ワタルが授業参観に来てくれるはなし
「今日のプリントはご家族にお渡ししてください」
プリントに書かれた授業参観の文字に、少しだけお腹がきゅうと痛くなる。
ミニリュウが心配そうにぷわぷわ鳴くので、大丈夫だと頭を撫でてあげる。お口と顎の間を撫でられるのが気持ち良いようで、そうしてあげるとすぐに目を細めてとろんと体を預けてくれる。帰りの会が終わる頃にはすっかり眠ってしまったので、モンスターボールに戻してお家に帰ることにした。
ワタルさんがお父さんになった、でもそれは、あまり実感が湧かないもので。
わたしは公務員のお姉さんの言葉にハイと頷いただけ、難しい書類の手続きはワタルさんが全部してくれた。大きなことだと思うけれど、わたしの生活は何一つ変わらない。ワタルさんのお家で暮らして、ワタルさんの後ろについて回って、ワタルさんに生き方を教えてもらう。…ああ、でも今年からポケモンスクールに通うことになったから、前よりも一緒にいる時間は少なくなったかもしれない。
いつもワタルさんの執務室で過ごしていた時間を、スクールで過ごすようになった。なぜスクールに通っているかと言えば、…通常、特別指定地区を除いた一般人は、義務教育機関スクールの卒業証明書がないとポケモン取扱免許が発行してもらえないからだ。
ワタルさんはどうやらそのことを失念していたらしい。というのも、彼の出身であるフスベの里は前述した特別指定地区に当たる。義務教育より前にポケモンと関わり、当然のようにトレーナーとなっていたワタルさんはスクールを出ていない。一応、チャンピオン就任後醜聞の為に一般大学で一通り勉強したらしいが、それきりであったため…キクコさんに指摘されるまで、思いもつかなかったらしい。
キクコさんがその話をしてくれたのはワタルさんと養子縁組を結んだその日だ。「そうだろうと思ったよ」と、呆れながらワタルさんの家から一番近いポケモンスクールの入学案内書を渡してくれた。そうしてわたしはとんとん拍子で、スクールに通うことになった。
「ただいま帰りました」
お家に戻ると、お留守番してくれていたウインディが出迎えてくれた。わたしの足音に気づいて玄関の前で待っていてくれたらしい。低い声で喉を鳴らして頬を摺り寄せるのはおかえりの合図、日向でお昼寝していたのだろう毛には少しだけ砂が付いていた。
「ワタルさんまだ帰ってないよね うんうん違うの、しょんぼりしないで」
ワタルさんは何時も帰りが遅いのは分かっていることだ、一応確認したかっただけ。まるで怒られたようにしょんもりしてしまったウインディを慰めながら、一緒にお家に入る。
(今日は、たぶん遅くなるよね)
今年度の始まりと同時に、見事セキエイリーグ優勝を果たし、赫々たる武功と共にチャンピオンの座を再び我がものとしたワタルさん。暫くはチャンピオン交代の業務引継と、引退中に滞っていた案件の処理で忙しくなるであろうことは目に見えていた。
毎晩遅くに帰ってくるワタルさんは元気いっぱいだが、それでも顔に疲れの色がある。その忙しさすら自分が望んだ結果であるからして、弱音のひとつ吐いてくれないが…わたしとしては、少しだけそれが寂しかったりする。お家で留守番するよりも、ずっと。…ずっと。
「ミニリュウ、一緒にお掃除するの手伝って」
「ぱう!」
ミニリュウが尻尾でハタキをスイングするのを端目に、モンスターボールを卓上スタンドに戻す。次にスタンドでスリープモードになっていたハイパーボールの開閉ボタンを押した。赤い閃光と共に現れたのは赤と青の不思議なポケモン、最近ワタルさんが保護したポケモンだ。
「こんにちはポリゴン、お掃除手伝ってください」
パソコンの起動音みたいな声で、ポリゴンは返事をしてくれる。ポリゴンと言うポケモンを良く知らないが、彼らは人工的に作られたポケモンらしい。
宇宙開発を目的とした計画の一端として生み出されたが、成果が実らず計画は破綻。同時に破棄される予定だったが、それを哀れに思った研究者がポケモン倫理協会とポケモン学第一人者のオーキド博士にポリゴンと研究データを秘密裏に提出した。その後、正式にポケモンとして認定され、生み出された二千個体の内、保護された二百体程がこの学名の括りを受けることになった。その殆どが警察機関、研究所やリーグ、その特性から重要なセキュリティを任されている会社に移譲されたらしい。
