- ナノ -

短編

勿忘草


私が彼と出会ったのは蒼天堀の巌橋だった。橋の手すりに凭れて呑気にたこ焼きを食べている私に眼帯をつけた彼は声をかけてきた。

「夜の仕事に興味あらへんか?」

単なるスカウトだったけれども、今のバイトの時給に不満があった私は二つ返事で彼に着いていった。

招福町西の横道に入った所にある小さなキャバクラ、サンシャイン。私が来たときはキャストの人数も少なく、客足もほとんどない廃れたキャバクラだった。蒼天堀ファイブスターという蒼天堀を牛耳っているキャバクラ連合に潰されそうになっていて、何とか盛り返すためにキャストを集めていたらしい。

店長の陽田さん。それから、先輩キャバ嬢のユキさん。そしてーー。

「俺はオーナーの真島や。よろしくな」

「はい。よろしくお願いします」

何となくで始めた仕事だったけれど、悪くはなかった。綺麗なドレスを着て、お客さんとお話しするだけの簡単な仕事は私には意外にも向いていた。けれども、ただ話すだけじゃ売上はあまり伸びなくて、悩む私に真島さんは親身になってくれた。

「アスカちゃんはそうやなぁ……もうちょっとがつがついってもエエと思うで」

「そう、ですか?」

「控えめなんもエエけどなぁ」

ーー俺はぐいぐい来てくれる方が好きやで。なんて。そんな他愛ない言葉で胸が高鳴った。

「わかりました!私、頑張ります!」

「おっ!その調子やで!」

よしよしと頭を撫でられて、じわりと頬が熱を持つ。特別を意識をしているのは私だけで、真島さんは他のキャストにも同じことをしているのだろう。
穏やかに細められる目元に惹かれて、息が詰まる。

眼帯で変な人だと思ってたけど、見た目よりもずっと優しい真島さんを好きになるのも時間の問題だった。

「もーー!なんでお酢くらい買いにいけないんですか!」

けれど、真島さんはいつも売上No.1のユキさんの方ばかり見ていた。きっと真島さんにとって売上No.1のユキさんは大事なのは当然だ。売上の低い私なんて相談には乗ってくれても、見てくれる訳がない。

なら、どうするべきか。私がやることはひとつだ。誰よりも努力して、私がサンシャインのNo.1キャストになる。そうすればきっと真島さんは私の事も見てくれる筈だと信じて。

No.1になると決めて数日。バックルームの壁に貼られた売上表を確認した。一番左側には長く伸びた棒の下にはユキさんの名前が書かれている。その5つ程隣には私の名前があった。今まではもっと右に書かれていたが着実に順位は上がっている。

「最近頑張っとるみたいやなぁ」

「……ま、真島さん!」

音もなくすっと横に来た真島さんに私は驚いて、距離をとる。勢いよく下がったせいで側にあったパイプ椅子に思い切り腰をぶつけてしまった。

「なんや、そないに驚かんでもエエがな」

がしゃんと音を立てて倒れた椅子を元通りに戻しながら、真島さんは苦笑した。サンシャインのオーナーでもあり、キャバレーグランドのオーナーでもある真島さんはいつでも店にいる訳ではない。だから顔を合わせるのは久しぶりだった。
2つの店のオーナーをするのはしんどいのか、もっと別の理由があるのか、真島さんの目の下にはうっすらと隈ができている。

「何かやりたいことでもあるんか?」

パイプ椅子にどかりと座り、タバコを咥えた真島さんにすかさずライターの火を持っていく。ポケットをまさぐっていた真島さんは気が利くやないかと感心してくれた。

「No.1になりたいんです」

そうしたら、貴方はもっと私を見てくれるはずだから。本音は言わずに目標だけを告げると真島さんは目をパチクリさせてから、そうかと笑った。またトクンと胸が鳴る。

「エエ夢や。なら、打倒ユキちゃん。てことやな」

真島さんは私の夢をバカにせずに誉めてくれた。打倒ユキさん。言葉にするのは簡単だけど、実行するのは難しい。ユキさんは可愛いし、ちょっとドジだけど、人を引き付ける才能がある。だから、真島さんもユキさんの事をよく気にかけるんだろう。

