歴史教師の煉獄杏寿郎と同棲中カノジョのとある一日
「 というマンガを知ってるか?」
帰宅してすぐ、大きな目を輝かせて訊ねてきた。
知らないタイトルに首を傾げれば、最近流行り始めた歴史マンガで舞台となる時代の出来事を解りやすく劇場チックに描いていると評判らしい。
「マンガって珍しい、あんまり読まないでしょう」
「流行りに敏感な同僚がいてな、俺が好きそうだと教えてくれた!」
成程納得。一人頷いていると遠くから「浮気ではないぞ!」と元気な声が聞こえた。どうやら、この前一緒に見たバラエティの内容を引きずっているらしい。
普段興味がない話題を振ってくるのは、夫の浮気度チェック項目だとかなんとか。
番組を見ながら物思わし気に彼を見つめてしまったので、どうやら不安にさせてしまったらしい。違うんだよ、顎に一本ヒゲの剃り残しがあって教えてあげようか迷っていただけなんだよ。そう教えてあげても良いのだが、ちょっと面白いので黙ったままでいる。
リビングで彼を待ちながら、携帯でタイトルを検索すると直ぐにそれと思わしき結果が返って来た。
「結構巻数あるね、大手出版だから書店に行けばすぐに買えると思うけど」
「うーん…、買う前にざっと内容を確認できると嬉しいんだが」
「ああ、それなら」
スウェットに着替えた彼が、ソファの後ろから携帯を覗き込みながら唸る。そのつぶやきで、学生時代にお世話になっていた施設を思い出した。
振り返ると目を丸くしている彼がいて、無垢な様子に悪戯心が疼く。にまりと笑うわたしに何を思ったのか、彼はちうと唇に吸い付いてきた。「どうしたの」「待っているのかと」、お返しにと頬にキスを返せば、彼はくすぐったそうに喉を震わせた。
「ネットカフェか!」
「うん、来たことある?」
「ああ、学生時代に夜通しでダーツやカラオケをしたな!」
予想外の経験値を積んでいた。「君は」と訊かれたので、学生時代に終電を逃して宿代わりにお世話になっていたことを伝えた。そのため専ら女性専用の一人席を利用していたが、今日は贅沢に鍵付きのペアフラットシートである。
「思っていたより狭いな」
「あなたの身体が大きいから」
「君はそういうが、父に比べたらまだまだ」
「お義父さんは道場の師範でしょう、教師に筋肉は必要ないよ」
「必要だろう、授業で騎馬戦をするときに!」
…歴史の教師で、騎馬戦…?
わたしの常識に照らすと解像度が低いはなしに、一瞬宇宙が見えた。通りがけに確認した漫画コーナーに向かう彼を見送り、ならわたしは映画でも見ようかと備え付けのパソコンを操作する。
気になっていたタイトルの再生準備を終え、食べものメニューを見ていると後ろでガチャリとカギを回す音が聞こえた。どうやら授業で騎馬戦を行う歴史教師が帰って来たようだ。「あった?」「ああ!」目当ての本をいっぱいに詰め込まれたカゴを受け取り、用意しておいた座椅子の隣に置く。
靴を脱いで上がると、すぐに開かれた食べものメニューを見つけて目を輝かせた。そのまま四つん這いで近づいてきたと思ったら、後ろから覗き込むようにして凭れかかってくる大型犬。もちろん見た目に違わず、このわんちゃんは大食らいなので、放っておいたらメニューの右から左まで注文をしかねない。そのため、ぼそりと魔法の言葉を囁いておく。
「漫画読むなら後にした方が良いよ」
「…」
彼は何も言わず、そっとわたしの持っていたメニューを閉じると、そのまま閉まってしまう。いやいや、わたしは映画を見るので食べても大丈夫なんですよ。そう思ってメニューを取ろうとしたけれど、手を伸ばす度に大きな手がガードしてくるので諦めた。くそう、煉獄杏寿郎め!酷い男だ!