この子は、その世代よりも後に生み出された個体だ。ワタルさんが不在の間に悪い人たちがしてはいけないことをしようとしたのだと、その時同伴していたジムリーダーのナツメさんが教えてくれた。事件が収集されるまではワタルさん預かりとなったため、自動的に「世話をしてみなさい」とわたしにお鉢が回ってきた。
「ぱう、ぱぱぱう」
「トゥルー トゥルルン」
「ぱう!」
ミニリュウは弟分ができたと思っているようで。なにかにつけてポリゴンを構うが、ポリゴンはどこに吹く風である。いまも一生懸命掃除の仕方をミニリュウが教えているのに、ポリゴンはさっさと廊下の拭き掃除を始めてしまう。
ミニリュウが怒って追いかけようとするが、浮遊できないミニリュウではサイコパワーで動き回るポリゴンには追い付けない。ミニリュウが50p進んでいる間に、ビュンとポリゴンが戻ってきて彼を吹き飛ばしてしまう。
「ぱ、ぱうぅ〜…」
「無茶するから…」
目を回して倒れてしまったミニリュウを回収すると、二週目に突入したポリゴンが急ブレーキをかけた。じっとこちらを見つめてくるので「続けていいよ」と言えば、すぐにまたいなくなってしまう。…ポリゴンは、基本的な動作しかプログラミングされていないからして、その悪気はないと思うの。
ミニリュウは座布団の上に寝かせて、お掃除を続ける。洗濯物で困ると言えば、ワタルさんのスーツとマントだ。フスベの里に伝わる特殊な繊維で編まれているようで、洗濯する時にとても緊張する。マントは良く破れているから細かくチェックしなければいけない。ワタルさんのマントが破れている様子なんて、誰だって見たくないに違いないから。
____「昨日、違法なポケモン研究をしていたことで逮捕されたシルフカンパニー研究員ですが、先日の調査で元ロケット団幹部であることがわかったと警察から発表が、……」
一通り終わったら、テレビをみながらぼんやり宿題をする。もう少ししたらお夕飯を作る、その位の時間になるとワタルさんが連絡をくれるから帰宅できそうなら一緒にごはんを食べられるように準備をしている。
Prrとポケギアが震えた。この時ばかりはクジ引きみたいにドキドキする、ワタルさんからのメールで今日は…どうやら帰れないらしい。ちょっとだけ、ちょっとだけシュンとしてしまったのが解ったのだろう。後ろに寝そべっていたウインディが慰めるようにしてわたしのほっぺを舐めてくれた。…ざりざりしている。ありがとうね。
「ごはんたべて、寝よっか」
なんとなく。なんとなく机に出していた授業参観のプリントは、折りたたんでゴミ箱に捨てておくことにする。
ワタルさんは忙しい、ワタルさんはお父さんだけど。本当のお父さんじゃなくて、だからって嫌いというわけではない。大好きなお父さんだ、だから…困らせてはいけない。
「ワタルさん、ちゃんとお休みできているといいな」
わたしが傍にいたときは、ワタルさんがいまどういう顔をしているか分かった。だから疲れていそうなときはどうにでもできたのに、遠くにいるとそれは難しい。だからわたしにできるのは、ワタルさんはなるべく困らせないこと。わたし以上に、彼の助けを必要としている人は多い。わたしもワタルさんに助けてもらったから、それは良く解るのだ。
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「ただいま ____と、」
しんと静かに玄関に、慌てて口を閉じる。習慣になってしまった言葉も、この深夜ではその限りではない。きっと眠っているであろう子どもを起こさないように、ワタルは足音を殺して家に入った。
深夜2時を回っているが、気になってミシャの部屋をのぞく。中央の布団は小さく盛り上がっており、傍にはウインディが伏せていた。彼はとっくにワタルに気づいていたようで面を上げていたが、そのままで良いと合図する。再びウインディが眠りの体勢に戻るのを確認しながら、布団の傍に寄った。
