甘くなりすぎた肉じゃがは捨てるのもしのびなく、まだ鍋の中に放置してある。まるでこの部屋に漂う空気のように、すっかり冷めきってしまっていた。
結局夕飯は、インスタントラーメンを二人分作って食べた。数分前まで麺をすする音がむなしく部屋に響いていた。
むなしく感じたのはたぶん、自分の心もむなしかったからだと思う。
先に食べ終わったヒソカはテーブルの上のどんぶりを持って立ち上がると、抑揚のない声でごちそうさまとつぶやいた。ちらりとヒソカの顔をうかがってみる。たぶん、いや、これは間違いなく怒ってる顔だ。
肉じゃがの失敗をヒソカのせいにしたのが、やっぱり気にくわなかったのだろうか。
「ヒソカ」
「なんだい」
かろうじて返事はするものの、目を合わせてはくれなかった。
「ヒソカ、ごめん」
「別に」
と言いながらヒソカはキッチンのほうへと歩き出した。
「別に謝ることないさ。よくわからないジャポンの料理を食べるより、ラーメンのほうがよかったからね」
「なっ」
その言葉にカチンときて、私も立ち上がった。ヒソカをにらむ。けれどここでまた言い返せば、同じことの繰り返しになってしまう。でも、そんな言い方しなくてもいいのに、飲み込んだ言葉とともに、私はキッチンへ消えていくヒソカの背中から視線をそらした。
ああ、もうどうしてこうなってしまったのだろう。なんて、理由はわかっている。私が悪いんだ。思い通りにならなかったからってヒソカに当たり散らした私が悪い。
あとになって反省するくらいなら最初からやらなきゃいいのにといつも思う。わかっているのにそれが難しい。
どうしたら許してくれるだろうか。もう一度謝ってみようか。あれこれ考えても他になにも浮かばない。
はあ、と肩をおとすと、テーブルの上に置いてあったヒソカの携帯電話が、着信音を鳴らしながら震えた。
「ヒソカ」
一瞬ためらったけど、キッチンにいるヒソカに一応声をかける。携帯の音が鳴り止むと同時に、ヒソカが部屋に戻ってきた。
「電話が」
「ああ、たぶん催促の電話だろ。仕事の途中で抜け出して来ちゃったからね」
意外なことに、ヒソカは普通にしゃべってくれた。少しほっとする。
「仕事の途中だったの?」
「うん。怒らすとこわいんでね、これからまた行かなくちゃ」
「そう、なんだ」
ヒソカの顔は、いつもの表情に戻っていた。テーブルの上の携帯を手に取り、ポケットにしまう。もう許してくれたのだろうか。真意はわからない。私は恐る恐るヒソカに聞いてみた。
「あのさ、仕事いそがしいの?」
「まあね。いろいろとね」
「そっか。あの、次はいつ頃会える?」
「うーん、そうだなあ。たぶんもうここに来ることはないかもね」
「え?」
思いがけない答えに驚いて大きな声を出してしまった。ここに来ることはないってどういう意味だろう。私とはもう会わないってことだろうか。
これはいわゆる別れを切り出されたということになるのか。別れの原因が肉じゃがなんて、笑い話にもなりはしない。頭の中はぐるぐるとヒソカの言葉を繰り返していた。
気がつくと、うまく息ができないでいる自分がいた。息苦しかった。どうしてだとか、なんでだとか、その一言も声に出すことができない。どうすることもできずに、ヒソカの足元に視線を落とす。
しばらくして、また携帯の着信音がヒソカのポケットから聞こえてきた。それはさっきより長い着信で、この部屋をいっそう重苦しく感じさせた。
手の平に汗がにじんで、緊張の糸が張り詰める。ヒソカは電話には出ようとしない。お互いなにも言わず無言のまま、永遠ともいえる長い時間が、流れているような気がした。
数秒後、あきらめたようにようやくその音は鳴り止んだ。静寂が戻ると、ヒソカの右足が私に向かって一歩近づいてきた。びくりと体が強張る。
「嘘だよ」
「え?」
「今のう、そ」
顔を上げると、ヒソカが意地悪く笑っていた。今、確かに嘘と聞こえたのは、気のせいではないはず。どういうことかとヒソカに目で訴える。
「キミに八つ当たりされたお返しだよ。けっこう酷いこと言われたんだから、これぐらいいいだろ?」
ヒソカの悪魔のような笑みを見て、体から力が抜けていく。自分でも思っていた以上にほっとしたみたいだった。ようやく生きた心地がしてきた。
「反省したかい?」
「しました。ごめんなさい」
「やけに素直じゃないか」
嬉しそうにヒソカが言った。
「はあ、今までで一番たちの悪い嘘かも」
「そうかい?」
ヒソカがクツクツと笑う。こんな笑顔でも嬉しいと思うなんて、ちょっとどうかしてるかも。
「ああ、本気で肉じゃががトラウマになるところだった」
「残念、それはおもしろそうだったのに」
またヒソカの携帯が鳴った。ヒソカのお仲間さんはそうとう怒っているみたいだ。早く行ってあげなよ、と笑いながら言ってあげる。
じゃあまた、と手を振って、三度目の着信音を響かせながら、ヒソカは部屋を出ていった。
洗い物を片そうとキッチンへ向かう。冷めきった肉じゃががお鍋の中に入っている。指でさわってみるとすっかり固くなっていた。
せっかく作ったのにもったいないなと思い、試しに一口食べてみる。
「甘い」
甘すぎて笑いがこみ上げた。最低な味だった。溶け切らなかった砂糖がかたまりになっていて、口の中でじゃり、と音を立てた。
ヒソカにはああ言ったけど、冗談なんかじゃなくそれこそ本当に肉じゃが恐怖症になるかもしれない。
そうなったら、とんだ笑い話だ。
薄っぺらな嘘 END
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