龍が如く1
28:呪いのような
あれからーー
あれから、何年が経過したのか。もうアスカにはわからない。ただ薄暗い打ちっぱなしの冷えきった部屋で錦山の暴力に耐えていた。昼夜の感覚は忘れた。今が昼なのか夜なのか、時計も窓もないこの部屋では知ることが出来なかった。
あちこちに赤黒い染みの出来た床に転がったまま、アスカは切れかかった蛍光灯のついた天井をぼんやりと見上げる。いつの間にか首輪の鎖は外れていた。恐らくもう逃げることはないと判断されたのだろう。
ベッドまで動く気力もない。ストレスのせいで綺麗だった金髪はくすみ、青い目は澱んでいた。
ぎぃ、と扉の軋む音がして、誰かが入ってくる気配がした。
「メシ……食えますか?」
錦山の部下の新藤だ。新藤はそっとアスカのそばへ膝をつくと、持っていたトレイを錆び付いたテーブルに置いた。顔を覗かれて、アスカはぼんやりとその顔を見つめる。
同情するような新藤の表情に何かを感じることもない。返事をしないアスカに新藤は眉を下げて、嘆息した。そしてアスカの下へ手を入れて身体を持ち上げ、ベッドまで運んでいく。壊れ物を扱うようにそっと下ろされる。それでもずきりと痛んだ身体にアスカは顔を歪めた。
「……っ」
「傷、痛みますか……」
呻いたアスカを労るように新藤はその額に浮き出た汗を手で拭ってくれた。
治っても新たな傷が出来る。この身体に無事な所なんてどこにもない。きっともう治ることなどないのだ。
新藤がトレイを乗せたテーブルをベッド脇まで引きずる。ぎいぎいと嫌な音が響いた。
「ほら、食べてください。食べねぇと死んじまいます」
「……殺してくれよ……」
この状態で生きているというのか。身体のあちこちの死んでもおかしくない傷。うまく動かない痩せ細った身体。
アスカの溢した言葉に新藤は言葉を詰まらせた。錦山を心酔している新藤はアスカの言葉を聞いてくれやしない。ただただ困ったように、すんませんと謝罪した。
意思を無視してつきだされたスプーンを拒むように顔を背ける。
「アスカさん……」
食べても吐くことの方が多いのに、食欲なんてあるわけない。死にたいと思うほどにアスカは生きる気力を失っていた。今アスカを生かしているのは錦山の執念、と言っても過言ではないだろう。
「新藤、ここにいたのか」
「親父、お疲れ様です。丁度アスカさんに夕飯を持ってきた所です……」
扉が軋んだ音を立てた。聞こえた声にアスカは身体を固くする。錦山だ。冷たい汗が流れて、呼吸が荒れる。ご飯を食べていないとまた殴られるかもしれないーーそんな不安がアスカの胸中を過った。
新藤は立ち上がり、頭を下げる。そんな新藤を一瞥し、錦山はアスカの寝ているベッドへ腰かけた。
「後は俺がやる。お前は出てろ」
「はい。失礼します」
新藤が出ていき、二人だけの空間は無音だった。アスカの息遣いだけが妙に大きく聞こえる。
「彰……」
「……俺を名前で呼んでくれるのは、お前だけだな……」
愛しそうに錦山はアスカの頬に触れた。冷たい指先に少しだけ身体を震わせて、アスカはじっと錦山の顔を見つめる。見下ろす瞳は冷酷なのに、どこか寂しげな色を宿していた。
どれだけ上に立っても、沢山の組員がいても、錦山は孤独なのだ。アスカを閉じ込めても、それでも。
「ずっと側にいてくれ……お前だけは……」
懇願するように発された言葉はアスカを呪いのように縛る。強く、強く。死を願うアスカを強引に死から遠ざける。
頬を撫でていた手が唇をなぞった。いつの間にか錦山の顔はすぐ側にある。そして、鼻先が触れそうな程に近づいて、アスカは反射的に目を閉じた。
鼻で笑う音が聞こえて、それから唇に生暖かい感触が伝わる。
「愛してる」
優しいキスと共に耳元で囁かれた言葉は今までよりもずっと強力な呪いだった。
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