◎ 1
任務を終え、宿へ帰還する道中。しとしとと、耳に入る雨音に顔を上げれば、厚い灰色の雲に覆われた空が目に映る。その様はまるで、あの日生かした、大切な弟と刃を交える時が近づいているのだと、暗に示しているように見えた。
「(……もう、あまり時間は無い)」
心内で呟いた声は、誰に聞かれることもなく。先程より幾らか強くなった雨が、周りの音を吸収する。
これ以上酷くなる前にと、止めていた足に力を入れて、地を蹴った。
***
暫くして、古めかしい佇まいの小さな宿に到着し、先に来ているであろう相方の特徴を主人に伝えれば、一番奥の部屋だと告げられる。濡れて少々重くなった、黒地に紅雲の外套に煩わしさを感じながらも、言われた部屋の戸を引く。
しかし、部屋はもぬけの殻で、雨のせいか寒々しい空気が漂っていた。
「全く…部屋を取るだけ取っていなくなるとは」
どこに行ったのか知るところではないが、この天候からして、そう遠くへは行かないだろう。
外套を脱ぎ、手近なハンガーにかけ、忍具の入ったポーチを外して畳の上に置く。
一息吐いて窓を見遣ると、相変わらずの雨模様が広がっている。明日は晴れるらしいが、果たして止むのだろうか。
「………」
やがて暇を持て余し始めたイタチは、忍具の手入れでもしようかとポーチからクナイを取り出そうとした。
「、っ…」
ズキ、と眼の奥に走った痛みに、するり、と手から滑り落ちたクナイが畳に傷を作る。イタチは徐(おもむろ)に、片目に手をやる。幸い、すぐに痛みは引いたが、その表情は険しい。
「…イタチ」
「!…何故」
だから、一瞬反応が遅れてしまった。後ろを取られるなど、忍びとして致命的である。
それでも、焦りを表に出す事なく、背後にいる人物を流し目で見れば、彼にしては、落ち着いた声音で言葉を紡いだ。
「こんな所にいたのか。何をしているかと思えば…えらく余裕だな」
「……別に、何をしていようがオレの勝手だ…。お前こそ、何故ここにいる……サスケ」
部屋の中に、緊張という名の糸が張り詰める。両者共に動きを見せぬ間、イタチは些か疑問を抱いていた。
敵に居場所を嗅ぎ付けられないよう、常に細心の注意を払うのは当然だ。それが、S級犯罪者の集まりである"暁"なら尚のこと。しかもイタチは、"時"が来るまでサスケとの接触を避ける為、十分すぎる程に気を張っていた。
そしてもう一つ。決定的におかしい点は───
「(殺気を感じない…)」
一族を抹殺したイタチに復讐心を持つサスケが、復讐の相手を前に、こうも冷静に構えていられるのか。
仮に、影分身で様子を伺うだけなら、わざわざ姿を晒し、此方を警戒させるような真似はしないだろう。とすれば。
「お前………サスケではないな」
「…どうしてそう思う?」
「前のように、いきなり突っ掛かりはしないが…行動に気になる点が幾つかある。何より…復讐相手を前に殺気すら出さないとは……オレも甘く見られたものだな」
一回瞬きをすれば、紅き瞳に浮かぶ三つ巴。間髪を入れず、先程畳に落としたクナイを手に、後ろを振り返る───
「…今日は、戦いに来たんじゃない」
「っ、」
「なあ、今日が何の日か知ってるか」
振り返った筈の身体は、中途半端に横を向いていた。背に感じる温かさは、確かに本物で、トクトクと安定した鼓動が伝わってくる。たったそれだけのことが、何よりもイタチを安心させた。弟は、ちゃんと生きているのだ、と。
「───アンタの、誕生日だよ」
あの頃は、あまり祝ってやれなかったから。
静かに話すサスケの声は、どこか寂しさを含んでいるような、そんな声だった。
一方のイタチはといえば、弟の口から出た言葉を心の中で反芻し、不覚にも、喜びを噛みしめていた。もう二度と、自分の生まれた日を祝ってもらえることは無いと、覚悟していたというのに。まさかこんな形で実現するとは、誰が予想しえただろう。
「……覚えていて、くれたのか」
「忘れるわけないだろ…どんなに憎くても、アンタはオレの、たった一人の兄貴なんだ」
有り得ないことだとわかっている。この世界に、こんな都合のいい展開が用意されている筈は無い。
しかし人間とは、殊の外起こりそうもないものに、希望を見出だしてみたくなる生き物だ。自分にもまだ、そうした思いが残っているとでも?
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