小さな塊に掌を重なれば、微かに呼吸しているのが解る。起こさないように少しだけ布団を捲れば、穏やかな顔で眠るミシャがいて。その腕には抱き枕のようにミニリュウが抱えられている。気配に気づいたミニリュウがぷわと頸を上げたが、掌で抑えて布団に戻してやればすぐに寝息を立てる。
(よく眠っているな、)
昔は、俺が傍にいないと眠れない時期もあったのに。
成長と喜ぶべきところだろうが、一抹の寂しさを覚えるのも確かだ。何かと放っておいてしまうことが多いくせに、我儘なことは承知のうえで。
ウインディの頭を数度撫でて、ミシャの部屋を後にする。居間に戻ればカイリューがすでに腰を落ち着かせていた。きゅうと、机の上を指し示す。そこにはワタルの分の食事が用意されている。添えられたピカチュウのメモ帳には、いつもミシャのメッセージが書かれている。自分を労わる言葉、今日の献立、どんなことがあったのか。
少し前までは、いつも一緒に居たので報告など必要がなかった些細なことばかりだ。今更考えても栓ないことだが、やはりミシャをスクールにいれるべきではなかったのではないかと思うことがある。特別指定地区出身のワタルの娘になったのだから、ミシャも申請すればスクールなど通わなくても資格を受け取ることができる。だが、キクコがそれに反対したのだ。
___「あの子はお前とは違う。それなのに、まったく同じ人間にでもするつもりかい」
それなら自分のクローンでも作ることだね、と随分痛い言葉を貰った。キョウもあの独特な声音で笑って、そうさなあと同意するから、等々ワタルに見方はいなくなったのだ。
同じドラゴン使いを育てたいだけなら、弟子で事足りる。
だけどお前は弟子ではなく、娘にすると決めたのだろう…つまり、そういうことだ。
そうでなくても、ミシャは弟子の名目で引き取った分、世の中の知識や常識に偏りがある。それを均し、可能性を広げてためのスクールだ。…所詮ワタルには、ドラゴン使いになる方法しか教えてやることはできない。それは自覚のあるところだったからこそ、ワタルもスクール入りをミシャに提案したのだ。
(知識の隔たりで溶け込めていないわけでも、出自を理由にイジメを受けている様子もない。勉強は楽しそうだし、確実に前よりも興味の幅は広がっている)
良い傾向だ。ただ、自分といる時間が減っているだけ。
気になるのなら聞けば良い、少なくとも以前はそうしていたと思う。子どもを持ったことがないワタルは、ミシャが何を感じているのか、何を思っているのか分からない。赤子から育てたのではないのだからなおさら。聞いて答え合わせをして、そうやって彼女という人間を知ってここまで来たのだ。
だから聞けばよいのに、どうしてだろう最近それが上手くできない。
(下手に養子縁組など組むものではなかったかもしれない)
前の方が、よほど父親のようなことをできていた気がする。だから何が変わったわけでもないのに、あの書類にサインしただけのことが、どうにも自分の中にひとつ敷居をつくってしまったようだ。ああ結局、自分の首を絞めるのは、いつだって自分なのか。
ミシャの料理は日々日に腕を上げている。おいしいはずなのに、彼女のやさしさを飲む込むたびにズキズキと腹のあたりが痛む気がした。彼女に甘えるなと、言い訳をする心を体が拒否しているようだ。眉間に皺を寄せて唸っていると、不意にパシュンとボールが開く音がした。ワタルのポケモンたちが命令もなしに出てくることはない、だとすればこれは___。
「ポリゴン、どうかしたか」
「トゥルー トゥルルン」
赤と青の人工的な色合いのポケモンは、瞬きのしない瞳でじっとワタルを見つめた。そうして、すうとどこかに移動する。プログラムにない動作はしないと聞いていたが、これは明らかに命令の外にある行動のように思う。ミシャになにかお願いされていたのかと思ったが、ゴミ箱に頭を突っ込み始めたので違うなと断じる。一体、何をするつもりなのか。一応カイリューに目配せしながら近寄ると、ポリゴンが一枚の紙を足に挟んで持ち上げた。
「なんだ、それは …と、俺に?」
ポリゴンがワタルに押し付けてくるので、慌てて受け取る。キレイに小さく折りたたまれた紙、おそらくミシャのものだろう。ワタルが家で広げる紙はもっぱらリーグ資料なので、情報漏洩の観点から家のゴミ箱に捨てることはまずない。
