聞こえた音は、
ピシ、どこかで音がした。それはきっと、運命の壊れる音だった。
「カーラを使え」
その言葉を聞いたとき、僕は研究室の扉の前で驚愕した。
心臓が驚くほどにバクバク脈を打ち、顔から血の気が引く。きっと今の自分の顔色は真っ青を通り越していたと思う。
だが、ここでうろたえては研究員を外されるかもしれない。きゅ、と手を握り締め、深呼吸を数度繰り返して荒れる心を落ち着かせる。
さっきの声はシモンズだろう。ここでは彼が一番偉い人。彼に逆らえば僕の命なんて蝋燭の火のようにあっけなくかき消されてしまう。
どうしたら、なんて、分からない。必死に頭をめぐらせど、何も思いつきはしない。
とりあえず、今は、自分の成すべき事を。
緩くかぶりを振ってヴェントは扉を開けた。
「ああ、君か」
「どうも、シモンズさん」
挨拶をしたが、彼は興味なさげに僕を一瞥した。
好かれていると思ってはいないため、そんな彼の態度にダメージを受ける事はない。
寧ろ、目の前のモノの方が痛々しくて見ているのも辛い。
実験体だ。
人間の。
後に残った骨格からして恐らく――女性だ。
C-ウイルスに適合できなかったのだろう。発火し後に残ったそれを他の研究員達が処理していく。
慣れた手つきで、表情一つ変えずに。この空間は異常だった。
誰もが人殺しを平気でしている。実験の過程でどれだけの化け物と死者が増えようと、彼らは顔色一つ変えなかった。
「カーラには秘密で、な」
すぐ傍に立つ研究員にシモンズが耳打ちしたのに気付いた。その研究員は首を縦に振り、了承する。
きつく手を握り締め、僕は思わずその会話に横槍を入れてしまった。
「カーラは……ここの研究員ですよ!実験に使うなんて!!」
それも、秘密でなんて納得できない。彼女の意思はどうだっていいのか。
静かな研究室が僕の声を反響させ、しんと静まり返る。
全員が何事かと作業の手を止め何事かと此方の様子を伺っている。
「なんだね?文句があるのなら研究から下りてもらうが?」
鬱陶しそうに顔を歪め、シモンズはぎろりと僕を睨む。
鋭い眼光に僕は息を詰め、何も言葉を出せなかった。弱虫な僕は彼女を護る事すら出来ないのだ。
どうして彼女を使うの?有能な部下だと言っていたじゃないか。手放したくない、とも。
それなのに?実験体にするなんて、信じられない。
握り締めた手にピリリとした小さな痛みが走る。
どうしたら?なんてさっきからずっと考えてるけど答えなんてちっともでない。
計画は僕を除いてゆっくりと進んでいく。
「ではそのように」
「よし、ならばすぐにでも頼む」
クク、と笑いシモンズは顎鬚を撫でる。
同じように嫌な笑みを浮かべて研究員は出て行った。
扉の閉まる音に僕はぎくりと身体を揺らし、持っていたクリップボードを落とす。
挟まっていなかった書類が数枚宙を舞い床へ散らばった。クリップボードが床を叩くけたたましい音が響き渡る。
でも僕はそれを気にもせず、研究室を飛び出した。背後で先輩研究員が怒鳴る声がしたけれど、僕は無視した。
駆ける先は彼女のいるだろう場所。
もう一つの研究室の扉を僕は叩き壊す勢いで開けた。
――ダァンッ
「カーラッ!!」
倒れる彼女と、下卑た笑みを浮かべる研究員。
彼女の名前を呼び、身体を支えるが彼女の意識は……ない。
「どけよ!クズ!実験の邪魔すんな!」
「うっ……や、やめろよ!カーラは同僚だろ!」
思い切り背中を蹴られ、痛みに僕は呻く。
研究員だから大した攻撃力はなかったが、痛いものは痛い。
「もう遅いんだよっ!」
男が叫んだ瞬間手の中の彼女が燃えた。
手を焼く熱に僕は短い悲鳴をあげ、彼女を手放してしまった。
ごとんと鈍い音を立てて彼女が床へ落ちる。炎は彼女の身体を焼き尽くし真っ白にしていく。
呆然と、その光景を見ていた。
何もかもが遅すぎたのだ。もしもあの時に戻れるならば僕は。
何かが壊れる音が、した。
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