ワタルと一緒に梅酒を仕込む春のこと
春の匂いがする。
冬を越えたポケモンたちが草原の上を飛び回り、恋の歌を紡ぐ季節だ。
「___うん、今年もたくさん実ったね」
「ベェイ!」
今年も、庭の梅の木には多くの実りが届いた。ベイリーフも嬉しそうに鳴いて、梅の香りにうっとりとしている。毎年恒例の梅酒作り、まずは梅を収穫するところからだ。
ベイリーフに手伝ってもらいながら、気を付けて青梅を摘む。手を伸ばせる範囲に梅が無くなれば、脚立を少し移動させて次の場所に。まだ春始めとはいえ、今日の太陽は空高く昇っている。木陰がカサ代わりになってくれているが、額にはじわりと汗が滲む。漂ってきた青い香りを纏った風が涼しくて心地良かった。
「ベイリーフ、カゴをお願い」
ツルを伸ばして梅を収穫しているベイリーフに声をかければ、一つ返事でこちらにツルを伸ばしてくれた。梅がいっぱい詰まったカゴにツルが絡まり、梅が零れ落ちないように慎重に軒下へと運んでくれる。
その様子を端目に、わたしも脚立を降りようと立ち上がる。足が絡まないよう慎重に動いたつもりだったのだが、___下段にかけようとした右足ががくんと崩れる。段を踏損ねた、そう思った時には緩んだ手が脚立から離れ、体が宙に浮いていた。ゆっくりと視界がひっくり返る、その向こうにベイリーフの声が聞こえた。
全身打撲くらいは覚悟して目を瞑った、その瞬間だった。耳元でパシュンと耳馴染みのある音がした、その音がなにか考えるよりも先に…固い土の上に落ちるはずだった背が、もふりと暖かいものに包まれる。…もふり? この高級羽毛布団のような心地は、まさか。
「チルルル」
「… チルタリス、」
歌うようなソプラノの声に促されて振り向けば、そこには青空の色を纏った美しいポケモンがいた。どうやら彼が助けてくれたらしい、白い嘴が呆然とするわたしの額にすり寄って遊ぶように前髪を食んだ。わたしにチルタリスのパートナーはいない、だとすれば彼は____ カシャン
チルタリスの背から降りながら、誘われるように音のする方を見る。わたしと一緒に崩れ落ちた筈の脚立が、きちんと地面の上に立っていた。それを立て直してくれた人を見つけて、ぎくりと体が強張るのが解った。
「ワタルさん」
「…君は、本当に俺の言うことを何一つ聞かないな」
呆れたような声、ひやりとしたグレイの瞳に肩が震える。
「予定より到着が遅れることは連絡したはずだが」
「え、ええ ちゃんとメール届いています」
「俺が着いてから始めようと」
「はい、書いてありました」
「__で、君はいま何をしていたんだ」
差し出された手に甘えれば、ぐんと強い力で引き上げてくれる。その勢いが良すぎてふらついたが、ワタルさんが逆の手で腰を支えてくれた。見上げれば彼の顔がすぐ傍にある、これは言い訳が難しい距離だ。ぎゅうと手を握られる、なにかを促すように見つめてくるグレイに息が詰まりそう。
「ご、ごめんなさい」
我ながら風船が萎むような声だったと思う。ワタルさんがワザとらしくついた深いため息の音は、ベイリーフの嬉声に掻き消されてしまった。あ、チルタリスに飛びついた。
機嫌を取りたくて差し出したエプロンは、丁重に断られてしまった。やっぱり女性物なのがいけなかったのだろうか。シュンとしている内に、ワタルさんは革ジャンを脱いでさっさと梅の木に向かってしまった。仕事着でもあるフライトスーツの袖口を捲って脚立に昇る後ろ姿の逞しいこと、もしかしてリーグからそのまま来てくれたのだろうか。