いやに執念深く小さく畳まれているそれを、誤って破いてしまいながらもなんとか広げる。カイリューも気になったのだろう、のそりと後ろから覗き込んできた。そうして広げたプリントの内容を見て、ワタルは嗚呼と納得がいった。なるほど、ポリゴンはこれを見せるために。
「…ありがとう、君はミシャをとても大事に思ってくれているんだな」
少し撫でても、ポリゴンは瞬きひとつしなかった。けれどその行動が、なによりも饒舌に彼の気持ちを語ってくれていた。
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「ミシャちゃん、今日お父さんくるの?」
「忙しいからこれないよ」
スクールで友達になった子が尋ねてくる。ミシャの家庭事情を少しだけ知っている子なので、なんでもないと答えれば。「そっかあ」と返事が返って来た。
「うちもねお母さんだけ、お父さんはお仕事だって」
「大変だね」
「でもミシャちゃんのお父さんほどじゃないと思うよ。警察のお仕事してるんでしょう?」
「う、ウン… そんな感じ」
父親がワタルだと知れたら大騒ぎになる気がして、ミシャはその事実をなんとなく隠していた。警察…Gメンのお仕事手伝っているし、リーグチャンピオンはそういった有事に駆り出される役職でもあるから間違いではないはず。
そんな言い訳をしながら、ごにょごにょと答える。友達はなんとなくそれを察しているようにじとりとこちらを見たが、深くは聞かないでくれた。本当に彼女には頭が上がらない。
「あ、授業はじまるね。 ねえ、お父さん来ないならさ、一緒に帰ろうよ。お母さんが、ミシャと一緒にドーナッツのお店連れてってくれるって」
「いいの? ありがとう」
先生が入ってくると、ビュンと席に戻った友達を見送る。先生が教壇に立つと、保護者達も少しずつ教室に入って来た。そうするとどうしても教室がザワついた、そわそわする子どもたちに「静かに!」と先生の檄が飛んだ。どことなく同級生と似た顔立ちの大人たち、ぼんやりと彼らを見ながら思い出す。
(ワタルさん、ゴハン美味しかったって)
カイリューのメモ帳に書いてあったお返事を思い出す。最後にやり取りできたのは三日前、それからは特に忙しいらしくリーグに泊まりでお仕事をしている。先日の日曜日は、ワタルさんの着替えを持ってリーグに行った。リーグスタッフは顔見知りばかりなので、すぐにミシャをワタルの執務室に通してくれた。
ワタルさんは会議で不在だったけど、代わりというようにカイリューやリザードンが出迎えてくれた。キョウさんも噂を聞いたのか顔を出してくれて、一緒に社食で夕ご飯を食べた。帰りも家まで送ってくれたので、久しぶりに楽しい時間を過ごせた。
でもワタルさんに会えないのは少しだけ寂しい。今日は帰って来られるかな、そんなことを思いながら教科書のページを撫でる。先生が「次のページ、読んでくれる人」というと、みんな挙って手を上げた。友達もキラキラした笑顔でアピールしているから少しだけ面白かった。中にはポケモンも一緒になってアピールしている子もいるから、先生も選ぶのが大変だろう。
そうやって授業を過ごしていると、突然膝に居たミニリュウが頸を上げた。授業中はいつも大人しくしている子が珍しい。キョロキョロして耳鰭を忙しなく泳がせるのでどうしたのかと見れば、ぱうと小さな声で鳴いた。それと、からりと戸が開く音がしたのは同時だと思う。
「失礼」
教室が一瞬、静かになった。
不思議とそうせざる得なくなる声だった。
まさかと思って顔を上げれば、真っ赤な髪が見えた。何時もぴんと伸びている背が、少しだけ丸まって保護者の前を通っている。そうして空いているスペースに立てば、頭一つ分高い顔が良く見える。いつもオールバックにしている髪を垂らして、鋭いグレーの瞳をメガネで隠したひと。誰かなんてすぐに分かった、……ワタルさんが、わたしに気づいて小さく笑う。
だから、なんだか無性に泣いてしまいそうになった。
