◎ 甘い深みへ堕ちていく。
期待なんて、してるわけじゃない。なのに、この心はどうしようもなく"それ"を求めて止まないのだ──。
"あの"出来事から、約一ヶ月が経とうとしている。
余裕が無かったとはいえ、学校であんな行動をしてしまうとは、自分でも予想外だった。と同時に、誰かに見られてはいないかと、暫くの間ハラハラしながら過ごしたのは言うまでもない。幸い、妙な噂が立つこともなく、こうして今日という日を迎えたのだが。
(あれから…何も言わねぇな)
この数週間、オレは悶々とした思いを抱えていたというのに、イタチにはこれといった変化が見受けられなかった。少なくとも、家での様子を見る限りは。
学校でもたまに見かけてはいた。しかし、普段とそう大差ない風で、オレに気付くと小さく微笑んでくれるが、果たしてそれは変化と呼べるのか。単に弟だからとか、そうした理由の方がしっくりくるような気がしてならない。
「(それとも、アンタにとって、あれに大した意味は無かったのか?)兄さん…」
「呼んだか?」
「…ッ?!なっ、い、いつからいた」
独りごちた呟きに反応されて、咄嗟に後ろを向けば、イタチが居間の入口に立っていた。気配を感じ取れない程考え込んでいたらしい。ひどく動揺したオレを見て、イタチは不思議そうな顔をした。
「何をそんなに驚いてる?」
「別に…アンタこそ、気配無く背後に立つな」
「居間の前を通ったら、お前がオレを呼んだから声をかけただけだろう…。それに気配を消したつもりはない」
そうだ。オレが気付かなかっただけで、イタチは気配を断ってなどいない。ただ、この心情を悟られるのが嫌だったばかりに、子供じみた言い訳をした。…本当に、アンタってやつは。
「…そうやって、いつも人の心を掻き乱すんだな」
「……何の話だ」
「オレは見返りが欲しくてあんなことをしたんじゃない」
そう言うと、内容を察したのか、イタチは僅かに瞳を伏せる。その憂いを帯びた表情すら、オレの心音を乱すというのに。
カチカチ、と時計の針が時を刻む音だけが響く室内に、何とも言えない空気が流れる。あぁ、こんな思いをするくらいなら、あんなもん渡さなきゃよかった。アレさえなければ、今まで通り"兄弟"としてアンタを見ることが出来たのだから。
「…なら、お前はどうしたい?」
「……」
「見返りがいらないなら、オレに何を求める?」
「…オレは」
静寂を破って紡がれたイタチの言葉に、漸く決心がついた。この心の内を言うことで、たとえオレの欲しい答えではなかったとしても、言わずに後悔するよりはマシだと、思った。
「最初は…そうだった。ただ、アンタの…兄さんの傍に居られれば、それで良かった」
人間なんてのは欲深い生き物だ。一定の状態に満足すると新たな欲が沸いて、更にその上を求めてしまう。満たされていた筈の心は、途端に物足りなくなる。いわば人生など、そうしたサイクルの繰り返しなのだ。
「だけど、オレの心は次第に物足りなさを感じるようになった」
そこまで言うと、未だ入口で立ち尽くすイタチへと歩み寄る。もうここまで来たら後には引けない。
ゆっくりと伸ばした手をそっと頬に添えれば、交わる自分と同じ漆黒の瞳。躊躇いを振り払うように、引き寄せて、口づけた。触れた部分から伝わる熱に、繋ぎ止めている理性を崩されそうになる。
「…兄さんの、心が欲しくなったんだ」
「……いいのか」
「?」
「他にも、お前のことを思ってくれる奴はいるだろう?」
お互いの吐息が届く距離で、問い返したイタチの瞳から迷いは消えていた。この返答次第で、オレ達二人は背徳の道を進むことになる。そうだとしても、オレの中の気持ちは変わらない。この先どんな困難が待ち受けていようと、乗り越えてやる。
答えは、既に決まっていた。
「アンタじゃなきゃ、駄目なんだよ」
「…そうか。ならば」
──オレも、その覚悟を示そう。
頬に添えていた手に、イタチの手が重なる。それを合図に訪れた二度目のキスは、あの日交わしたものよりも甘く、優しかった。そして、
甘い深みへ堕ちていく。
(密やかに愛をうたう)
12.3.18
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