- ナノ -

龍が如く1

41:龍と鯉


エレベーターが目的のフロアにたどり着くまでの僅かな時間が妙に長く感じた。階上で微かに聞こえていた銃声はいつの間にか聞こえなくなっている。
1つずつ増えていく数字をじっと見つめた。このまま時間が止まってしまえばいいのに、なんて。

首もとで揺れるリングを無意識の内に握りしめていた。

アスカの心情など知らずにエレベーターは耳障りの良い音を立て、機械的なアナウンスと共に目的のフロアに到着する。音もなくドアがスライドし、視界から消えていった。温かい色味の照明の取り付けられ、きらびやかな装飾のなされた店内がドアの向こうに広がっている。その眩しさに目を細めながら、錦山の後をついてアレスに足を踏み入れた。

エレベーターを出てすぐの階段下。桐生と遥と美月ーーいや、由美が此方を見た。その顔に緊張が走る。

「アスカくん、錦山くん……」

その声を聞くのは何年ぶりだろう。顔は変わっても、その眼差しの奥に秘められた強さは変わらない。
コツ、コツと階段を降りて、桐生達に近づいた。桐生も由美も此方を見る顔は険しい。そんな鋭い目線を物ともせず掻い潜り、錦山はせせら笑った。

「何だそりゃ、爆弾か?」

確かに由美の手元には薄型のアタッシュケースが握られている。さほど大きくはないが、本当に爆弾なのだとしたら一部屋を吹き飛ばせるくらいの威力はあるだろう。

「由美、馬鹿な事はやめろ」

「だめよ!100億はあなたに渡さない!」

「由美。お前そんなに俺の事が憎いのか。まあそうだろうなぁ……当然の話か」

由美は遥を守るように一歩前に踏み出し、強い口調で返した。ハッキリとした否定の言葉に錦山は静かに息を吐き出して、顔に暗い影を落とす。

「錦……お前、まだ諦めていないのか?」

「当たり前だ!!俺はどんな犠牲を払っても東城会の跡目になる」

突然、声を荒らげられ、俺はびくりと身体を揺らす。
"東城会の跡目になる"何度も聞いた錦山の野望。その野望の達成は、同時に桐生に対する劣等感をも晴らせる。どこまでも比べられ続けた錦山にとってそれは重要な事だった。

「なぁ、錦……それは無理だ。お前神宮に踊らされていたんだ。神宮の本当の目的はな……」

諭すような桐生の言葉を、んなこたぁ分かっていると錦山は乱暴に遮った。

「言ったろ、桐生。俺は10年前、お前を裏切ったあの日から、アスカ以外……誰も信用しちゃいねぇってな!神宮が俺に話を持って来たときから、信用しちゃいなかったんだ」

側にあった白い革張りのソファに錦山はどかりと座り込んで、膝の上で手を組んだ。

「じゃあ、お前は全てを知ってて……?」

「あぁ、そうだ!俺は負けたくなかったんだよ。俺は……」


ーーお前に負けたくなかったんだよ、桐生。


それは今まで桐生に言えなかった錦山の本音だった。その言葉を聞いて由美は顔を歪め俯き、桐生は険しい顔をしたまま何も言わなかった。

錦山は徐にポケットからタバコを取り出し、火を着ける。吐き出されたタバコの煙がゆらりと立ち上った。

「俺は由美を愛していた。だが由美は、一度も俺に振り向いてはくれなかった。由美の中にはお前しかいなかった」

由美は桐生が好きだった。錦山は由美が好きだった。桐生はーー。

「10年前の事件の後……俺の目の前からお前という存在が消えた。その時、俺は決意したんだ。運命を変えるために、どんな犠牲も払うってな」

「その犠牲が、親っさんや麗奈だったって言うのか?」

「そうだ。俺は100億を手に入れ、東城会を継ぐ。そしてお前から由美を奪い返す。それで初めて、俺の運命が変えられるんだ!」

表情ひとつ変えずに肯定した錦山に、怒りを滲ませながら桐生は唸った。風間と麗奈だけではないシンジも他の人も、この事件でどれ程の血を流したかわからない。

「錦山くん。……やっぱり分かってない」

ぽつりと由美が呟いた。

「そんな事して何になるの?そうやって変えた運命じゃ幸せになんてなれない。あなたは、自分に都合の悪い事から逃げてるだけ」

正論すぎるその言葉はアスカの胸にも突き刺さる。

「本当に運命を変えたいなら辛いことも全て受け止めて、それでも逃げないで立ち向かうことなんじゃないの?一馬や遥のように!」

「うるさい!!どうしてお前は、俺を認めてくれないんだ!!」

また、だ。由美は決して錦山を肯定しなかった。また比べられて、錦山は眉を吊り上げいきり立つ。怒りに任せ怒鳴られ、由美は悲しげに顔を歪めて俯いた。

由美の言い分も、錦山の心情もどちらも分かっているからこそアスカには何も言えなかった。会話に入る事もできず、ただ立ち尽くす。

「錦……俺にはお前の苦しさが分かる。俺は一番大切にしていたお前たちを失った……」

桐生と視線が交わる。真っ直ぐな眼差しは俺には眩しすぎて。なんだか居たたまれなくなって、視線を反らしてしまった。
やはり錦山を止められるのは桐生しかいないのだ。俺には寄り添う事しか出来なかった。支えにすらなっていたか怪しい。俺が桐生のように強ければ運命を変えられたのかもしれない。

「もう戻ろうと思っても10年前に戻ることは出来ねぇ。もうその運命から、逃げる事は出来ない。だから……」

皆、少しずつ後悔しているのだと桐生の台詞で気がついた。どうしてこうなってしまったのだろうと内心で思っている。けれど、もうやり直せない所まで来てしまった。

「決着をつけよう」

出来ることなら戦ってほしくなかった。桐生と錦山。アスカにとってはどちらも大切な親友で、どっちにも傷ついてほしくないのに、運命の神様はいつだって残酷だ。
邪魔にならぬようアスカは後退し、壁際に寄った。

「あぁ、決着をつけよう。俺たちの戦いに……!」

互いに睨み合い、スーツを脱ぎ捨てた。鯉と龍をそれぞれ背負った二人がぶつかり合う。同時に動きだし、拳を振るった。突き出された拳が双方の頬を打ち抜く。攻撃に怯みながらも再び拳を構えて向かい合った。

殴る度に血が飛び散る。口の端から流れた血を錦山は親指で乱暴に拭うと、再び拳を構えた。
どちらも一歩も退かない猛攻。お互いの決意を賭けた喧嘩。熾烈な戦いに目が離せない。無意識の内に祈るように胸の前で手を固く組んでいた。

「一馬……彰……」

どっちが勝ってもどっちが負けても、辛い結果になる。囁くように呟いた名前は誰にも届かずに虚空に消えていった。

鈍い打撲音が何度も響き、互いに決して倒れない長い戦いだった。


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