先生が慌てた様子で授業に戻った。ワタルさんが指で教壇を示す、はじまるよって。だからわたしも慌てて教科書を見た、見ているけれど何も頭に入ってこない。なんだかそわそわして足がぶらついてしまう。顔がぼうぼう暑くて、頬に張り付いた髪がジャマだ。しっかりしろ、というようにミニリュウが大きな鼻でわたしのほっぺを押す。ああそうだ、しっかりしないと。
呼吸すると、自然と鼻がずるとなった。泣いてしまいそうだった目元を拭って、授業に集中する。ああどうしよう、次に読む人っていわれたとき…わたしも、手を上げていいのかな。
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「どうして手を挙げなかったんだ」
スクールからの帰り道、ワタルさんが思い出したようにきいてきた。ぎくりと体が震える、あわあわしている内にグレーの瞳がじっと続きを急かすから。わたしは小さな声で白状する。
「は、はずかしくて… いつもあげない、から」
「どうして。あのくらいの問題、ミシャなら答えられるだろう」
「うっ は、はずかしいの」
「そうか、難しいな」
むんと顎を手を当てて真剣に考えているが、そんな考えるほどのことでもない。恥ずかしかっただけなのだ、本当に。
「友達とドーナッツを食べる約束をしていたみたいだが、良かったのか」
「うん、また一緒にいけるから」
ワタルさんが来てくれたから、わたしは一緒に帰ることにした。ドーナッツに誘ってくれた友達も、ビックリしていたけど「いいから!」と背中を押してくれたから。なので、ワタルさんと一緒に友達のお母さんと挨拶をして、こうして二人で一緒に歩いている。
わたし、そんなに解りやすかったかなと思ったが、思い返せばその間ずっとワタルさんの手を握っていたのだからそう思われても仕方なかったのかもしれない。
「お仕事は…」
「今日の午後は休みだ、まあそのために三日潰れたが。…ここ暫く家に帰れなくてすまなかった」
「ううん、だいじょうぶ!」
寂しかったが、今日のためだと思えばその気持ちを吹っ飛んでしまう。本当に驚いた、とても嬉しい。ああ、でも…。
「…どうして、今日のこと」
「…どうしてだと思う?」
訊かれるが、わからない。黙ってしまったわたしに、ワタルさんそっと屈んでくれた。「手を」と言われたので離せば、逆手に掛けていたジャケットのポケットから折りたたまれた紙を取り出す。四つ折りのそれは、ずっと小さく畳まれていた跡が残っていた。ワタルさんが開いて見せてくれたのは、あの日棄てたはずの授業参観のプリントだった。
「ポリゴンが教えてくれたよ、ミシャの大事な日だって」
「ポリゴン、が」
「ああ、彼には頭が上がらない。教えてもらわなければ、俺は気づくことができなかった」
「ミシャ」と、ワタルさんが続ける。
「君は賢い子だ、だから何時だって自分のことは二の次にして俺のことを最優先に考えてくれる。それが困るわけではない、事実俺は君のその聡明さに救われて… いや、甘えている、という方が正しいか。君の父親になると言ったくせに、俺は何一つその役目を果たせていない」
「そんなことないです、わたし、あの」
言いたいことが上手くまとまらない、でも何か伝えたくて必死に言葉を探す。
「きょう嬉しくて、でもずっと嬉しい。ワタルさんのゴハンつくるのも、お部屋お掃除するのも、メモもねお返事くれるの楽しみなの。朝、たまにおにぎり作ってくれるでしょう。すごくおいしいくて、わたしのよりずっとおいしいから わた、わたしももっといっぱい できるように な、 なって ワタルさんの ちか、ら に」
言葉をつくるほど、胸が苦しい。いっぱい伝えたいことがあるのに、言葉にするよりも先に体から溢れて止まらない。ぼたぼた涙が零れて、ひどく情けない気持ちになった。強い子になりたいのに、ワタルさんの前ではいつでも弱い子のまま。拾ってもらった時から、わたしは何一つ変われていない。
泣き出してしまったわたしを、ワタルさんは抱きしめてくれた。いつもそう、修行がイヤで逃げ出した時もワタルさんは迎えに来てくれる。泣いたわたしを抱きしめて、何も言わずに大きな手で頭を撫でてくれる。修行の時は怒って怖いのに、この時はいつも怒らないでいてくれた。だからわたしは、彼の首に抱き着いていつも泣いて、泣いて、ないて。
