- ナノ -

龍が如く1

16:歪んだ血の誓い


鉛色の空から大粒の雨が降り注ぐ。ここ最近では珍しい大雨予報だった。多少の雨ならば傘を差さないアスカも今日ばかりは差していた。安物のビニール傘を片手に稲光を放つ空を見上げる。雨の日は憂鬱な気分になる。依頼がなければ、こんな雨の日に外出なんてしようとも思わない。

冬が近づいているのと雨のせいもあってか昨日よりも肌寒い。身震いをしてそろそろコートを押し入れから出しておかなきゃな、と考えながらアスカは冬の装いになり始めている神室町を傘を片手に歩いていた。

あの日から定期的に錦山には会うようになった。思い悩む錦山の相談にのり、時には意見をだした。少しでも錦山の力になれるように、負担が減らせるように尽力したつもりだった。

黒い携帯が振動して、アスカは胸ポケットから取り出す。画面にはニシキヤマと表示されている。一昔前までは少しの数字しか送れなかったのに時代の進歩の素晴らしさを感じつつ、携帯を耳に押しあてた。

「もしもし。彰、何かあったのか?」

もう時刻は夜の10時を回ろうかという所だ。晩御飯にはもう遅すぎる時間帯に電話をしてくるなんて珍しい。

『お前に会いたくなった』

「はぁ?なんだそりゃ?」

『いいだろ?事務所に来てくれ』

返事も聞かずにぶつりと切られた電話にアスカは電子音を聞きながら暫し硬直する。普通じゃないことは何となく察した。けれども、アスカには最初から行くという選択肢しかない。

息を吐き出して、アスカは錦山の組の事務所の方向へ歩きだした。


錦山組は神室町に居を構えているため、さほど時間も掛からずに来れた。事務所のあるビルを見上げる。事務所に来いと言っていたのだから不在な筈はないのだが、何故か電気が付いていない。帰ろうかとも思ったが、いるかどうかくらいは確認はしなければ。

傘を閉じて、軽く水をはらってから正面玄関のガラス張りの扉を押す。と、難なく開く。鍵がかかってないということは誰かしらはいるらしい。左手に置いてある傘立てに傘を差し込んだ。

「おーい、彰?」

中はしんと静まりかえっていて、アスカの声はよく反響した。自然と息を潜めて、忍び足になる。窓から入ってくる僅かな街明かりを頼りに階段を上がった。

冷えきったドアノブへ手をかける。別段変わった様子はドアノブから感じ取られなかった。だが、妙な胸騒ぎがする。ざあざあと降りしきる雨音が遠い。

恐る恐るノブをひねり、扉を少しだけ押し開けて、中を覗く。組員の姿は見当たらない。人気のない事務所はお化け屋敷の様な妙な怖さがある。そろそろと音が鳴らぬように扉を開けて、身体を中へ滑り込ませた。

「彰……?」

部屋に錦山はいなかった。試しに名前を呼んでみたが、反応はない。
縦長の長方形の部屋の一番奥に錦山組の代紋が掛けられている。比較的綺麗に整えられた事務机の上を視線でなぞってから、奥の扉を見た。あの奥は確か組長室になっていた筈だ。錦山がいるとすればあそこが一番確率が高い。

先程と同じように静かに扉を開けた。それと同時に鉄さびの臭いが鼻を突き刺した。その臭いはよく嗅いだことがあるーーそう血の臭いだ。暗くてよく見えない部屋の奥をよく見ようと一歩踏み出して目を凝らす。

「ぁれ、は……」

轟く雷鳴と共に白い稲光で照らされた瞬間にアスカの目は床に倒れている男をしっかりと捉えた。腹部に突き立てられた短刀は柄まで赤に染まり、てらてらと鈍い光を放っている。

無意識に息が止まった。ここで殺されているということはつまりーー。あまり考えたくはなかったが、そういうことになる。辺りに散らばった血痕を踏まないようにしながら、アスカは男の顔を確認した。

「こいつ、元は風間組にいた……松重か……」

パンチパーマにサングラスの人相の悪い男の顔はアスカも知っている。錦山もよく松重の愚痴を言っていた。ついにカッとなって殺してしまった、ということか。

「アスカ」

呼ばれた名前にアスカは勢いよく振り返った。いつの間に入ってきたのか、扉の前で赤い血に染まった錦山が不気味な笑みを浮かべてアスカを見下ろしている。

下ろしていた筈の髪は後ろへ撫で付けられ、オールバックになり、目はギラギラと獰猛な輝きを放っていた。

「彰……ここで何があったんだ……?」

「俺は決めたよ……アスカ」

問いには答えず、錦山はゆらりとアスカに近づく。錦山の筈なのにまるで別人のように見えて、怯えるように後退した。

「ーーっ」

足元を見ずに後退したのがいけなかった。無造作に放り出された死体の腕に躓き、尻餅をつく。床に広がっていた粘度のある赤い液体が跳ねてシミを作る。しかし、それすらも気にならなかった。蛇に睨まれたカエルのように、錦山から目を反らせなかった。

「俺は必ず頂点に立ってやる……そのためなら……人くらい幾らでも殺してやる」

その瞬間、アスカは悟ってしまった。もう以前の錦山はどこにもいないのだと。伸ばされた手を振り払うことも出来ず、アスカはただただ顔を歪めた。



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