あなたと過ごした季節を数えて / sss

「杏寿郎様」
伺うような声に振り向けば、少し開いた障子戸からこちらを覗き込んでいるあさぎがいた。
「お話しても宜しいですか」
「ああ、今し方報告書も書き終えた」
最後に署名を綴り、筆を置く。言葉で招いても女がそこから動こうとしないので、男は体を向けてもう一度呼んでやろうとしたが、それより先に女が「お手数なのですが、」と小さな声で続けた。
「帯を、結んでいただいても宜しいですか」
男は漸く、女が大事そうに帯を抱えていることに気づく。それは先の月の始めに、男が女に贈ったものだ。何時身に着けてくれるかと心待ちにしていたが、なるほど今日がその日であったようだ。指で突いた棉花が弾けるように、心が揺れて自然と口元が綻んだ。勿論と、返せばようやっと女の頬にも笑みが広がる。
「苦しくないか」
「はい」
「もう少し締める」
下帯を抑え力をいれると、軽い女の身体がふわりと浮く。驚いて慌ててつま先で軸を取る様子は、間抜な小鳥を見ているようだった。…当然、そんなことを口にすれば、女が顔を真っ赤にして怒るだろうから、心の中にだけ閉まっておく。
「どこに行くんだ」
「三野の方、江津地のくんだりまで。美味しい洋食を出してくれるお店があるらしいので、おトメさんと一緒に」
「そうか、楽しんできなさい」
女中が一緒となれば小遣いを包みやすい。変な所で頑固な女にどう説き伏せようか考えながら、結んだ帯で形を作る。
「俺はこのあと出るから迎えに出てはやれない、必ず夕方には戻ってくれ」
「はい」
「藤守りは肌身離さず」
「はい、わかっています。 それよりも杏寿郎様、わたしきちんと味を覚えてきますから。次お戻りの時は楽しみになさっていてください」
用意があるから、要様を寄越してくださいね。必ずですよ。と、念押しする女の熟れた横顔に、言い付けようとした小言が全てどこかに飛んで行ってしまう。女が楽しんで、笑っていてくれればと思う。その隣に自分がいなくても、そうして何時までも幸福であれと。そのために必要なら、金も権利も、男が与えてやれるものなら惜しみなく捧げたいという気持ちは、覚悟に似た重さを持って何時も男の心の奥深くに鎮座している。
それなのに、女がそうして当たり前のように男を勘定に入れて人生を語るから。時折、固く結んだその帯が解けて、過ぎた願いが転び出そうになる。一生、そうして彼女を幸せにしてやると、守れない約束を結びそうになる。___それが、いけないことであると知りながら。
「___できたぞ」
「ありがとうございます」
「相変わらずの貝口ですまない、次までには他の結び目を学んでおこう」
「ふふ 学ばなくても良いですよ。わたしは貝口ができませんから、むしろ特別な感じがしてドキドキします」
「どきどき?」
「今日の帯は杏寿郎様が結んでくれた、特別なものですよと」
「自慢して歩いているみたいで」と女が口元を隠してコロコロ笑う。まるでイタズラを思いついた子どものように無垢なのに、そこに秘密事を囁く女の色香を匂わせるのだから、彼女という女は本当に厄介だ。
いま、その薄く紅を差した唇を奪ったら、女は怒るであろうか。それとも、その薄色の瞳に男の鼈甲色の視線を混ぜて、蕩けるように微笑んでくれるのだろうか。その想像の先が見たいと、期待に心臓が高鳴る、ああでも君に嫌われることだけは嫌だなあ。と、今日も女の柔い腰に伸びかけた手をぎゅうと握り締めるだけ、
「それは光栄だな!」
「本当にありがとうございます。わたしだと結び目が解けてしまうことがあって、杏寿郎様が結んでくれたものなら心配せずに歩けます」
「少しきつく結んだから、解く時に難儀するかもしれない。無理はせずトメさんに手伝ってもらうと良い、それと」
「はい」
「良く似合っている」
それが何をさしているかは、口にせずとも伝わるであろう。それが女と男が共に生きた一つの証明となる、頬にかかる髪を払って耳にかけてやれば、女は大きな瞳を丸くした後、「ええ、そうでしょう」と笑う。
