- ナノ -




君へ。


誰もいない研究室。エイダのために用意された研究室だ。
その中央。僕はいた。彼女はウイルスを準備しているため、僕に背を向けている。
沢山書類の積み上がったデスクに最新式のパソコンの置かれたデスク。薬品瓶が並べられた灰色のガラス戸の棚。
僕はそれらを眺めながら椅子の背凭れに体重をかけた。

ぎし、と椅子が軋んだ音を立てる。

「ねぇ、ヴェント」

不意に彼女が声をかけてきた。
僕は棚に向けていた視線を彼女へ戻す。いつの間にか彼女は注射器を片手に此方を向いていた。
何?と僕は首を傾げて聞き返す。

「後悔、してない?」

らしくなく彼女は不安げに、おずおずと問いかけてきた。
僕はその問いかけに目を丸くする。どうして今更、そんな事を。

――後悔。こうかい。僕は確かにしていた。
それは今じゃない。ずっと前。カーラを実験体にされる瞬間に何も出来なかった弱虫な自分自身に。

息を吐き出しながら緩く笑みを浮かべる。

「大丈夫、してないよ。しないよ。これからも……ずっと」

これは確信だ。実験体になる事を僕は絶対後悔しない。誓うよ。今ここに。貴方に。
僕の言葉に彼女は泣きそうに笑ってそう、と頷いた。

彼女は僕の傍へと歩み寄り、注射器の調子を確認する。そっと首筋へ注射器が添えられた。
ぷつり、首筋にちくっとした痛みが走り異物が身体の中へ押し込まれていく。

「……ありがとう、ヴェント」

注射器が抜かれると同時に彼女は言った。
どういたしまして、といつものように返す事は出来なかった。

暑い、熱い、あつい。身体が熱を持ち、全てが焼き尽くされるような感覚に僕はぜえぜえと荒い息を繰り返す。
必死に酸素を供給しようとするが気管支が焦げ付き上手く作用しない。
苦しさに僕は喉を押さえ、椅子からずり落ちて膝をつく。

だんだんと身体が動かなくなっていく。僕は身体を丸めた。
身体が蛹化しているのだと、思考のどこかで理解した。思考回路もいつか潰えるだろう。

そうなる前にね、貴方に言っておきたい事があるんだ。
もしかしたら最期かもしれないから。

殆ど動かなくなった表情筋を動かして僕は言の葉を紡ぐ。

――    、カーラ。

彼女がどんな顔をしていたかなんて、僕にはもう、見えなかった。




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