クリスと。:03
――迷惑だなんて……思った事すら、ない……! クリスの腕の中、頭上で苦しげに言われた。やっぱりクリスは優しい。 こんな俺にこんな温かい言葉をくれるんだから。
だからこそ、俺は、早くクリスの力になりたい。
とん、と胸を叩くとクリスはゆっくりと腕の力を抜いた。 菜月は半歩後ろへ下がり、クリスを見上げる。眉を下げ、歪められたクリスの表情に菜月は僅かに顔を俯けた。 強く手を握り締める。右はきしりと金属が軋む音がして、左手は破れた肉刺に指先が突き刺さり、ずくりと痛んだ。
……そんな顔をしてほしくないのに。
ぬるりとしたものが左手の指先に触れた。 視線を落とすと赤い液体が手のひらに溢れている。 クリスも菜月の視線を追い、それを見てぎょっとして目を見開いた。
「……ナツキ、今日はもうやめよう。そんな手じゃ無理だ」
傷ついた手をクリスは優しく労わるように両手で包み込んだ。 菜月が何か言うよりも前にクリスが手を引き歩き出す。
連れて来られたのは医務室だった。 射撃場から医務室までの道中、始終無言だった。 夜も遅いこともあり、誰もいない。蛍光灯の青白い灯りだけが廊下を照らしていた。
――バタン、
しんと静まり返ったこの場所で、扉を閉じる音はやけに大きく響いた。 部屋に染み付いた消毒液のツンとした匂いが鼻を刺激する。 クリスはガラス戸の棚の中を覗き込み、並んだ沢山の瓶の中から消毒液を探している。
医務室はそこそこ大きい。きっと訓練や何やらで怪我をする人が多いからだろう。 ベッドは10床、それぞれカーテンで仕切れるようになっている。今は誰もいないためベッドは綺麗に整えられてある。 医薬品の入っている棚も沢山あり、クリスが覗き込んでいる棚以外にももう2個も置かれていた。 同じ色をした瓶が数本ずつ置かれている。薬を切らすことの無いように予備が沢山用意されているんだろう。 ぐるっと、一周医務室内を見回したところで、クリスが声を掛けてきた。
「ナツキ、ここに座れ」
折りたたみ式のパイプ椅子を広げ、座るよう促される。 こく、と頷き菜月はそっと座る。少々古いのか椅子は座るとぎぃと軋んだ音を立てた。
「手を出してくれ」
「あ……うん、」
左手を差し出すと少し乾いて黒味を帯びた血が手のひらいっぱいにくっ付いていた。 中々にグロテスク。自分の手がこんな状態だったなんて今の今まで気付かなかった。 破れた肉刺からは新しい血が生々しい光りを放っている。義手の方は銃の反動だろうか、細かな傷が沢山ついている。
「酷い、な……」
クリスが顔を顰めて呟くように言った。 今まで忘れていた痛みが思い出したかのように疼き出す。
「とりあえず、消毒は血を拭き取ってからだな」
クリスは濡らしたガーゼを持ってくると、俺の手を痛まない程度にとんとんと叩くようにして血を拭き取った。 粗方の血が取れたところで、消毒液をしみこませたガーゼをクリスはピンセットで摘んだ。 それをみた俺はぴしりと身体を硬直させる。
「……染みるぞ」
言われなくても分かっている。そんな予告寧ろしないで欲しい。 ぎゅうっと目を瞑り、息を止める。
「っ〜〜〜〜っい〜〜〜っ……!!!」
消毒液をたっぷりと吸い込んだガーゼが肉刺に触れると同時にとんでもない激痛が走った。 言葉も出せず、菜月は椅子に座ったまま身悶える。痛みのあまりに目じりに涙が浮かんだ。 左手だけだから良かったものの、右手も消毒、なんていわれたら絶望しかなかった。
数十秒もすれば、なんとか耐えれるくらいに痛みは治まってきた。
「……痛い……」
ぐすん、と涙目で呟けば、頑張ったな、なんてクリスは苦笑気味に言う。 若干子ども扱いされているような気がするのだけれど。
消毒が終り今度は包帯を巻いていく。 くるくると徐々に自分の手が白く染まっていくのを見つめているとクリスが口を開いた。
「暫く銃の訓練は禁止する」
「……え……で、でも!そんなの……」
毎日のように体力をつけるための訓練と銃訓練はあるし、銃を元のように使いこなせるようになるために自主訓練は欠かせない。 否定の言葉を上げた俺にクリスは眼光を強くした。その鋭さに俺は言葉を止めた。
「こんな手で幾ら訓練をしても無駄だ」
「……っ」
いつもの優しいクリスではない。隊長としての、厳しい顔のクリスだった。 俺だって、分かっている。けれど、心は急くばかりで止まらない……止まれない。 視線を落とし、丁寧に巻かれた手元を見た。
「銃担当の教官には俺が話をつけておく……分かったな」
クリスと菜月では立場が違う。 BSAAではクリスはかなりの権限を持つと誰かが口にしていた。だから、教官に話しつけるくらい簡単なんだろう。 命令として言われたら、菜月はそれに従うしかない。
俯いたまま、俺は顔を歪めた。 空回り。何にも出来ない。何が役に立ちたい?結局俺は――。
――ぽん、
不意に頭を撫でられた。
「さあ、もう今日は帰ろう」
その声に先ほどまでの冷たさは無い。 いつも通りの優しさを含んだ暖かな声色だった。
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