晩鐘、曙と萌え出る泡沫の夢
篝の焦げる、匂いがした、
それは弟を身籠った母と過ごした、七日置き一刻の記憶。月影のない山頂で、聞こえる筈のない爆跳の音が響く。暗闇に灯る火花の煌めきに導かれる様にして、少年は土を踏み、山を駆けた。焔の先示す先には鬼を見つけた、それだけではない。少年に焦がされ肉を補うため飢餓状態となった鬼に追われ、怯え戸惑う人の気配を感知し、少年は深く息を吸い込む。
吸い込んだ空気が、身体の奥深くで燃え続ける熱を火種に猛炎と化し、身体の隅々までその熱を伝えた。気を抜けば、身の内から焼けてしまいそうなほどの昂ぶり、燃焼から発生した気流が捌け口を求めて口端から僅かに零れた______轟、と。
少年の姿が、蜃気楼の如く揺れる。
その一瞬に加速した炎刀が鬼の頸を両断する、風はない。疾風の速度で繰り出される無風の一撃、しかしその威力は凄まじく後を追うようにして熱を帯びた空気が逆巻いた。炎の渦だ、その中央で夜に遭っても燦燦と天を衝く鬣を見た。
「悪鬼の頸は斬った、もう大丈夫だ!」
にっこりと。安心させようと満面の笑みで話しかけたというのに、襲われていた少女はわんわんと泣き喚いた。その姿があまりに可哀そうで、少年は___煉獄杏寿郎は、弟にするように背を撫でて「安心しなさい」「もう大丈夫だ」と声をかけ続けた。
着物は土と泥にまみれて、きっときちんと結わえていたであろうと髪は乱暴を受けたように崩れている。袖口から覗く手足は握れば折れてしまいそうなほど細くて、きっと農具も握ったことはないのだろう。抵抗する手段を知らない娘が、鬼と言う圧倒的な暴力を前にどれほど心細かったか。それを想うと、少女を憐れまずにはいられなかった。
遅れて、鎹鴉の案内で隠たちが来た。いつも通り現場の隠蔽と被害者の保護を頼もうとしたが、少女がちっとも泣き止まないから杏寿郎は断りを入れて、自らの足で近くの駐屯所に連れて行くことにした。気を利かせた隠が先に家主に伝えに出てくれるというので有難く思い、杏寿郎は自分の手を放そうとしない少女に話しかけた。
「安全な場所に行こう、ずっとここに居ては体が冷えてしまう」
少女は嗚咽を殺して、少しだけ頷いた。少女が立ち上がる時、少しだけ焼焦げるような匂いがした。不思議に思い視界を巡らせるが鬼の気配はない、杏寿郎の変化に気づいた隠が伺いに来たが、気のせいだと首を振って返した。
「足は痛くないか、沢山走って疲れているだろうに」
「しくしく」
「麓まで少し距離がある、辛いなら俺が背負うから言ってくれ」
頑なであった少女が歩き出すのを見て、「えらいぞ」と杏寿郎は褒めた。慰めではない、本当にそう思ったのだ。普通、鬼と出くわした人は、こうして直ぐに動くことができない。大抵は理不尽を目の当たりにした恐怖と悲憤で錯乱し、喚き散らす。それは悪いことではない、そうすることで震えて動けないでいる心を叩いて、均衡を取り戻そうとしているのだと思う。
けれど彼女はそうではなかった。きっとずっと恐ろしくて、誰かに当たって喚きたいだろうに、そうはせずしくしく泣きながらも、きちんと自分で歩いている。…誰彼もが、こうは在れない。きっととても優しくて、心根の強いお嬢さんなのだと思う。
(柔らかい、肉刺ひとつない手だ)
手が白くなるほどの握力も軽く打ち払えてしまう程度、それで一生懸命に杏寿郎の手を握り締めている。それを安心させてやりたくて、少しだけ力を籠めて握り替えした。弟にするように握れば骨まで折れてしまう気がするので、杏寿郎は殊更慎重に力を調節した。
駐屯所に送り届ければ、杏寿郎の仕事は終わりのはずだった。しかし、少女があんまりに泣き止まないので、何故だかとても不安になってきた。ぽろぽろ涙ばかり零れて、小さな肩が震えて止まない。そのまま涙の全てを涸らして干からびてしまうのではないか、あたふたと狼狽する杏寿郎に初老の女中が桶と手拭をくれた。
