ピアノリサイタル:02
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再び東側に戻る途中、西側の調査できていない部屋があることに気がついた。 大食堂から出て右の奥にある扉を開けた。廊下は相変わらず腐敗臭が充満していたが、この部屋はワインの微かな香りが漂っている。 瑞希は腐った肉以外の匂いを久しぶりに嗅いで、幾らか気分が良くなり緩く口元を上げながら部屋の中を見回した。 カウンターテーブルのある、いわばバーのような一室だった。カウンターの奥にはまだ中身のある酒瓶がずらりと並べてある。 更に部屋には小型のグランドピアノが置かれている。ピアノバーとしてこの部屋を使っていたのだろう。
クリスがカウンターを調べている間に、瑞希はピアノの鍵盤に指を滑らせた。
――ポーン、
静かな部屋に調律の狂っていない透き通った音が響く。 適当にドレミの音を続けて鳴らしてみたが、鍵盤が少し固いくらいでとくに何もない。ただのピアノのようだ。
「弾けるのか?」
「いや……」
ピアノの置かれている壁の背後にある小さなアルコーブに押し込まれている木製の書棚を調べていたクリスが問いかけてきた。 瑞希はそれに肩を竦め、首を振る。一応ドレミの配置と楽譜の読み方ぐらいなら一般知識として知っている。 練習さえすれば弾けなくもないだろうが、あまり音楽には興味がない。
クリスはどうだ、と問いかけようとしたが、どう考えても弾けなさそうだと思い、瑞希は言葉を飲み込んで傍にあった小さなテーブルの上にある紙束を確認した。 ベートーヴェンの"月光"だ。"悲愴"や"熱情"と並んで有名なピアノソナタだ。 そんな事はさて置き、楽譜に並べられた音譜を指でなぞりながら、瑞希は旋律を頭の中で思い浮かべる。 頭の中では簡単に思い浮かべれるが、弾くのは難しいだろう。が、折角楽譜があるのだから、ためしに弾いてみるのも悪くはない。 楽譜の一番前のページを開いて、ピアノの譜面台に置いた。 えぇと……最初の音は――……。手の位置を少し考えてから、鍵盤にそっと重ねる。
「お、弾いてみるのか?」
ニヤニヤ笑いでクリスが開けられた反響板の向こう側から覗き込んできた。 そう期待されても、ピアニストのように素晴らしい演奏など出来ないのだが……いや、クリスは寧ろ俺のへたくそな演奏を期待しているのだろう。 あえて返事をせずに視線を楽譜に戻し、指先に力を込めた。
"月光"は繊細でとても素晴らしい曲なのだが、瑞希の技量では到底その素晴らしさを表現出来なかった。 つたなく、月光と判断する事すら出来ないくらいのレベルだった。傍で聞いていたこれは想定外だったのかクリスも顔を引きつらせている。
「……ま、まあ、ミズキにも苦手分野はあるよな」
「…………」
フォローすら虚しい。まさか自分がここまでピアノが下手だとは思いもしなかった。 プロやアマチュアレベルとは行かずとも、一般レベルには弾けると思っていたのにそれすら及ばず、最低の中の最低に位置するド下手とは自分自身も驚きである。 別に弾けなくたって生きていけるが、思った以上に弾けなくてショックだ。はぁ、と魂が出そうなほどの重いため息を吐き出し、鍵盤から手を離した。もう二度と人前でピアノなんて弾いたりしない。
「よし、じゃあ次は俺がやってやる」
「……おう」
クリスの事だから期待はしない。というか、既に置いている手の位置が可笑しい。 妙に自信満々で弾き始めたクリスだが、最初の一音から間違えているしリズムも音階も"月光"とは全く違う。即興のオリジナル曲になっている。 暫く弾いてからクリスがやりきったような顔をして此方を見てきたため、瑞希はおざなりな拍手をしておいた。
「……って、こんな事してる場合じゃないんだけどな」
こんな化け物うごめく館でド下手リサイタルしたところで寄って来るのはゾンビくらいなものだ。 互いに顔を見合わせて、どちらからともなくため息をついた。
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