「杏寿郎様が、わたしにと選んでくれたものですもの」
その言葉があまりに眩しくて、夜の月灯にばかり慣れた男は目を開けていられず。静かに、瞼を閉じた。
「本日の分は、文机に置いてございます」
「……お豆腐が届くまでに、確認しておきます」
桶を包んだ風呂敷を抱いたおトメさんを見送り、さてと。送り際に口をついてしまった約束を守るために、私室へと向かう。雇い主が買い替えるからと、お下がりとしていただいた文机にはきちんと紐で結わえた手紙の束が置かれていた。
(煉獄杏寿郎様、炎家・御当主様…、 煉獄杏寿郎様、 …あ、これはわたし宛だ)
宛先で手紙を振い分ければ、七つ届いた文の内わたしに宛てられたものは一通だけ。最近知り合いになった女学校のお嬢さんからで、季節が変ったらまた茶会をしましょうという内容だった。嬉しい、早い内に返事を認めよう。
(あとは、煉獄さん宛かあ)
___「俺宛の文は内容を検めて欲しい、急ぎ返信が必要なものがあれば鎹鴉に預けて俺に届けさせてくれ」
…というのが、雇い主からの最近追加されたお願いである。彼は世間には大っぴらにできない裏家業を継いでいることもあり、彼によって命を救われた人やその遺族から毎日のように感謝の文が届いた。手紙の中には、まだ年端もいかぬであろう子どもの手跡も多い。
拙い文字で綴られた彼への感謝の気持ちは人一倍で、見ているだけでこちらまで誇らしくなってくる。
(明晩、 …銀座の、 むむむ これ変な暗号とかじゃないよね)
そうして怪しげな言葉運びや、達筆過ぎて何一つ読めない草書に苦戦しながら、漸く最後の手紙へとたどり着いた。手に取ると、甘い香りが漂ってきた。はてと見れば、その文は見てくれからして違っていた。薄く薔薇が染められた便箋、煉獄杏寿郎と綴られた丸い文字。読んでいて、こちらの方が恥ずかしくなるほど熱烈な恋文。
____瞳の明るき、乙女より。
そう締めくくられたお手本のような、甘酸っぱい乙女の恋情がぎゅうと詰められた文だった。こ、これはすごい…!
(...こ、これほどのものは久々…、すぐにでも煉獄さんに届けたい…!)
恋愛小説を読んでいるようなときめきに、熱い吐息が零れる。予想外の大物を釣り宛てた漁師のような誇らしさを覚え、得物を主人(雇い主)に最速で届けようとしたが、ふと思い出した記憶に急ブレーキがかかる。…確か以前、数か月前のことだ。
彼がどんな返事をしたのか楽しみで、意気揚々と迎えて恋文のことを訊いたら、彼が何とも言えない顔をしたのだ。なんというか、…あれば【無】という表情だった、あらゆる煩悩を捨て去り悟りを開いた修験者を思わせる達観した表情だった。解りやすく例えるのなら、猫のスン顔。
それから、恋文は急ぎ送る必要はないと言い付けられたのだった。
(勿体ない、こんなに素敵な手紙なのに!)
ごろんと畳の上に寝転がっても、今は咎める人はいない。…いや、煉獄さんもおトメさんもその辺りの作法はわたしに求めていないので、見ても元気だなくらいで何も言わないかもしれないが。
手紙を灯りに透かして、顔を近づける。すんとかぐと、甘い花の香りがした。
(…煉獄さんも、まだ十六というし。こういう恋愛事のひとつふたつに浮かれても良いと思うのだけど)
しかし、あの四角四面を絵に書いたような人が、色恋に現を抜かす姿は想像できない。良い意味で真面目、悪い意味で潔癖という言葉が似合う。しかし鬼狩りの間では名の知れた名家の出というし、そういった教育は一通り済んでいるのだろうか。...どちにらにしろ、想像ができないが。
(もし___いつか、煉獄さんにそういう女の人ができたら)
わたしは、ここをでていく必要があるだろう。
優しい子だから、そのように気を使う必要はないと言ってくれるだろうが。わたしが正妻の立場なら、別邸に住まわせている身元不明で年頃の近い女など嫉妬の対象だ。余計な波風を立たせる必要はないし、彼には命を救われ右も左もわからぬ土地で生きていくために助けてもらった恩がある。…女心には疎そうだし、そういった気遣いはわたしに求められるところだろう。