(…梅酒を仕込むころには機嫌が良くなっていますように)
「ベイ?」
こっそり祈っているわたしの心の内などつゆ知らず、ベイリーフがべろんと舌で頬を舐める。うんうん、ありがとうね。収穫はワタルさんに任せて、わたしは下拵えを済ましてしまおう。
ベイリーフとわたしで収穫した梅は、たっぷりと段ボールの中に小さな山を作っていた。ザルと一緒に水道口の近くまで運び、選別しながらざっくりと水洗いをする。アク抜きは必要ない品種なので、水分を拭きとれば次の工程に入れる。
次はひたすら忍耐力との勝負である、竹串を使って梅のヘタを取り除く作業。出だしは好調なのだが、続けていくと何時の間にか背が丸まっていて、自然と息が詰まる。ハッと気づいては大きく深呼吸して、再び梅のヘタと睨めっこ。
そうして作業を繰り返し、半分くらいは終えたかなと思ったら、「ベェイ!」…ワタルさんのお手伝いに行ったベイリーフが、沢山のおかわり梅を持ってきてくた。いつの間にボールから出したのだろう、カイリューとフライゴンも収穫を手伝ってくれているようだ。ありがとうね…にしても梅、おおいなあ…。
(がんばれわたし!!!)
「チルルルル」
ベイリーフと一緒に梅を運んできてくれたチルタリスが高らかに鳴く。
___君、きみ良い嘴してるね。それでちょっとこうヘタをね、とれない? あ、ムリ? そっかあ。
「ミシャ、まだ終わってないだろう」
収穫を終えたワタルさんがやってきて、わたしの身体を揺らした。いつまでも終わらないヘタとり…無限ヘタとりに、わたしの精神は限界を迎えた。縁側に倒れて起きないわたしにそれを察したのか、ワタルさんがわたしの足を抱えて奥へと放った。そうして少し空いたスペースに座ると、黙って竹串をとってヘタとり作業を始める。
本当に彼のこういう…ある種ストイックなところは尊敬する。しばらく、そうして黙々とヘタとりをするワタルさんの背を眺めた。彼の背の向こうで、ポケモンたちが日向ぼっこしている。なんて穏やかな日なのだろう、
音立てないように静かに起き上がり、黙したまま彼の背にくっついてみる。腰に腕を回してみても反応はない、ぐりぐりと背に頬を擦り付けても同じこと。何も言わない。黙々とヘタとりを続ける様は、どこに出しても恥ずかしくない立派な梅酒職人である。
「お酒に漬ける準備、します」
「ああ、そうしてくれ」
集中しているのだろう、返って来た返事は淡白そのものであった。お仕事します。
予め熱湯消毒しておいたガラス瓶、氷砂糖にお酒。今年のお酒は、ワタルさんが去年のクリスマスパーティーで頂いてきたイッシュ産のウイスキーだ。
ガラス瓶の中に梅を詰めて、氷砂糖を少し流し入れる。その作業を繰り返して瓶の中にたっぷりと幸せを詰めこんでいく。サンタクロースさんもこんな気持ちなのだろうか、そんなことを思いながらウイスキーを流し込んだ。瓶の縁まで詰め終えたら、蓋を閉めて完成だ。
あとは冷暗所で保管するだけ、早くて三か月もすれば美味しい梅酒が出来上がり。
仕込むのは梅酒の他にも、梅シロップや梅みそ、それに定番の梅干しも欠かせない。空き瓶はたくさん用意している、欲望のままに仕込んでしまおう。
そうして縁側に並んだ梅の詰まった瓶の列は、中々に壮観であった。記念にパシャリと写真を撮ると、最後の梅のヘタを取り終えたワタルさんが竹串を放ってぐっと背伸びをする。普段から忙しなく動き回っている人だ、姿勢が固定されるような長い作業は堪えたのであろう。
