あれは、いつだっただろうか…
生まれつき体が弱くて、知っているのは病室から切り取られた四角い箱の中に詰められて景色だけだった私に、治してやろうかと彼女が話しかけてきたのは。
私には、どうしても彼女の姿は見えなくて、彼女のその問いかけさえも聞こえなかった。でも確かにその時だったのだ。初めて私が弱音を吐いたのも、彼女がそこにいたのも。それはきっと偶然なんかじゃない。理論上とかそういうものではなくて、もっと根本的なところで私は彼女を把握して、助けを求めたのだ。

「生きたい…」


その一言で、十分だった。










夏目友人帳×HRMN企画
視える少女と視せる怪






頬に当たる風が本格的に冷たくなって、遠くなった空がおれに冬を伝えた。相変わらず、毎日おれを尋ねる妖怪たちに名を返す毎日。時には面倒に感じることもあるが、最近、その小さな出会いを大切に思っている自分がいる。

「あなたが夏目くんよね?」

学校からの帰り道、北本と西村と別れてからひとりの少女に出会った。

「君は…?」
「名前を返してほしいの」

はっとして少女を見た。おれと同じ高校のセーラー服のリボンが胸元で靡いている。少し癖のある柔らかいチャコールブラックの髪は彼女の肩の上を飛び跳ねていて、彼女の周りはとても静かだった。見た目は人間そのものだけど、ひょっとして妖怪なのか?悪いやつには見えないが…

「お前の名が友人帳にあるのか?」
「私が妖怪に見える?私じゃなくて、こっち」

ころころを笑う少女が指差す方につられて視線を移すと、少女の影から長い髪を低く二つに結った妖怪が現れた。柊のように面をしているのに、なぜか少女とその妖怪を姉妹のようだと思った。



「お前は…じゃあ君は妖怪が見えるのか」
「ええと…説明すると長くなってしまうの。そうだ、私の名前は東はるか。よろしく、夏目くん」
「ああ…よろしく。」
「こっちは実里よ。彼女の名前が友人帳にあるはずだから、返してあげてほしいの」
「そ、そうか、そうだったな…じゃあ」

おれと同じように妖怪が見える東の話をもっと聞きたかったが、さっきから東の陰に隠れるようにこちらをうかがう実里のことを思うと、名前を返すのが先だな。
鞄から友人帳を取り出す。しかし顔を上げたときにはもう、おれの手から友人帳は消えていて、目の前にはおれと同じような顔をした東と友人帳を握りしめる実里がいた。


「レイコには悪いけど、友人帳は借りていくわ!」

嵐のように飛び立つ実里を前に、おれと東は口をあけたまま佇むしかなかった。




*****




「私は小さいころとても体が弱くて、入院と退院を繰り返してたの。退院しても学校には行けなくて、毎日家で寝てるしかなかった。私が知っていたのはそこから見える小さな祠と部屋の天井くらいだったわ。」



ある日、まだ小さかった私でももうダメだ、ってわかるくらい高熱が出たの。覚悟はあったつもりだったし、こんなにつまらないならもう死んでも一緒だって思ってたときもあった。でも、いざ最期が近づいたとき、私が思ったのは死にたくないってことだったの。

両親を困らせたくなかったから一切弱音なんて吐いたことなかった。それに自分に同情しちゃったら終わりだと思ってたのね。

でも高熱で意識がもうろうとし始めたとき、私つい、「生きたい」って言っちゃったの。その場にはお母さんがいて、それを聞いて泣き出してしまったらしいんだけど、お母さんと一緒に実里もいたの。
私はまだ妖怪の姿も声も聞こえなかったけど、もしかしたら無意識にそこにいた実里に助けを求めてたのかもね。
実里はそれを聞いて、私に憑りついた。実里が私の中に入ってきた瞬間、さっきまで苦しかったのがウソのように体が軽くなった。
そして私たちは交換条件をしたの。



「交換条件?」
「そう。ヒトの病気なんて、怪の生命力があればすぐに治せる。実里が私の病気を治す代わりに、取られたあの子の名を取り返す手伝いをする約束をした」


きっと、名を取ったレイコさんも人間だから、人間の私がいた方がスムーズにいくと思ったんだわ。

ただ一つ問題だったのは、その頃にはもうレイコさんが亡くなっていたってこと。
病気が完治してすぐ、私は夏目レイコを探し始めた。
もちろん、約束したからでもあるんだけど、何より私は実里に恩返しがしたかった。
実里が私に憑りついているせいで妖怪が見えるようになった私は、村の人や、時には妖怪にも聞き込みをして情報を集めた。でもやっぱり、夏目レイコは死んだってこと以上の情報は入ってこなかった。


