- ナノ -

龍が如く2

11:怒髪衝天


逃げた新藤を追い、桐生が走り出す。足音が遠くなり、やがて消えた。希望か、それとも絶望か。どちらが戻って来るかによってアスカの命運は決まるだろう。

「本当に……どうしようもない奴らだね」

アスカの背を擦ってくれていた堂島弥生が苦い顔をして立ち上がり、小走りで会議室を出ていく。部屋に残っていた新藤の組員はその姿を一瞥しただけだった。
女一人に何もできないだろうという浅い感情が透けて見える。部屋の隅で転がる俺も同じ様に思われているらしい。実際俺は無力だけれども、彼女は違う。極道の女として会長が不在の間、東城会を支えた強くて凛々しい人だ。

俺だって……俺にだって何か出来る筈だ。

座り込んだまま手を痛いくらいに握りしめる。長い髪がサラサラと顔の横を流れ落ちた。暫く目を閉じて、荒れた心を落ち着ける。大丈夫、出来る、なんて自分に言い聞かせて、親友の顔を思い浮かべた。そして静かに吐息を漏らして、ゆっくりと立ち上がる。幸い新藤の組員も背を向けていてアスカの動きは悟られていない。

側に転がるサイドテーブルを拾い上げて組員の背後に忍び寄る。柏木が動き出した俺に気付いたが、表情に出さず無言を貫いてくれた。テーブルを振り上げて、全身全霊で男の頭に振り下ろす。

「……覚悟しろ!!」

「ぐあっ!?」

「お前!何し──ごはっ!?」

不意打ちをまともに食らった男は一撃でノックアウトして崩れ落ち、もう一人の男が反撃しようとしたがそれよりも前に柏木が横っ面を殴り飛ばした。銃が床を滑っていく。それを横目にアスカは柏木に向き直った。

「助かりました。柏木さん」

「いや……礼を言うなら俺の方だ。情けない姿を見せてしまった」

互いに顔を見合わせて一息をつく。何とか会議室は奪還できた。後は桐生が戻ってきてくれればいいのだけれど。

額に滲んだ汗を拭った。自分が思っている以上に緊張していたようだ。

「あんた一体誰なんだ?」

「……俺は、アスカ。一馬の知り合いだ……後あんまり近付かないでくれ、トラウマがあってな」

歩み寄ろうとした大吾は途中で足を止めた。会話するにはやや遠い距離だが、物分かりがよくて助かる。悪いなと軽い謝罪をして、小さく笑った。

「真島に強制退院させられたと聞いていたが……その様子を見ると完治はしていなさそうだな」

「あぁ……それはまぁ……そうすぐに治るもんじゃないですから」

困ったように眉を下げ、視線を落とす。
柏木は例の100億円事件に巻き込まれたアスカの東都病院の個室や医療費の手配をしてくれていた。あの騒動もしっかり耳に届いているらしい。
真島なりに心配してくれていたのも分かっているし、そもそもあの真島を止められる人間なんてごく少数だ。それこそ桐生くらいでなければ無理だろう。だからその件で柏木を責めるつもりはない。

柏木と話していると会議室の扉が勢いよく開かれた。

「──アスカ!」

飛び込んできたのは希望だった。所々切り傷が見えるものの大怪我もなく生きている。その後ろには堂島弥生の姿もあった。

真っ先に此方に駆け寄り、安否を確認してくる。そしてトラウマの事を思い出したのか、跳ねるようにして退く。桐生にしてはらしくなく取り乱していて俺は落ち着けよと笑って──その肩越しに見えた白いスーツに戦慄した。

「一馬っ!!!」

唯一無二の親友でもその身体に触れるのは怖かった。俺の心を蝕むトラウマはそれほどまでに根深い。それでも、震える指先で桐生の身体を押し退ける。目の前で銀色が煌めいた。

「──っあああ!!」

鋭い切っ先がアスカの左肩を切り裂き、鮮血が飛び散る。焼きごてを当てられたような熱が肩に走り、全身から冷や汗が噴き出した。咄嗟に傷口を手で庇うが意味はない。じわじわと赤が指先を汚して、痛みで身体が傾いた。