桶には暖かい湯が張られていて、杏寿郎は「ありがとうございます!」と返した。
湯で温めた手拭で、土で汚れた彼女の頬を拭った。男所帯で育ったものだから、年頃の女人に対する扱いも作法も知らない。これで良いのだろうか、布で頬を擦って痛くないだろうか、と考えても答えの出ない問答ばかりが繰り返される。悶々としながら髪のほつれを解いてやろうと手を伸ばすと、漸く少女が顔を上げた。
白い顔が可哀そうなほど血の気を失って青いのに、涙で朱く色付いた頬に酷く視線を奪われた。
ごくりと喉が鳴った。
潤む瞳からはらはらと涙がこぼれている、それが真珠のように輝くから慌てて指で拭った。すると少女の顔がくしゃりと歪んで、更にしくしくと泣き始めるから杏寿郎はどうして良いか解らず頭が沸騰しそうなだった。十本もあるのに、彼女の涙を拭うには指が足りない。安心させてやりたいのに、口が上手く動かなくて声がかけられない。___細い肩を抱いてやりたいのに、そうして好いのか解らない。
(そんなこと、誰も___)
教えてくれなかった。
父母の焼焦げた肖像が、脳裏を掠める。
少女の泣き声に気づいたのか、先ほどの女中がどうかしたのかと顔を見せた。目敏く完全にお手上げ状態の杏寿郎に気づくと、彼女はまあまあと少女に寄り添い、躊躇いなくその身体を抱きしめた。ぽんぽんと、背を摩ると、少女のかんばせから険しさが抜けていくのが見えた。
(…抱いて、良かったのか)
家主から少女が眠ったと知らされた。様子を見に行くと、くたりと布団の中で眠る少女がいた。起こさないように障子を閉めて、背を預けるように縁側に腰を落とす。あと一刻もすれば夜が明ける、藤香が焚かれた屋敷に鬼は寄らない、不寝番など必要ないと解っているが、そうして居らずにはいられなかった。

「…なにをされて、いるのですか」
「…」
僅かに開いた襖から顔を出したあさぎが、とろんとした薄色の瞳に杏寿郎を写す。よもや眠りの深い彼女に勘付かれるとは思いもしなかったので、言い訳ひとつ用意しておらず言葉に迷い不自然な沈黙が生まれる。けれどどうにも寝ぼけている彼女にとって、それは杏寿郎の違和感を感じ取れるほどのものではなかったようで。口元を隠してくわりと欠伸をする横顔に、杏寿郎はそうだなと考える。
「月見をしていた」
「もう夜も明けるでしょうに」
「ああ、だからこれでおしまいだな!」
そうと。逆手で彼女に見えない様に日輪刀を隠しながら、あさぎに部屋に戻る様に促す。素直な彼女はこくりと頷いたが、どうにもその場から動こうとしない。
「お月見も、良いですが… お時間が、あるなら… きちんと、お部屋に戻って…、お布団で、眠ってください」
「ああ、まったく君の言うとおりだ」
「お休みになって、ください ね」
「ああ、お休みする。だから君も、お布団に戻って眠りなさい」
聞いているのかいないのか、扱い兼ねてつい彼女の口調がうつってしまった。口を突いた女言葉に少し遅れて恥ずかしさが来る、まだ曙よりも早い時間で良かったと思う。
「…どうして、ここで?」
____君が、泣いている声がしたから。
大丈夫だと、安心して欲しいと。
言葉にできない代わりに、こうして君の部屋の前に居座って、守る気でいたなど。
(言える、はずもない)
言葉を曖昧に溶かして、笑みの奥に隠す。鏡面を思わせる無垢な瞳が、杏寿郎を映しては閉ざす。その瞬きの呼吸に合わせるように、肩に触れた。
「早く部屋に戻りなさい、ここに居ては体が冷えてしまう」
「…あの、」
「ここは安全だ、君を脅かすものは何もない」
幼い子に言い聞かせるよう説いて、あさぎの身体を部屋に押し戻す。眠気から僅かに目覚めた瞳が、余計なものに気づいてしまう前にと、襖を閉める。
「おやすみ、良い夢を」
叶うならそれが、君を苛む幸福でないことを祈って止まない。