「そのとき、学校であなたの噂を聞いたのよ。夏目って名前の転校生が来た、って」

それで少し様子を見ていたら、あなたは、私と同じものが見えているようだったし、他の妖怪に名を返すところも見てしまったの。それで、ああ、やっぱりって思った。



「実里はすごくいい子なの。学校に行けなかったせいでまったく友達のいなかった私を支えて、何度も助けてくれた。実里はいい妖怪よ。だからこそ、なんであの子が友人帳を取ったのか見当がつかない…。でもお願い。必ず友人帳は返すから、あの子のこと、責めないであげて。きっと何か考えがあるのよ」


きっと、


「…わかった」


きっと、おれとニャンコ先生みたいなものなんだろう。


「東を信じる。友人帳は預けたから、また明日返してくれればいい」

ありがとう、とほほ笑んだ東を見て、きっと実里という妖怪も彼女のこの笑顔を放っておけなかったんだろうと思った。





******

「ただいま〜…聞いてくれよ、ニャンコ先生。今日…って、うわあ!」


東と別れてから、自宅に帰ってニャンコ先生に相談しようと部屋を扉を開けたら実里がニャンコ先生と並んで座布団に座っていた。


「実里?なんでうちに…あっ!ニャンコ先生!友人帳が…」
「それならここにあるわよ」

ひらりと友人帳を出す実里をニャンコ先生が横眼で見る。



「夏目…また厄介事に巻き込まれよって」
「別に、これをどうこうしようって気はない。だけど、ひとつお願いがあるの」
「名なら返す。それ以外に何かあるのか?」
「名前を返してほしいわけじゃない」


名前を返してほしくないのか。自分の名前のページを開いて、字をそっとなぞる実里はどこか寂しそうだった。

「これを…私の名前を破ってほしい」

「知らんのか?友人帳は貴様の命と同じ。もしそれを破れば貴様は…」

「構わない」

はるかと一緒にいられないなら………

「はるかはいま、あたしの力で妖怪が見えているだけ。もともとは体が弱いだけの普通の人の子だったわ。名前を返してもらったら、あたしがはるかと一緒にいる理由がなくなってしまう…はるかから離れてしまったら、あたしはあの子の世界から消えてしまうわ。姿も声を聞こえなくなるんだもん。そんなの、」

そこで実里は言葉を切った。
妖怪の涙を見るのは、これで2度目だ。

「だから友人帳を使って身を滅ぼすというのか?勝手なやつだなお前は」
「なんですって!あんたにあたしの気持ちはわかんないわよ、ブタねこ!」
「な、なんだとおおお〜う!?」


実里が友人帳を取ったのは、そういうことだったのか。

「ニャンコ先生の言うとおりだよ」
「…何がよ」
「確かに東と一緒にいられなくなって悲しいかもしれないけど、それを理由にお前が自殺なんてしたら東はどうなるんだ」

東の笑った顔が浮かんだ。
長年の友が自分が原因で自殺したなんて知ったら、あの優しい少女は間違いなく自分を責めるだろう。

「お前だって、東を苦しめたくなんてないだろう」

俯いた実里を横目に、やれやれとニャンコ先生が首をふった。

「馬鹿者め。人の命とはあっという間だ。遅かれ早かれ別れが来ることは承知していたことだろう。それが出来ぬのなら最新から人の子など放っておけばよかったのだ」
「うるさい。大体、お前にだけは言われたくないわ」

実里のためにおれに名を返してほしいと頼む東と、東と離れるのがいやで自殺しようとする実里。
ふたりの想いは同じようなものなのに、交わることは出来ないのだろうか。
遅かれ早かれ別れは来る…でもこれでいいのだろうか…

その後、実里は「すまなかった、人の子…悪あがきはやめて、大人しくはるかに別れを告げるわ」と肩を落として帰って行った。もちろん、友人帳は置いて。



****

その晩、おれは夢を見た。
小さくて痩せた女の子がベッドに腰掛けて外を見ている……きっと東だ。その横に実里は今と変わらぬ姿で座っているのに、東は気付かない。やがて実里は東に問う。人の子よ、なぜ何も言わない…もっと永く生きたくはないのか…と。東は答えない。自分の存在に気付いてもらえない実里の背中はあまりに淋しそうだ。


