短編
紫苑:02
峯とは同じ高校には行けなかった。というのもアスカと峯の学力差はかなりのもので、峯は地元よりも少し離れたところの学力トップクラスの高校へ推薦入学したからだ。アスカもそれなりに努力したのだがその力は及ばなかった。
ーーまた会おうね。
中学卒業式の時、峯にそう言って別れたが、結局高校を卒業してもその約束が果たされることはなかった。学業やアルバイト、部活動が忙しく、それに地元よりも離れていてどうにも会いづらかったのだ。
ふと、峯の行方が気になり、峯がいた孤児院にも聞いたのだが、行き先も連絡先も言わずに出ていったという。孤児院暮らしの峯が携帯なんて高価な物など持っていなかった。つまり私は峯と会う手段を失くしてしまったのだった。
それから十数年。私は転勤で初めて地元から東京という大都会に引っ越した。地元とは全く違う街並みに胸を高鳴らせていた。だから、この街の危険を知らなかったのだ。
どん、と誰かにぶつかってしまった。
「あ、すみませーー」
あちらこちらを見ながら歩いていたのが良くなかった。不注意で向かいから来ていた男と肩がぶつかってしまって、軽い衝撃にたたらを踏む。
「いてぇーー!肩の骨折れちまったどうしてくれるんだぁ?」
肩を押さえて大声を上げた男にびくりと身体を震わせる。強面の男は吐息が掛かりそうな程顔を近づけてきて、アスカは驚いて仰け反る。
「お、折れてはないと思うんですけど……?」
「あぁ!?疑うってのかぁ!?」
おどおどしながらも言い返すと更に大声で噛みつかれた。周りの人に助けを求めようと視線をさ迷わせるも、皆目線を反らし合わせようとしない。なんて酷いんだ!と内心で叫んだが、実際に自分がこの場面に遭遇したとして、手助けできるかというと微妙なところだ。
どうすればいいのかわからず、身体を小さくして男の怒鳴り声を一身に浴びる。
「治療費払ってもらおか!ぁあ!?」
お決まりの文句と共に凄まれた。明らかに折れても、何なら傷すら無さそうな肩口を突きだして見せ付けて、がなりたててくる。確かにぶつかったのは不注意だったけれども、そこまでではない。謝罪だけで十分だろう。かちんとしてアスカは眉をつり上げた。
「折れてもない癖に何が治療費よ!ばっかみたい!」
「……なっ!?」
こういうバカな人間が子供の時からアスカは大嫌いだ。反抗されると思っていなかったようで、男は目を見開き唖然する。
「こういうことやめたらどう!?」
「て、てめぇ……!なめてっと痛い目みるぞ!!」
「……っ!?」
拳を振り上げられて、アスカは反射的に目を閉じた。
ーーーーー
神田に急遽呼ばれ、面倒だとは思いつつも峯は神室町へ来ていた。相変わらずここは騒々しく、キャッチが鬱陶しい。うんざりとしながら、錦山組の事務所へ向かう。
その途中ーー
「折れてもない癖に何が治療費よ!ばっかみたい!」
女の鋭い声。普段なら気にもしない、神室町では良くある光景だった。それなのに、どうしてかその声に惹き付けられた。
「こういうことやめたらどう!?」
「て、てめぇ……!なめてっと痛い目みるぞ!!」
「……っ!?」
噛みついた女に逆ギレした男が拳を振り上げた。女は身体を小さくして目を固く閉じ、これから来るだろう痛みに備えていた。峯は足早に近づき、即座に振り下ろされた男の腕を掴んだ。
「女に手を上げて、恥ずかしくないんですか?」
「あ、何だ、てめぇ……!?」
「何か?」
腕を掴まれて男は女にやったように怒鳴ろうとしたようだったが、峯の鋭い眼光に言葉を失い、口をつぐんだ。そして峯の手を振り払うと尻尾を巻いて逃げていった。情けないその後ろ姿を最後まで見ることなく、峯は女に視線を落とした。落ち着いたトーンの茶髪に、カジュアルな服装のどこにでもいるような女だ。何故助けようと思ったのか、峯自身もよく分からなかった。
腕時計を横目で見やり、峯は約束の時間が近いことに気づいた。遅れるとあの男がうるさい。女は助けたし、このまま放って置いても問題はないはずだ。
「私はこれでーー」
「峯くん?」
その声を聞いたときトクンと胸が大きく鼓動した。見ず知らずの女の口から飛び出たのは自分の名前だった。
「やっぱり、峯くんだ。覚えてる?」
訊ねられて峯は女の顔をまじまじと見つめた。弧を描いた唇は薄く色づき、目元はしっかりとメイクをしているが、キャバクラの女のように下品ではない。こんな女の知り合いなど峯にはいないーー筈だ。
ーー峯くん。
そう呼ばれる度にどこか懐かしい。峯のことをそんな風に呼ぶ女なんてーーいや、いた。記憶の奥底に眠っていた思い出を掘り起こす。
小学校、中学校時代の色褪せた苦い記憶の中で、唯一色付いていたあの女がーー峯くんと呼んで、目の前の笑顔と重なる。あの頃の面影を僅かに残してすっかり大人になったその女を見て、峯はらしくなく瞠目した。
「転勤先で峯くんに会えるなんて奇跡かも」
先程からこちらが一言も発していないのに勝手に喋り続ける女のそういう所は昔から変わらないようだ。
「峯くんはかっこよくなったね」
ありきたりで言われ慣れた言葉もその女が発するとどうしてか特別な物のように聞こえた。女は何が嬉しいのか、顔を綻ばせながら峯を見上げた。
「……アスカ」
今の今まで忘れていた女の名前はそんなことを感じさせないくらい、するりと峯の口からこぼれ落ちて女ーーアスカへと届く。
「良かったぁ!さっきから峯くん、何も言わないから忘れられたのかと思っちゃった!」
実際、ついさっきまで忘れていたが、それを言うと拗ねそうだ。この女はいつもそうだった。峯の言葉に拗ねて、口を尖らせてーー。
「今から暇?お茶でもしようよ!」
「生憎、仕事だ」
つい神田のことが頭から抜け落ちていた。時計を見ると約束の時間まで後10分を切ろうかというところまで迫っている。少しでも遅刻しようものなら、あの男はけたたましく吠え散らかすだろう。大した力もない癖に厚かましさだけは人一倍。神田を大きくしてしまったのは自分のせいだが。
峯の答えにアスカは至極残念そうに眉を下げた。しかしすぐにぱっと表情を変えてアスカは持っていたハンドバッグから手帳を取り出した。そこにアルファベットの羅列と数字を幾つか書いてからページをちぎり、差し出してくる。
「今忙しいみたいだから連絡先だけ教えとくね!仕事頑張って!」
受けとると同時にアスカは手を振り、足早に立ち去っていった。あんなに話していたのに峯が急いでいるのに気づいた瞬間、あっさりと切り上げるあたり、アスカはよく気が利く。
すでに小さくなった背中を峯は見えなくなるまで見つめていた。
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