(煉獄さんの奥さん…、その人は彼の隣で、良い着物を着て、頭が良くてお上品で)
彼の手を取って、杏寿郎さんと囁くのだろう。
ずぐり。
「………ン?」
むくりと起き上がり、心臓の辺りをトントンと叩く。なんだかとても気持ちが悪い、甘い香りに酔ってしまったのだろうか。ここしばらく香水などとは無縁の生活をしていたのだから仕方ない、
(手紙はまとめて、後で彼の部屋に置いておこう)
纏めた文をくるりと紐で結んで、文箱に納める。
そろそろおトメさんが帰ってくる頃合いだ、すぐに夕食の準備が進められるように竈に火をくべておこう。そうやって思考を切り替えて、わたしは小さく高鳴る心臓を抑え込むように胸を握り締めた。
「また髪が伸びてきましたね」
「…そうだろうか」
あさぎの声に、杏寿郎は手入れをしていた手を止めて髪に触れる。…とある戦いで、旋風を操る鬼がいた。未熟な身ではすべてを躱すに至らず、ざんばらになってしまった髪を隠に整えて貰ったのは先月のことか。
それから、さほど日が経っていないように思うが。既に杏寿郎の髪先は肩口を擦るほどある、なるほどこれは確かに伸びている。
「また切られるのですか」
「いや、もう少し伸ばして後ろでくくろう。父上もそのようにしているからな」
遠く、今では会話らしい言葉を交わすことも少なくなってしまった人を想う。その背を、その目を、その声を、思い返すときりきりと胸が締め付けられる。これを痛みと呼ぶ人もいる、血も涙も流れないが心の疵と。しかし、見えないものは治療の仕様がない、そんな対処の仕方がわからないものを後生大事に抱えるくらいなら、それ以上に考えなければいけないことも為さねば成らぬ責務も山のように在る。
視えないのなら、認めなければ良い。
存在を認識しないのは、虚空を眺めることに似ている。
___考えても仕方のないことだと、蓋を閉じようとした杏寿郎の耳に「わたしも」と柔らかな声がこだまする。
「わたしも髪が伸びてきて、そろそろ切りいかないと」
「…そういえば、気になっていたのだが」
縁側で洗濯物を畳み始めたあさぎに、拳一つ分近づいて続ける。
「どうして髪を切った、前はもっと背を隠すほど長かっただろう」
「…あー」
杏寿郎の言葉に、あさぎが解りやすく視線を泳がせる。...本当に、嘘が下手なお嬢さんだ。なんでも思っていることが顔に出る、視線ひとつで異形者と化かし合いをしている杏寿郎のような者にしてみれば致命的な欠点だ。表情は、それというだけで百の情報を敵に伝えてしまう。
…けれど彼女は鬼狩りでないのだから、それで良い。御託は置いて、杏寿郎は彼女のそういったところを好ましく感じている。
「乾かすのに、時間がかかるので…」
「ああ、そういえば君は良く髪を洗うな」
杏寿郎はそういったことに特別明るいわけではないが、他のお嬢さんに比べるとあさぎが特別風呂好きであると思う。好きというより、そうしないと落ち着かないという方が正しいか。
杏寿郎などは生業の都合で昼夜問わず土埃に塗れることが多い。仕事で向かう先は人里こそ近いが帝都のように設備が行き届いた場所ではないからして、季節問わず水浴びで体の汚れを落とすことが日常だ。
しかしあさぎは、そうという訳にはいかない。最初の頃は無理をして水を浴びていたようで、十日と持たずに風邪を引いていたのだと。後で女中のトメに訊いた時はひっくり返るほど驚いた、弱い。弱すぎる。特殊な出自であることを除いても、あさぎは指で突けば穴が空く障子のように脆かった。
思い出したのは、今は亡き母の面影。しかし、母は身体こそ弱い人であったが、その精神は鍛え上げられた刀のように美しく凛とした女性だった。強い風にも涼やかに在る、柳のような女性。だから母とあさぎは似ても似つかない、それなのに彼女の後姿に時折母の面影が重なるのだから不思議なものだ。
…あさぎが、母と同じように苦しむことがないように。杏寿郎は使い道もなく溜め込んでいた鬼狩りの給金を使って、旧炎柱邸の風呂場を改築した。おかげで、この屋敷では何時でも暖かい湯に浸かることができる。けれど、濡れた髪を乾かすことまでは…考えは及ばなかった。