目の前に高く立ちはだかる壁を越えるのはいつになるかはわからない。

「真島さん」

机の上に置いていたピンク色の化粧ポーチを取る振りをして、真島さんに背を向けた。意味もなくコンパクトを取り出して、鏡に自分を映す。なんとも言えない目をした私が、私を見つめ返した。

「真島さん……」

「何や?そんなに名前呼ばれると照れてまうわ」

背後で息を吐き出すように笑った気配がした。
どうしても、どうしても言葉が続けられなくて、その先を、私の本当の夢を伝えることが出来ない。拒否されたら、きっと立ち直れない。臆病な私は目を伏せて、唇を噛んだ。

「アスカちゃん?」

不思議そうに名前を呼ばれる。

トクン。また、だ。笑う度、名前を呼ばれる度、貴方が私を見てくれる度ーー"好き"が増えてきて、止められなくなる。

コンパクトを閉じて、ポーチに仕舞う。答えないと。何でもいい。当たり障りの無いものを答えておけばいい。

「私……頑張りますね。だから、見ててください」

「おう。頑張りや」

何気ない言葉ですら、胸が痛くなった。

けれど、真島さんは突然いなくなってしまった。蒼天堀ファイブスターを全員倒したその翌日に顔を見たのが最後だった。
陽田さんに聞いても、グランドのキャストに聞いても、誰も真島さんの行方を知らなかった。本当に唐突に。初めから真島さんなんて居なかったかのように、姿を消した。

「真島さん……私まだ、No.1になってないよ……」

巌橋の手すりを握り締めて川面を見つめる。私の呟きは街の喧騒に紛れて誰にも届かずに消えた。

真島さんが居なくなっても、私はNo.1キャストになる夢を叶えるために努力した。同伴もアフターもしたし、トークも化粧だって出来ることはなんだってした。

「わ、ついに追い越されちゃった!No.1、おめでとう、アスカちゃん!」

「夢が叶いましたね!」

そして、一年後。私は見事No.1に輝けた。バックルームの壁に貼り付けられた棒グラフの一番左端には私の名前が書かれている。夢にまで見たNo.1。ユキさんも陽田さんも祝福してくれたのに、全然嬉しくなかったのはどうしてか、なんて考えなくても分かる。

だって真島さんが、いないから。

じわりと目元から熱い物が滲み出る。メイクが崩れるからと一度も泣いたことなんてなかったのに、その時だけは堪えきれなかった。突然泣き出した私にユキさんと陽田さんはあわあわと体調を気遣ってくれた。あまりにも検討違いな心配だったけれど、色々と言われるのも面倒で強引に涙を引っ込めて笑っておいた。

月日は誰にでも等しく同じ早さで進んだ。季節は巡り、街並みは移り変わる。彼にまた会えるんじゃないかとそんな淡い期待を抱いて、私は変わらずずっと蒼天堀に住んでいた。流石に年齢が年齢のため流石にキャバ嬢はやめてしまったけれど、今でも無意識にキャバクラのある通りを歩いてしまう。もしかしたら会えるかもしれないと、そんな思いで歩き続けていたけれど今はもう諦めていた。

あれから18年も経つのだ。待ち続けるにはあまりにも長い歳月。真島さんと過ごしたあの僅かなひとときは束の間の夢だったのだと、そう思うことにした。そうしないと辛かった。

「好き、」

居なくなってから何度呟いただろう。いなくなる前に真島さんに伝えていたら何か変わっていたかもしれないのに、あの頃の私は勇気がなくて出来なかった。

不意に足を止める。蒼天堀川を跨ぐ巌橋。私が初めて真島さんと出会った場所だ。
川面はゆらゆらと揺らめき、太陽の光を反射して輝いている。

私は目を見開いた。足早に通りすぎていく人の隙間に見えたシルエットは見覚えのあるもので。
人混みに紛れそうになるその背中を無意識の内に追いかけていた。近づく背中に胸が苦しいくらいに鼓動する。

「ーー真島さんっ!」

気がつけば腕を掴んでいた。驚きに振り返るその顔は記憶の物よりシワを刻んでいたけれど、私がずっと見たかった顔だった。



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