隣のクラスの錦山くん
梅雨。
ザアザアと雨音がうるさい。今朝の晴天とは一転、鉛色の空からは大粒の雨が降り注いでいる。ここ最近は雨が多い。梅雨時だから、仕方ないとはいえ雨が続くと憂鬱な気分になる。
ふう、とため息をついて、私は傘を片手に下足に履き替えた。ふと、前を見ると見慣れ過ぎた背中が見えて、私は立ち止まる。
(錦山くんだ……)
校舎入り口の軒下で錦山くんは空を見上げていた。眉間にシワを寄せ、少しばかり不機嫌そうな顔をしている。どうやら傘を忘れたのだろう。多少の雨ならいつも走って帰っているのを見かけるが、流石にこのどしゃ降りは無理なようだ。
ちらり、自分の傘を見る。養護施設のヒマワリは学校からそこまで遠くはない──近くもないが。その上私の家とは若干方向的に逆である。けれど、このまま錦山くんを無視して帰るのも良心が咎める。無視したらこの間折角仲良くなったのに、嫌われそうだ。
傘の柄をぎゅっと握りしめて、私は意を決してその背中に声をかけた。
「錦山くん。良かったら、一緒に帰る?」
「いいのか?」
「勿論」
傘を見せながら、問いかけると錦山くんは嬉しそうに顔を綻ばせた。
校門を出て、通学路を並んで歩く。いつもより高い位置にある傘に何だか違和感があってそわそわしてしまう。ちらり、と盗み見るように錦山くんを見た。
「大丈夫か?濡れてねぇ?」
錦山くんと目があって、私はどぎまぎしながらも小さく頷く。まさかこっちを見てるとは思わなかった。顔が赤くなっていないことを願う。
「錦山くんも濡れてない?」
「俺ぁちょっとくらい濡れても問題ねぇよ」
「ダメだよ、風邪引いちゃう」
いくら男で身体が頑丈だとしても、風邪に掛かる可能性はある。咎めるように言うと錦山くんは苦笑して分かったよ、と頷いてくれた。ほんの少し近づく距離。触れあいそうな肩。心臓の音が錦山くんに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいに騒がしい。
信号待ちの僅かな時間でさえひどく長く感じた。何とも言えない沈黙をどうにかしようと私は意を決して口を開く。
「「あの……」」
台詞が被って思わず顔を見合わせる。
「えぇっと……お先にどうぞ?」
気恥ずかしくてお互いに視線を反らしながら促すと、お、おうと錦山くんは戸惑いつつも首を縦に振った。その横顔はほんの少し赤い。
「あー、と、その……お前ん家、こっちなのか?」
照れを紛らわせるように錦山くんは長い前髪をがしがしとかきあげる。そんな些細な仕草でさえカッコよくて、どくりと心臓が跳ねた。
「えっと……うん。そうだよ」
「それなら、いいけどよ……」
本当の事を言うか否か悩んで、私は僅かな逡巡の後小さく頷いた。嘘をついた事に良心が咎めたけれど、錦山くんと一緒にいたいから細やかな嘘は許してほしい。
「ところで、優子ちゃんは元気?」
「おう。最近は調子良いみたいだぜ」
あのショッピングモールの一件から、優子ちゃんとは時々文通をしている。まだ勇気が出なくて実際に会いに行ったことはないが、手紙の文末にはいつも"会いに来てください"と書かれていて、何だか申し訳ない。こんな私が錦山くんの妹に会うなんて恐れ多いというか、なんというか。
「そっか。それなら良かった」
それでもいつかは会いに行きたいと思っている。私の勇気と錦山くんのお許しが出たならば、だが。
そんな話をしているうちに、養護施設ヒマワリが見えてきた。コンクリートの塀に囲まれた向こうに年季の入った木造の建物がある。話には聞いていたが建物を見るのは初めてだ。
「ここまで送ってくれてありがとよ。助かったぜ」
門の前まで辿り着くと錦山くんは傘の柄を差し出してくる。それを受け取り、私は錦山くんを名残惜しげに見上げた。
傘の下、向き合うのはまるで恋人同士のようで──。
「ぁ……えと、じゃあ、また明日ね!」
頭の中に思い浮かんだ己の欲望が産み出した妄想を振り払うように私は別れの挨拶をした。平凡な私がそんな事を考えるなんて烏滸がましすぎる。錦山くんと付き合う、なんて。
「おう。また明日な。気をつけて帰れよ」
「うん。ありがとう」
ヤンキーらしい薄っぺらい鞄を頭上に掲げて錦山くんがヒマワリの玄関先まで走っていく。その背を見送り、私も帰るために踵を返した。
先程まで二人で歩いていた道を一人で歩くのがひどく寂しい。
私がもう少し可愛ければ、背が高ければ、もっと社交的だったなら、錦山くんと付き合えたのだろうか。そんな事ばかりが頭の中をぐるぐると回る。こんな卑屈な私なんて錦山くんはきっと好きにならないんだ。
「──やーっぱり、嘘ついてやがった」
「ひえっ!?に、にににしきやまくん!?」
とぼとぼと歩いていた私の背後から飛び出してきたのは別れたばかりの錦山くんだった。ヒマワリから持ってきたのだろう、手には汚れたビニール傘が握られている。走ってきたようで少し息を切らしながら、不機嫌そうに眉を吊り上げていた。
「ったく……お前の嘘、バレバレなんだよ」
「痛っ!」
コツンと額を小突かれて、その小さな衝撃で我に返る。額を押さえて、俯いた。嘘をついたという罪悪感から、目が合わせられなかった。傘の柄を握りしめて、私はびしょ濡れの足元を見つめる。心臓がぐしゃりと潰れてしまいそうだった。
嫌われてしまったかもしれない。
そう考えると顔を上げられなかった。どれだけそうしてたろうか。然程時間は経っていなかったとは思うが、私にはとても長く感じた。
突然、ぐぃ、と手を引かれた。私より一回り大きな手が私の手に重ねられている。一歩前を歩く、錦山くんの背中を私は呆然と見つめた。
「に、ににににしきやまくんっ!」
「お前、さっきからどんだけ"に"付けるんだよ」
錦山くんが振り返る。おかしそうに笑っていて、もう怒ってはいないようだった。緊張していた身体から力が抜ける。
「ほら、行くぞ。アスカ」
鼓膜を通りすぎる錦山くんから発された、私の名前。呼ばれたのは二回目だ。起きているのに夢を見ているようで、繋がれた手の温もりでさえ信じられなかった。
案の定、自宅までの帰り道、錦山くんと何を話したのかほとんど記憶に残っていなかった。
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