彼が漫画を読む隣で、まったりと映画を見る。どうやら漫画の内容はお気に召したようで、せっかちな彼にしては随分と時間をかけて読み進めているようだ。
そうして半分ほど見終わったところで、映画を一時停止しぐっと背伸びをする。慣れない座椅子に腰が疲れてしまった。ちらりと横にいる彼を見れば、視線気付いて直ぐに腕を広げてくれたのでいそいそと入り込む。むちりとした太腿の座布団に胸筋枕、じんわりと伝わってくる暖かさはまだ肌寒いこの季節に対する最適解と言って良い。わたしのお気に入りお昼寝スポットだ。
凝り固まっていた体が溶けて滑り落ちそうになったが、気付いた彼が確りと支えてくれる。安全性も完備された、煉獄杏寿郎シート。これはネカフェ全部屋に完備すべきだな、うんうんとひとり納得して頷きながら、彼の膝の上でのんびりと残りの映画を見た。
「あさぎ」
エンドロールを眺めていると、ぽんぽんとお腹に回った手がわたしを呼ぶ。どうやら区切りの良い所まで読み進めたようで、マンガをカゴに戻しながら「何か食べたい」とわたしを抱えたままメニューに手を伸ばす。
「君はどれにする」
「うーん」
「いつも通りで良いか、良いな」
お腹を空かせたせっかち人の話を聞かない。
いつも通り、彼が頼んだいくつものメニューを、わたしが少しずつ分けてもらうバイキングスタイルでランチを済ませた。相変わらずお腹のどこに入るのだろうという量は、ペアシートの机に納まりきらず、空いている座面に置いて食べては皿を替えと消えていく。お皿を回収しに来た店員さんの愛想笑いには、隠しきれない動揺が見えて少し申し訳ない気持ちになった。
「ソフトクリーム食べる?」
「食べる」
半分を切った漫画を読み進める彼の口に、時折ソフトクリームやフライドポテトを恵んであげながらわたしも次の映画を見ることにした。
「ふう」
聴こえてきた呼気に振り向けば、最後の一冊をカゴに入れた彼がぐっと背筋を伸ばすように反っていた。近づいて「どうだった?」と、ソフトクリームのスプーンを差し出すと大きく口を開く様子は雛鳥のようだった。いや、それにしてはかなり大きな雛だけれど。
「面白かった」
「買う?」
「買う、授業のネタに使えそうだ」
目的が果たされると今後は凝り固まった身体を動かしたい欲求が出てきたようで、そのまま腹筋でも始めそうな人を制しながら、帰り仕度を整える。会計を済ませて出ると、先に車に戻っていてとお願いした人が夕焼け色の染まった空を背に準備運動をしていた。
「ここから走って帰るつもり」
「それも良いが、君の運転は危なっかしいからなあ。次の機会に取っておこう」
「よし、まかせて」
「こらこら」
ジーパンのポケットから車のキーを盗んで運転席に入ろうとしたが、すんでのところで捕まってしまった。不名誉なレッテルに怒り心頭であるが、謝罪として夕飯の選択権を進呈するというので、まあその日は勘弁してあげることにした。
暫くして、家に届いた歴史漫画には見事にわたしもハマってしまった。なるほど、こうして歴史に疎いわたしでも楽しみながら内容を覚えられるのだから、確かに学生の教材に向いているのかもしれない。
どこから話を聞いたのか、千寿郎くんから読んでみたいと連絡があったそうで。それからは、毎週3冊ずつ杏寿郎さんが実家に宅配レンタルコミックをするようになった。漫画に疎い父母も楽しみにしているようで、お礼にと杏寿郎さんのお母さんが、毎回献立一品や季節の野菜を包んでくれるので大変ありがたい。
「今度、お礼をしないと」
「礼は良いから、早く君を紹介しろと詰められた」
「洋菓子と和菓子だと、どっちが良いかな」
「…」
都合が悪いことは聞こえないふりをして、リンゴの皮を剥く。するとカウンターから覗き込んでいた人が、苦虫を噛み潰したような顔で黙ってしまう。何か言いたいことが喉元までせり上がってきているようなので、リンゴの一欠けらを彼の唇へとくっ付けた。
「奪っちゃった
」しゃりと、彼がリンゴを噛み切る音が聞こえた。