「それも、”落ち着かない“と」
「二三日なら、我慢… できます」
「短いな!」
手入の終えた日輪刀を鞘に納め、刀掛けに納める。さて、手が空いたので彼女と話をしようと、洗濯物を畳むあさぎの斜め前で胡坐を掻いた。
「理由はそれだけか」
「はい」
「ふむ、ならそれをどうにかすれば。君は気兼ねなくまた髪を伸ばせるというわけだ」
杏寿郎のと言葉に頷いて返そうとしたあさぎが、ふと手を止める。不自然な空白、それから覚めるとじとりと疑うような目で杏寿郎を見た。
「…別に、気遣いは不要ですからね」
「なんのことだ」
「わたしに相談もなくお風呂場を改築してくれたこと、感謝していますが同じくらい根に持っています」
「はて、なんのことだか」
「あれは、色々あって疲れていたから風邪を拗らせてしまったのです。もう同じようなことはしません、だから無駄にお金を浪費しないこと。そんなことをして、あなたに良い事なんてひとつもないでしょう」
「長い髪を結わえている君が見たい」
するりと、その言葉は驚くほど自然に杏寿郎の口からこぼれ落ちた。まあるく煌めくあさぎの瞳に杏寿郎が写っている、自分でもどうかと思うほどに脂下がった顔をした男が、まるで子どもの様に瞳を輝かせて言う。
「無論、その髪飾りも似合っている。だが髪を伸ばせばもっと色んな飾りを楽しめるだろう、それに君の髪はきっと橙の簪が良く映えると思うのだ」
「ソ ソウ、でしょうか」
「ああ、嘘はつかん!」
落ち着かない様子のあさぎを安心させるように笑って見せれば、頬に垂れた髪を弄っていたあさぎがちらりと杏寿郎を見た。そうして「そうかなあ」と笑うから、杏寿郎は恥ずかしそうに顔を隠している指を取ってしまいたくなる。それは恥じらう彼女に意地悪だろうと思い留まり、代わりというように遠くへと思いを飛ばす。
髪を伸ばした彼女には、きっと櫛がいる。上等なものをひとつ贈ってやりたい、浅草の柘植櫛が良いだろう。職人に依頼して、彼女の好きな花と俺の名に準えた杏の焼き印を押してもらうのも良い。簪は好みがあるだろうから、一緒に店を回ろうか。その一等気に入っている朱色のリボンに劣らず、君が気に入って何時もその髪に飾ってくれるようなものを与えてやりたい。
遠く離れて、会えない日も。それが君の髪を飾っていると思えば、きっとそれだけで俺は____深く、息ができるだろうから。
「楽しみだなあ」
どうして君のことを考えると、こんなにも心が弾む様な心地になるのだろう。
その答えは知っている。けれど、たった五文字の言葉を、今日も口にできず飲み込んだ。
「おかえりない」
そうして迎えてくれた人は、小花柄の羽織に小さな赤ん坊を包んで抱いていた。
思いもしなかった光景に驚いて、漸く顔を見られた愛しい人に用意していた言葉が遠くに霧散してしまうのを感じながら、杏寿郎は色濃い疲労で霞みかけた頭をなんとか動かし言葉をひねり出した。
「いま、戻った」
「はい、要くんが教えてくれた通りの時間ですね」
「ああ、要は優秀だから。…寝ているのか、」
「ええ、さっき漸く」
「可愛らしいな、どこの子だ」
「あなたの子ですよ」
…疲れた頭では、その言葉が良く理解できなかった。近づいて鞘をベルトから抜いたと思えば、そのまま石像のように動かなくなってしまった男に追い打ちをかけるように女は続ける。「まさか半年も戻らないとは思いませんでした」、とまるで天気の話でもするように。
「あまりに遅かったので、先に赤ん坊の方が出てきてしまったというわけです」
よもやよもや。と、男の口癖を返してみるが、男に反応はない。試しにどこをみているか解らない目の前で掌を振って見るが反応なし。…死んでいる、どうやらただの屍の様だ。
「可愛い」
「はい」
「君にそっくりだ」
「そうでしょうか」
「ほらどこもかしこも柔らかい」
「わたしが脂肪だらけってことですか」
「目の色は黄色味が強い、これは俺に似たな!」
思わず大きな