- ナノ -

龍が如く1

38:心底


side:錦山


麗奈やシンジに乗せられたとはいえ、アスカが逃げたのは錦山にとっては想定外だった。揉み合いのせいで薄く汚れたスーツの裾を手で払う。

何故逃げた。こんなにも愛しているのに。

考えれば考えるほどにイライラを抑えきれず、足元の丸椅子を蹴り飛ばした。力任せに蹴った椅子は想像以上に飛んで、カウンターの向こうの酒の棚にぶつかり、酒瓶の割れる鋭い音が散らばる。

「ーーチッ」

荒れ果てたセレナを一瞥して、踵を返した。部下への連絡は済んでいる。後はーー。

スーツのポケットをまさぐり、目的の物を取り出す。電源をオンにしてダイアルを回し、周波数を合わせた。僅かなノイズの後、声が聞こえてくる。

『はぁ……は、』

アスカの息遣いが近い。首輪に内蔵されているから当然だ。疲弊した呼気が暫く続き、ざわざわと風切り音が混じる。

どこまで逃げるつもりかは知らないが、あの傷を抱えたシンジと体力の落ちたアスカ、それから麗奈。たった3人でどうこうできる筈がない。錦山が差し向けた追っ手に捕まるのは時間の問題だろう。

シンジと麗奈はもう俺には不必要だ。部下には親を裏切った処分をするよう、命令をしてある。どれだけシンジが強くとも、数の暴力には敵わない。必ず潰す。アスカを誑かした罪は重い。

「さて……どうしてやろうか」

逃げ出したのだから相応の罰を与えなければ。もう逃げ出さないように、もう逃げようと思わないように、きつく強くしつけよう。

無意識の内につり上がった口許を手で隠した。

『……ザザ……アスカくんは錦山くんの事、どう思ってるの?…… 』

不意に盗聴機が麗奈の声を吐き出した。それは錦山の興味を引く話題だった。

実のところ俺はアスカがどう思っているのかを一度も聞いたことがない。いや、聞くことを恐れていた。手の中に閉じ込めて、一方的な愛を囁いて。そんな俺をどうしてアスカが好きになってくれるだろう?
分かっていた。そんなことをしても無意味だと。いたずらに怯えさせるだけで俺とアスカの心は離れるばかりだった。

盗聴機を握りしめる手に力が入る。どくりと不安げに心臓が鼓動した。唾を飲み込み、アスカの答えを待つ。しかし、アスカは麗奈の問いには答えなかった。
暫しの沈黙のあと、麗奈が口を開く。

『私ね、錦山くんの事好きだった。好きになってくれるかもって、錦山くんが望むことは何でもした……でもーー』

過去形の麗奈の告白。その想いに気づきつつ利用して踏みにじったのは錦山だ。言葉は途中で嗚咽にかき消された。圧し殺した泣き声が微かに聞こえて、錦山は顔をしかめる。

『俺は……約束したから』

「『約束……?』」

麗奈と声が被る。一体誰と、何時、何の約束したんだ?桐生かとも思ったがそうではなさそうだ。

『……いや、約束なんてなくたって、俺は……俺は、彰が大切だから……』

穏やかに笑う気配がして、胸に突き刺さるような痛みが走った。

ーーどうして。

どうして、アスカはこんな俺をまだ大切だと言ってくれるのだろう。

「ぁああ……!!クソッ!!」

行き場のない感情を壁に打ち付けた。拳の痛みに高ぶった心が冷えていくのを感じる。

俺は間違っていた。あいつが由美と同じように俺から逃げることを恐れて、閉じ込めて言うことを聞かせた。でもそれは全部、間違ってた。アスカはそんなことをしなくたって、俺と一緒にいてくれたのだ。
それなのに俺は信じきれずに、自分の孤独を埋めるために自分の思うままにあいつを蹂躙し、心を悉く破壊した。

『あいつのとこに戻らなきゃ……』

今からでも遅くないと信じて、優しくしようと正しく愛そうと決意した。俺を想い続けてくれたあいつのためにーー。



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