手を引かれて、アスカは半ば引き摺られるような形で真島から離れる。助けてという言葉は出せなかった。カラカラに渇いた口からは掠れた声にすらならぬ小さな音が漏れただけだった。
適当な空き部屋に入るなり、床へ思い切り叩きつけられてアスカは衝撃に呻いた。続けざまに髪をひっつかまれて、強引に上体を起こされる。ぶちぶちと髪が千切れる小さな痛みを感じながら、薄く目を開けて錦山の顔を見た。
鬼のように怖い顔をしていて、アスカは更に身体を震わせた。振り上げられた拳に固く目を閉じて歯を食いしばる。
「あいつに何を言おうとした!?俺から逃げようとしたのか!?」
「ちが、そんなんじゃーー!」
「うるせぇ!!」
ガッーー
ガッーー
頬を殴られて殴られて、意識が飛びかけたところで錦山はようやっと止めてくれた。声もあげれなかった。あげる気力すらなかった。だらりと床に倒れて、動くこともできずただ痛みに耐える。
「暫くそこにいろ。逃げようなんて思うんじゃねぇぞ」
「……わか、った」
掠れた声で返事をする。それに気を良くしたのか錦山はアスカの頭を一撫でしてから、部屋を出ていった。逃げる力なんて今のアスカにはどこにもありやしない。錦山の暴力はアスカの全てを破壊してしまった。時間も気力も心も……何もかも。
外の音を遠くに感じながら、アスカは床に転がったまま目を閉じた。
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