「…君にスクールを薦めたのは俺だ、だがその所為で君をひとりにすることが増えてしまった。言い訳のように聞こえるかもしれないが、スクールは君の為を思って決めたことだ。だけど、共にいれる時間が少なくなってわからなくなってしまったんだ。 ___スクールは辛くないか、その所為で一人の時間が多いだろう…寂しくないか。家事もなにもしなくていい、必要なら手伝いを雇う。俺は、」
ワタルさんの喉が、一瞬だけ詰まる音がした。
「君に健やかであってほしいと、」
目が覚めるようだった。ワタルさんの声だけが、頭の中に響いてきた。空が蒼くて綺麗で、同じくらいワタルさんの言葉はきらきらと。わたしの寂しくてしょうがなかった場所に、ころんと落ちてきた気がした。
「…ワタルさん、あのね わたしスクール楽しい、友達もできたの」
「ああ」
「ゴハン作るのも好き、まだヘタだけどもっと上手になりたい。お掃除も大変なことはミニリュウたちが助けてくれるよ。ひとり、なのは…すこしだけ、さびしい けど」
「…」
「ワタルさん、こまらせたくなくて」
どうか嫌いにならないでと、ワタルさんの首にまわした腕にぎゅうと力を込めた。
「ワタルさんがしたいことをしてほしい。やりたいこといっぱいあるって、教えてくれたでしょう。ぜんぶやって、そのためにリーグ優勝して、チャンピオンになって… わたしね、チャンピオンのワタルさん好き。強くてかっこ良くて、自分のやりたいこといっぱいやってるワタルさんが好き。大好き、だってワタルさんがいっぱいやりたいことしてくれたから、 ……わたしのことも、見つけてくれた」
「…でも、そうしていたら君の大事な時に気づけない。ミシャ、俺は君を都合よく扱いたくない。俺は、君の父親になりたいんだ」
「…ちちおやって、なにをするひとなの」
ぽろりと口からでたのは、そんなことだった。
ワタルさんの呼吸が止まる、そっと腕から抜けてわたしの顔を見るから、わたしも分からなくて続ける。
「わたしは、…ワタルさんのむすめって、なにをすればいいの」
「それ、は 俺も、わからない」
ワタルさんの言葉は、聞いたことないほどに弱弱しかった。どうしてだろう、それがとても面白くてわたしは少しだけ笑ってしまったのだ。
「わたしも、わからない です」
どうしたらいいのかなぁ、って笑えば。ワタルさんも目を大きく開いて、釣られたようにへにゃりと太い眉を八の字にして「そうか」「どうしようか」と言う。
「困ったな、ミシャの言うとおりだ。どうしたらいいのか、俺は…一人で勝手に悩んで、落ち込んで。情けない限りだ、」
「…ワタルさん、わたしワタルさんともっとお話ししたい スクールに行くのはね、本当につらくない。楽しいことばっかりなの。でもね、ワタルさんに会いたいって、お話ししたいって…前よりすこしだけ思うときがおおい」
「…そうか」
「メモのお手紙もうれしいの、でもね、やっぱり…こうしてほしい」
もう一度ぎゅうと抱き着けば、ワタルさんも力いっぱい抱きしめてくれる。ワタルさんは力加減がヘタで少し痛いけど、それがとっても好き。初めて抱きしめてくれた時と、同じだからかもしれない。
この腕が、この温度が、わたしが覚えている最初の記憶。
「俺も、君が傍にいないのが寂しいよ」
ワタルさんの言葉に驚いた、そうかワタルさんも…寂しかったのか。とても嬉しいのに、胸がきゅうと締め付けられて。気づいたらぽろぽろ泣いていた。不思議、もう寂しくないのにね。
それから、ワタルさんと一緒に沢山お話しをした。
わたしの気持ちと、ワタルさんの気持ちを合わせっ子して、いくつか約束することにした。
大事なことがあるときは隠さずに伝えること。
会えない日が一週間以上続いた時は、わたしがスクールをお休みして、前みたいにワタルさんの仕事に一緒についていくこと。
お料理もお洗濯も勉強も、大好きなら頑張って続けること。
わたしが頑張った分、ワタルさんもやりたいことを頑張って続けること。
そうしていっぱい時間をかけて、いっぱい一緒にいて、
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2人で、家族になっていくこと。