- ナノ -


かゆい、うま:01





「あー……俺外で待っててもいい?」

「何言ってるんだ、駄目だぞ」

腐敗した臭いの充満した部屋に、瑞希は顔を引きつらせた。
棚の前に倒れた人間に、明らかにヤツがいるだろうバンバンと音を鳴らし今にも開きそうなクローゼット……入りたくない。
二人はハンドガンを握り締め、注意深く部屋に踏み入れた。

足音を立てずに死体の傍を通り過ぎる。
死体は動かない。それに安堵しつつ、ハンガーや洋服が乱雑に置かれたベッド脇を通り、机の上を確認する。
デスクランプに照らされてグラスやコインが輝いている横に布地のカバーの掛けられた薄い本が一冊置かれていた。

他のところには埃がうっすら積もっているが、本に埃はなくつい最近まで動かされた形跡がある。
本を手に取った。表紙にタイトルはない。どうやら誰かの日記のようだ。本を開き最後の数ページに目を通す。
いつウイルスの漏洩が起こったのか日記から割り出せるかもしれない。

――May 9.1998
今晩、警備員のスコットとエリアス、そして研究員のスティーヴとポーカーをした。
スティーヴの圧勝だった。まったく、胸糞悪い野郎だ。

May 10.1998
お偉方の一人が新しい実験動物の世話をしろと言って来た。皮を引ん剥かれたゴリラみたいだった。
そいつには生きた動物を餌に与えろとのご命令だ。だから檻に豚を放り入れてやったら、その餌を弄んでいるみたいだった……
足を引きちぎり、内臓を抉り出して散々楽しんでから、実際にお食事に取り掛かりやがった。
そういえば、あの日本人の研究員はいつの間にか異動しちまったらしい。まったくアイツがいなくなってからめんどくさい仕事が増えた……

ぴしりと瑞希は顔を引きつらせたまま硬直させた。本を持つ手に力が入り、紙が皺になる。
おいおい、何て事を書いてくれているんだ。ここに書かれた"あの日本人の研究員"とやらは間違いなく自分の事だ。
まだ名指しされていない分マシではあるが、鋭い奴が見たら気付きそうだ。これ以外にも館の中に情報があるかもしれないし。
それから実験動物――この書き方からすると、MA-121の事だろうか……?
肝を冷やしながら、次のページを捲る。

May 11.1998
午前五時ごろ、スコットに起こされた。吃驚した。
やつは宇宙服みたいな保護服を着ていた。同じ服を着るように言われた。
地下の研究室で事故があったらしい。俺はいつかこんな事になるんじゃないかと思ってた。
研究所のアホタレどもは夜も休まず働いてたからな。

May 12.1998
昨日からこのいまいましい宇宙服をつけたままなんで、背中がむれちまって妙にかゆい。
いらいらするんで、腹いせにあの犬どもの飯を抜きにしてやった。いい気味だ。

May 13.1998
あまりに背中がかゆいんで医務室にいったら、背中にでっけえバンソウコウを貼られた。
それから、もう俺は宇宙服を着なくていいと医者がいった。おかげで今夜はよく眠れそうだぜ。

May 14.1998
朝起きたら、背中だけでなく足にも腫物ができてやがった。
犬どものオリがやけに静かなんで、足引きずって見に行ったら数が全然たりねえ。
めしを三日抜いたくらいで逃げやがって。おえら方に見つかったら大変だ。

May 16.1998
昨日、この屋しきから逃げ出そとした研究いんが一人、射さつされた、て はなしだ。
夜、からだ中 あついかゆい。腕のはれ物 かきむし たら 肉がくさり落ちやがた。
いったいおれ どうな て

徐々に筆跡が乱れ、この日から文章の異常も見られる。
目を細め瑞希はその日記の続きを読む。

May 19.1998
やと ねつ ひいた も とてもかゆい
今日 はらへったの、 いぬ のエサ くう

May 21.1998
かゆい かゆい スコットー きた
ひどいかおなんで ころし
うまかっ です。

4
かゆい
うま

最後のほうは筆跡の乱れが酷く、判読するのも難しかった。ほぼ単語のみの文になっている。
犬の餌を食べ、友人であるスコットを殺した。ウイルスに侵されてもなお最後の最後まで日記を書いた。きっと毎日の日課だったのだろう。
それよりも――

ダァンッ!

「ヒアッ!?」

突然背後で大きな音がして、瑞希は柄にもなく甲高い声を上げて振り返った。
クローゼットが開きゾンビが手を此方に突き出して、ずるずる足を引きずりながら近づいてくる。
音で心臓が縮まっているのに、ゾンビが出てきて更に縮こまった。
日記をデスクに投げ置き、瑞希は素早くハンドガンを構えトリガーを引く。

――タァンタァン。

二つの破裂音。二方向から銃弾が飛び、ゾンビの顔がぐちゃりと赤い血を撒き散らしながらはじけた。
どうやらクリスも同じタイミングで発砲したようだ。崩れ落ちたゾンビを見て、ほ、と安堵のため息を吐き出す。

むくりと音もなく、棚の前に倒れていたゾンビが立ち上がっていた。
緩慢な動きでゾンビはくるりと身体を半回転させ、クリスに喰らい付こうと腕を伸ばす。

「クリス、ありが――ぁあああ後ろうしろ!!」

「――っぐ!」

礼を言いかけていた瑞希はいち早くそれに気付き、叫ぶ。
が、少々遅かった。ゾンビはいつになく俊敏な動きでクリスの両肩を掴み、無防備になった項に口を近づけた。

(やばいヤバイやばい!!)

全身に冷水をぶっ掛けられたかと思うほどに、身体のそこかしこから冷や汗が噴出した。
顔から血の気が失せるのを感じながら、汗ばむ手でハンドガンを構える。
あのウイルスがどれほど危険なものか知っているからこそ、仲間がやられそうになっているのが恐ろしく怖い。

上手く狙いをつけれないまま、トリガーを引いた。

――タァン!

姿勢が悪いまま撃ったせいで、強い反動がきて身体が傾いた。
体勢を整える事も出来ずにその場に尻餅をつき、瑞希は目を閉じる。クリスの方を見ることが出来なかった。
もしも、噛まれていたら――もうクリスに合わせる顔がない。

恐る恐る目を開ける。

「……ミズキ、大丈夫か?」

「あ……お、おう」

心配そうに覗き込んでくるクリスに瑞希は頷き、差し出された手を握った。
手を引かれて立ち上がり、瑞希はクリスの首元を注視する。血で濡れていて傷があるかどうかは見えない。
心臓がぺちゃんこになったような感覚を感じながら、瑞希はおずおずと尋ねた。

「噛まれて、ないよな……?」

「ああ、ミズキが倒してくれたからな」

「そうか、」

心の中で良かった、と呟き、瑞希は胸を撫で下ろす。
そんな瑞希にクリスが訝しげな顔をして、此方を見ていた事なんてちっとも気付かなかった。




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