隣のクラスの錦山くん
bad end
「──あれ?」
チェストの上に置いていた猫のぬいぐるみがひとりでに転げ落ちた。地震でも起きただろうか?首を傾げながら、ぬいぐるみを拾い上げて元の位置に戻す。少しばかり年期の入ったそのぬいぐるみは私の大事な宝物だ。
「錦山くん」
ぽつりと呟く。あの頃を思い出し、懐かしさに目を細めた。
待っててくれ、迎えにいく──そう言われて早くも22年が過ぎた。正直もう、諦めていた。22年という年月は待つにはあまりにも長すぎた。それでもあの頃の思い出は色褪せることなく、私の胸に残り続けている。
初恋、だった。だからこそ、忘れられない。諦めているのに、心のどこかで諦めきれない自分がいる。忘れた方が楽だって、別の人を好きになった方がいいって分かってる。中学からの付き合いの親友からは何度もそう言われた。
「……仕事、行かなきゃ」
壁にかけた時計を確認するともう予定時刻を過ぎている。ため息混じりに立ち上がり、ソファに置いていたコートを羽織って私は急ぎ足で家を出た。
神室町はすっかりクリスマスムードに包まれていた。ひやりとした風が頬を撫で、ぶるりと身体が震える。白い吐息を出しながら、私は街の中央に位置するミレニアムタワーの裏口へと向かった。仏頂面の警備員にいつもの挨拶をして、中へと入りいつも通り更衣室で着替えてタイムカードを切る。
ミレニアムタワーの受付嬢、なんていう仕事内容もさして難しくない事務員だ。来た人に案内をしたり、電話を取ったり、その程度。ひとつ難点があるとすれば、出入り口に近いせいか冬場は少し寒いことくらいだ。自動ドアが開く度にエントランスを吹き抜ける風に身震いしつつ、笑顔を保つ。人見知りの私が接客業を出来るようになるなんて、本当に年月の経過とは恐ろしい。
「それでしたら、24階の──」
慣れた調子で案内をして、去っていくその姿を見ていると再びカウンターの前に誰かが立つ。"いらっしゃいませ"とお決まりの言葉を告げてから、一礼をして顔を上げた。
ぱちり、と視線が絡み合う。
「に、しき、やまくん……?」
時が止まったかのような感覚がした。目の前には錦山くんがいた。あの頃とは変わり果てた姿に私は瞠目する。髪は後ろに撫で付け、白いスーツを着て、恐ろしいほどに凍てついた鋭い眼光はあの頃の面影すらなかった。それでも、すぐに錦山くんだとわかったのは未だに彼を忘れられなかったからだろう。
私が名前を呼んだことに錦山くんはひどく驚いた様子だった。けれどそれも一瞬でくしゃりと顔は歪められる。
「アスカ……」
22年ぶりに名前を呼ばれて、とくりと胸が鳴る。久しぶりに聞いた錦山くんの声になんだか泣きそうになった。
「久しぶり、だね……」
「そう、だな……」
仕事中だということも忘れて、私は錦山くんにぎこちなく話しかける。向こうも同じように頷いた。
「…………ここで、仕事してんだな」
「……うん」
「今日は何時までだ?危険な連中がここに来る。早めに仕事切り上げて逃げとけ」
「え?」
神室町には東城会傘下の極道組合が沢山いることは知っているが、その大半はカタギに手を出すような危ないヤクザではなかったはずだ。何度か強面のそういう雰囲気の人を案内したことがあるが、皆普通の人よりも丁寧な振る舞いで優しかった記憶がある。
私は戸惑いがちに錦山くんを見つめた。
「何なら今すぐにでも、ここから離れろ」
「…………」
「お前を巻き込みたくねぇ……」
はっきり言って突拍子も無さすぎて、理解が追い付かない。言葉を詰まらせていると錦山くんは「頼む」と懇願してきた。彼がここまで言うのだから、何らかの抗争がここで行われるのだろう。何故そんな事を錦山くんが知っているのかはわからないが。
こくりと小さく頷くと錦山くんは安堵したように薄く笑みを浮かべた。その笑みは昔と変わらぬもので安心する。
「錦山くんはどうするの?」
「俺は……ケジメをつけなきゃならねぇ」
「ケジメ……?」
聞き返したが、錦山くんはそれ以上なにも言おうとはしなかった。暫くふたりの間に沈黙が降りる。気まずさに視線を落とした。
そんな私の頭に手が乗せられる。二、三度ぽんぽんと頭を撫でるとその手はすっと離れていった。
「……悪いな」
その謝罪は何に対してだろう。卒業時の約束の事か、それとももっと別の事か。私には判断できなかった。何かを堪えるようなそんな苦しげな表情を浮かべたまま、錦山くんは私に背を向ける。逃げるように足早にエントランスを抜けていくその背中を慌てて追いかけた。乱暴に押し開けたカウンターの仕切りがけたたましい音を立てたが気にせず走った。
「錦山くん!待って!」
ぴたりと自動ドアの前で錦山くんが足を止めた。外の風がびゅっと吹き抜け、私の髪を拐う。
「私、待ってるから……!ずっと、ずっと、待ってる!」
「…………」
「……っ、」
何も言わずに錦山くんは顔だけを僅かに此方に向けた。全部諦めたようなそんな──柔らかな笑み。その表情を見た瞬間、私は全てを悟ってしまった気がした。言いたい言葉を見失って、口をつぐむ。
「じゃあな、アスカ」
随分と簡素な言葉だった。今度こそ出ていった錦山くんを追いかけることもできないままただただ私は立ち尽くした。遠くなる白い背広を私は人混みに紛れて見えなくなるまでずっと見つめた。
ぽろりと一粒涙がこぼれて落ちた。
そして私は言われた通りにいつもより早く、ミレニアムタワーを出る。ミレニアムタワーが爆発したのはそれから数時間後のことだった。
その日ミレニアムタワーで何があったのか、私は知らない。
prev ◎ next