「おい!アスカッ!?」

「あぁアスカさん……後で手当てして差し上げますから……それまで死なないようにお願いしますよ」

崩れ落ちかけた身体を新藤が掴み、耳元で囁く。その声が鼓膜にこびりついて離れない。

真っ逆さまに堕ちていく。
絶望が俺を捕らえて微笑んだ。

一瞬にして身体が動かなくなる。瞳から光を失ったアスカを愛しそうに新藤は一度抱き締めてから、地面に投げ捨てた。





side:Kiryu

桐生の数少ない親友をまるで玩具のように扱う新藤に頭の中が真っ赤に染まった。ここまで怒りを覚えたのは久しぶりだ。

床に投げ捨てられたアスカは小さく呻いて動かなくなった。胸は上下しているから死んではいないが、血に染まるその姿を見るとアスカまで喪ってしまいそうで恐ろしくなる。

錦山に監禁されて以来、陰りのある笑みしかしてくれなくて。少し前にトラウマがやっとマシになってきたんだと、昔のような朗らかな笑顔で話してくれていたのにこいつのせいでアスカは──あの絶望に満ちた顔が忘れられない。またそんな顔をさせてしまった自分も許せない。

痛いくらいに手を握りしめた。爪先が手の平を傷つけるのも気にせず、ただ怒りのままに強く握る。

「余程死にてぇみたいだな」

自分でも驚くほどに低い声が出た。手加減しろと言われても今の俺には到底できないだろう。

「アスカさんは俺の物です。アンタなんかには渡しませんよ」

「黙れ!アスカは物じゃねぇ!」

さも当然のような"物"扱いに俺は反論した。振りかざされた刃を避けて、俺は拳を叩きつける。だが、新藤もそう簡単には当たらない。拳をギリギリでかわし、刀をつき出してきた。

「くっ……!」

切っ先が頬を掠めて小さな痛みが走ったが、それに構わず桐生はガードの甘い脇に攻撃を打ち込んだ。確かな手ごたえが指先に伝う。たたらを踏み、二、三後退した新藤に追撃を狙い更に詰めよったが、新藤は刀を薙いで桐生の接近を防いだ。

東城会の一角を担っている以上、それなりに新藤は強い。しかし、武器に頼っている時点で錦山程ではない。

刀を側に落ちていたサイドテーブルで防ぎ、素早く背後に回り込んだ。

「これで終わりだ、新藤!!」

振り返り様に振ってきた刀を手で凪ぎ払い、無防備になったその顔面を渾身の力で殴り飛ばす。完全に顔を捉えた攻撃を喰らい新藤は床に転がり動かなくなった。

時間が掛かったがやっと仕留めれた。肩で息をしながら、桐生はため息を漏らす。そして思い出したようにアスカに走りより、その半身を抱えあげた。

「アスカ!大丈夫か!?」

「う、ぁあ……ごめ、んなさ……ごめん……」

ガタガタと身体を震わせてアスカは謝罪を繰り返していた。桐生が声を掛けてもまるで聞こえていない。トラウマの発作だ。今のアスカはあの日に戻って絶望の底にいる。

「アスカ、しっかりしろ。俺が助けに来た。だからもう大丈夫だ」

どうやればアスカが正気に戻るかなんて、桐生にはわからなかった。アスカの手を握りしめてひたすらに声をかけ続けた。そのどれかがアスカの心に届けばいいと願いながら。

「アスカ……!」

「っ……か、ずま……?」

さ迷っていた暗い瞳が俺を捉えて、泣き出しそうに歪められる。安堵したように小さく吐息を漏らして「ごめん」と掠れた謝罪がひとつ。

「お前が謝る必要なんて──」

言葉を遮るように銃声が響き、弾けるように振り返った。大吾が硝煙の立ち上る銃を構えて新藤を睨み付けている。絶縁を言い渡されたというのにこの期に及んで新藤は反撃しようとしていたらしい。

「テメェの欲で組を滅茶苦茶にしやがって!!ぶっ殺してやる!!」

再び銃口が火を噴き、新藤の胸元を抉った。新藤の身体が跳ねて仰向けに倒れる。更に引き金を引こうとしたのを弥生が制し、その場はようやっと収まった。



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