龍が如く1
37:融解
事務所は出払っていてがらんとしていた。皆シンジの捜索に駆り出されているのだろう。車での移動の間で動転していた気持ちを何とか落ち着かせ、冷静さを取り戻した。
新藤に抱きかかえられたまま、組長室へ入る。部屋の奥で錦山がデスクに片肘をついて座っていた。
「親父。お待たせしました」
「あぁ。遅かったな」
思いの外、錦山は苛ついていなかった。理由はわからないが、とりあえずその事に内心でほっと安堵する。酷いことはされなさそうだ。
新藤は労るようにそっとアスカをソファに下ろした。にも関わらず、ずきりと太ももが鈍い痛みを発して、アスカは呻いた。
「今手当てをーー」
「俺がやる。お前は戻って現場の確認をしてこい」
「……はい。失礼します」
足の手当てをしようとした新藤はやや不満げに引き下がり、一礼をして部屋を出ていった。
二人きりになって少し緊張する。錦山が救急箱を用意する音だけが部屋に響く。所在なさげに視線をさ迷わせて、アスカは視線を下に落とした。
濡れたタオルと救急箱を手にした錦山がアスカの前で膝をつく。
「彰……」
黒と青の瞳が絡み合い、そして反らされた。
染みた血が乾いて固くなったズボンが荒っぽく裂かれる。傷口が露になり、痛々しさにアスカは目を背けた。実際痛いのだが、視覚的に痛いのも中々に辛いものがある。
血で汚れた太ももを錦山がタオルで拭うと、一瞬にして白が赤に染まった。
「お前は誰と、何を約束したんだ?」
唐突な質問だった。質問の意図を捉えかねて、アスカは暫し考え込む。そして、すぐに麗奈との会話を思い出した。
錦山の事だ。恐らく盗聴機から盗み聞きでもしていたのだろう。
「彰が世界一大切に思ってた人だよ」
敢えて名前を言わなかった。それでも、伝わる筈だ。
微かに目を見開き、太ももを拭う手を止めた。それで、と錦山に続きを促されたが、アスカは立てた人差し指を口許に持っていき笑みを浮かべた。
「秘密」
「なんだよ、そりゃ……」
釣られるように笑って、錦山は軽く額を小突いてくる。いてぇよ、と口を尖らせると錦山はふんと鼻で笑いながら、包帯を救急箱から取り出した。
「足、軽くあげられるか?」
「ん……」
ズボンの上からぐるぐると巻かれる包帯を眺める。やや雑なそれが錦山らしくて苦笑いしてしまった。
「下手くそだな」
「医者がくるまでの応急処置だ。文句言うんじゃねぇ」
「いや……ありがとう。逃げてごめんな、彰」
感謝と謝罪を。
静かな空間に錦山が救急箱を片す音だけが響いた。長い、長い沈黙が続く。俯いているため錦山の表情は此方からは窺えない。
ーーぱたん。蓋を閉める音がやけに大きく響いた。
「……お前は、」
言葉を詰まらせ、迷子のようにゆらゆらと視線をさ迷わせる。その錦山の表情が苦しそうで、辛そうで、気がつけばアスカは手を伸ばしていた。
頬に触れる手に、錦山の手が重ねられる。
あんなことをしたのに、逃げないのか?桐生じゃなくて俺でいいのか?不安だらけの感情の濁流。それらを感じとり、アスカは青藍色の瞳を細めて穏やかに笑う。
「いいよ。大丈夫……ずっと、一緒にいるから」
だから、安心していいんだよ。
そっと錦山の頭を抱き寄せた。壊れ物に触れるかのようにおずおずと錦山の腕がアスカの背中に回される。
「アスカっ……!」
「うん。……俺はここにいるよ」
抱き締める腕の温もりに錦山の思いを感じた。
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