そのまま庭に出て軽いストレッチをしている後ろで、ポケモンたちに手伝ってもらい瓶を蔵へと運ぶ。一通り運び終わって戻ると、ストレッチを終えたワタルさんが道具の片付けをしてくれていた。先ほどまで梅が沢山入っていた段ボールは…どうやらチルタリスの下敷きになっているらしい。頬を膨らませてほっこり丸まる様子を見るに、かなり気に入ったようだ。
「ワタルさん、ほら見て」
「去年仕込んだ梅酒か」
「うん、キレイな琥珀色でしょう」
運び入れるついでに蔵から取り出してきた梅酒は、去年彼と一緒に仕込んだものだ。
太陽の光が透けて、煌めく黄金色にうっとりしてしまう。まだ口に含んでいないのに、まるでもう酔いが回ってしまったみたい。それはワタルさんも同じようで、どちらともなく目を見合わせる。___大仕事の後だ、昼間から呑んだとしても怒られやしまい。
用意したグラスに梅酒をそそぐ、忘れずに梅も一粒。互いのグラスをカチンと合わせてから、こくりと一口。ぶわりと口の中いっぱいに広がる深く優しい梅の味。こくんと飲めば、アルコールがじんわりと疲れた体に染み渡る。
「おいしいー…」
「ああ、良くできている」
「ワタルさん、甘いお酒あまり好きじゃないのにコレは飲みますものね」
ワタルさんは酒気浮かれるわたしをちらりと見て、「そうだな」と呟いた。そのままくいとグラスを煽るのを見て、近くに待機していたカイリューが待っていましたと屈みこむ。ぱくりと開いた大きな口に、ワタルさんがグラスに残った梅を放り入れた。カイリューはもぐもぐと口を動かし、嬉しそうに両手を頬に添えた。
「もうひとついいか」
「うんうん、沢山どうぞ」
とろんと夢心地で追い梅を食むカイリューの様子が気になったのだろう。日向ぼっこしていたフライゴンが、そろりと近寄ってくる。赤いグラス越しの瞳が忙しなくカイリューと梅酒を行き来するから、ワタルさんに許可をとって、わたしのグラスに残っていた梅をフライゴンにあげることにした。
最初は警戒した様子だったが、くんと梅の匂いを嗅ぐと触覚と尻尾をピンと張り上げた。そうして舌をつけたりと戸惑いながら、牙を器用に使ってころんと口の中に梅を運ぶ。くしゃりと噛んだ瞬間、きっと梅の果肉といっしょにたっぷり染み込んだアルコールが広がったはずだ。
全身を満たす酩酊感、それが堪らないというようにフライゴンがぺしゃりと地面にへたり込む。だけど口は心地よさそうにもにゅもにゅと梅を食んでいた。おやつのポフィンを食べ終えたベイリーフがつんと鼻で突いても、お構いなしと言った様子だ。
「ふふ、ドラゴンは本当にお酒が大好きだねぇ。 そっか、だからワタルさんもお酒好きなんですね」
「__」
グラスに口を着けていたワタルさんが視線だけ寄越す。わたしも習ってこくんと梅酒を飲んだ、ふわりと体を満たす甘いアルコール。お酒を飲むと眠りたくなる性質なのであまり飲まない方が良いのだが、この誘惑に逆らえるはずがない。
芝生に寝転がるカイリューたちが気持ちよさそうで、わたしも横になろうかとふわふわした頭考える。…あ、こんな所に強そうな壁が。わたしはお行儀悪くずりずりと縁側を移動して、ワタルさんの横に座った。そのまま寄りかかっても、彼に動じる様子はない。まるで解っていたというように、わたしの腰に手を回してズリ落ちないように支えてくれた。
「ふふ、梅酒大好き」
「…ああ、」
たまには悪くない。とワタルさんが笑った。受け入れてくれていることが嬉しくて、彼の肩に頭を擦り付ける。梅の木の下でベイリーフとチルタリスが遊んでいる、ああ青草とあまい酒気。今年も、あなたとの春がきた。