目がさめると、相変わらず変ないびきをかきながら先生が寝ていた。

「なあ先生。もしおれが明日いきなり先生が見えなくなっていたら、少しは寂しがってくれるのか?」

遅かれ早かれ別れは来る。
時間感覚の違う人と妖怪には仕方のないことだ。
だったら、せめてそのあっという間のそのときまで……

実里は東と一緒いれないのだろうか……



****

「夏目くん」

次の日の放課後、東はおれの教室に来た。
実里の姿は見えなかったが、名前を取りに来たのだろう。実里はちゃんと東と話し合ったのだろうか。

「ここじゃなんだから、場所を移そう」


夏場キラキラ光っていたプールも、この季節じゃなす術がないようにすっかり身をひそめていた。
裏庭に着いて友人帳を取り出しても実里は姿を現さなかった。

「実里は…」
「あ、ああ…あの子、さっきまで私の後ろにいたんだけど…」
「……東はこれでいいのか?」
「えっ?」

驚いた風ではない。聞かれたくないことを聞かれて困ったような顔だ。

「実里に名前を返したら、東はもう妖怪を見ることは出来なくなる」
「…仕方ないことだわ。今までがアブノーマルだったのよ」

アブノーマルか……

「実里ともきっともう会えなくなる」
「…そうね。私は夏目くんとは違うから……」

でもきっと、こうなる運命だったのよ


「夏目くん、お願い」
「ああ……」

静かに、本当に静かに風がふいた。

「実里、私あなたがいてくれたから今まで生きてこれたのよ。これでやっと恩返しが出来るわ…いままで人間の時間に付き合わせてしまってごめんなさい。…実里、お願い、私を忘れないで。私といた十数年なんて、きっとあなたの中ではあっという間なんでしょう。でもお願い、忘れないで……」


実里、君に名を返そう…
受けてくれーーー


「はるか、ありがとう。人の子なんてと思っていた。弱く強いあなたを知るまでは…大好きだよ」


さようなら……




*****








「見える?」
「いや…いないみたいだ」
「そう…もうどこかへ行ってしまったのかもね」
「そうだな…」
「実里は…実里は私がいなくても平気かしら。あの子、実はすっごくおっちょこちょいだから…」
「ああ…」


遅くとも早くとも訪れる別れ。
それはきっと悲しいものだろうけど、すごく美しいとも思う。


「…実里は、君がいて幸せだったと思うよ」
「……」
「始めて君たちを見たとき、姉妹のようだと思ったんだ」



実里、どこかでみているか?
君を思ってこんなに涙を流す人間がここにいるよ。君と東の気持ちが少しでも、通じ合えていたならいいーーー…





*****


そして次の日、展開は予想外の方向へと進む。

「あ、東…と…実里?」


もう妖の姿が見えないはずの東と、どこか旅にでも出たんだと思っていた実里が一緒におれを訪ねてきた。

「夏目くん…どうしよう…わたし、今までどおり妖怪が視えるのよ」
「あっ、あたしのせいじゃないぞ!?あたしだって、はるかに何が起こっているのか見当もーーー…」

「ほう…不思議なこともあるもんだなあ」
「ニャンコ先生…どうして東が妖怪が視えるのか知ってるのか」

いままでたくさんの妖怪を見てきただろう。それはつまり、おれのように命の危険にもさらされてきたということだ。ニャンコ先生より用心棒らしい実里がいたとしても、もし東が望まないなら妖怪の視える目などない方がいい。

「確証はないが…あらかた、長い間に実里の妖力に直でさらされて来たせいで、元からはるかの中にあった妖力というものが刺激されて増力したのだろう。実里がいなくなったことでそれらが解放されて妖の姿が視えるようになったのだ」
「それじゃあ…あたしのせいということか?」
「素敵」
「え?」
「東?」
「ありがとう、実里。あなたのおかげで私、わたしの世界を失わないで済むのね」

本当に嬉しそうに笑う東に、おれと実里は目を見合わせるしかなかった。

「それでいいのか、東。今ならもしかしたら解決策は…」
「いいのよ。こうやってまた実里と話せるなんて夢のようだし、それにーーー」






東と実里は、最初出会ったときのようにくっついて帰っていった。それはやっぱり姉妹のようで、先延ばしにされた2人の別れがまた、より悲しく思えた。

それに、そりゃあ怖いと感じることもあるけど、妖怪だって私の友達よ。雨をうざったく感じたって、雨が降らなくなればいいと思うのとは違うわ。
私、この目が好きなの。





最近、たくさんの出会いと別れを経験するうちに、世界が美しくなっていくように感じている。
おれもいつか、東のように思えるだろうか。
この不思議な力があって、良かったと思う日がーーー。
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