OnePeace | ナノ

気付いたらC・カタクリのお嫁さんになっていた





「オリィ姉ちゃんの方が良いだろ」

____なんて、弟とひとりごちた。
まさか自分の名前が出てくるとは思っていなかったこともあり、開いた口が塞がらない。…塞がらないので、仕方なくフォークで切り分けたチョコレートケーキで塞ぐことにする。

柔らかいシフォンの生地、ほろ苦い甘みの奥に芳醇なカカオの香りを感じる。掛け値なしに、今まで食べてきたケーキで、一番美味しいと言い切れる。これほどのものを、…今日というこの日に、唯一純白を纏うことを許された彼女は、これから毎日好きなだけ食べられる権利を得たのだから、少し羨ましい。

「マンマ マンマ」

新郎新婦に囲まれたその人は悦びに満ちており、不思議な力を使って歌い踊る家具たちを操ると御伽の歌を口遊む。歌って、ケーキを頬張って、紅茶をコクリ。そうして、彼女の席に向かい合うようにして置かれた写真立てに、まるで子どものような顔で話しかけている女王を余所目に言葉を返した。

「わたしの方が良いって、どういうこと?」
「ぇ ぁいや…、別に」
「ああ ねえ見て、あそこのプリンとっても美味しそう。あなたの分も取ってきてあげるから、ちょっと待っていてね」
「え、イヤだっ ここにいてよ、姉ちゃん」

小さな手が今日という日のために仕立てたドレスのレースを掴んで、加減も知らずに引き寄せる。あまりに必死な顔をするものだから、大人しく持ち上げかけた腰をイスへと戻した。すると、大きな目に涙の膜を揺らして弟がほっとしたように肩の力を抜く。

弟は、式が始まってからまるで根が張ってしまったように一歩もイスの上から動いていなかった。何時も家庭教師が来るたびに、ずっと座ってなんかいられないと愛犬と一緒に庭を飛び回る元気な子はどこに行ってしまったのだろうか。

「大げさね、すぐそこなのに」
「ダメ、ここにいて。危ないよ、変なことして目を付けられたらどうするのさ」
「ここは祝いの席よ、危ないことなんて起きはしないわ」
「姉ちゃん、ここがどこだかわかってる? いいから、ここで大人しくしていて。 ホント、目を離すと碌な事しないんだから」

まるでどちらが年長者か解らないセリフだ、けれどわたしのドレスを握る力は弱く、その腕は女の手でも掴めてしまうほど細い。だからわたしは、彼の望む通りに紅茶を楽しむことにした。その様子を見て、わたしが動くことはないと察したのか、弟もやっとドレスから手を放してくれた。

「それで、わたしの方が良いってどういうこと」

ドレスのシワを伸ばしながら訊けば、弟は首を傾げた。先ほどの会話をもう忘れてしまったのかと呆れたが、すぐに思い出したようで別に、と素っ気も愛想もない声で呟いた。

「…ああ、べつに。ただすこし…あんな女より、姉ちゃんの方が良いって思っただけ」
「まさか花嫁のことを言っているの」
「だってあの男…っ、 ああもう、この話は終わり! もういいから、ほらオレのマカロンあげる」

貴族のお姫様のように飾られて、行儀よくお座りしていたマカロンをひとつ手に取ると。ほらと、唇に押し付けられる。弟がこういったことをするのは珍しいが、悪い心地ではない。肩口からこぼれる髪を掌で抑えて、あーんと小さく口を開く。煮詰めた木苺色のマカロンを噛み締めると、芳醇な甘みに思考が蕩けた。

「おいしい」、そう弟に囁くわたしを、誰が見ていたのかなんて知るはずもなく。姉弟つつましく、成婚を祝うお茶会が終わるのを待った。





トットランドと呼ばれる国がある、そこは四皇に名を連ねる大海賊が治めている“おかしなおかしの国”。
その国の海賊女王の息子に、生国の従姉が嫁ぐことが決まったのは3ヶ月ほど前のこと。彼女は所謂王女という立場にある人で、この成婚は父親である国王と海賊女王に間で交わされた政略的なものだ。

最初にその知らせを受けた時、わたしは彼女の境遇に同情した。海賊と言えば、わたしたちにとって海の向こうから来る災害そのもの。そのような人間ではないなにかに嫁がなければいけない彼女の心境を思うと、心が痛んだ。けれど、成婚祝いとして贈られてきた豪奢なウエディングドレスや、関係者親族にあてられた華やかな招待状と当日の豪華なスケジュール。

そうして招かれた、絵本の中から飛び出してきたような万国の全貌に、あれもしかしてそれほど悲観しなくても大丈夫かもしれない。なんて、思ってしまった。少なくとも従姉は、海賊女王に歓迎されている。

けれど、弟の見解は違うようだ。話を聞いた時から飛び上がるほど驚いて、「こ、ころされる〜!」と嘆き、前日入りするために万国が派遣してくれた船を全力で拒絶、用意されたお菓子に群がる同世代の子どもたちに目もくれず、ずっとわたしのドレスを掴んで離れようとしない。

「あの子はわたしが傍にいるから、お前は観光でもしてくるといい」
「ええ、ありがとうお父様」

その様子を見て憐れに思ったのか、好奇心を持て余してうずうずしていたわたしに父がかけてくれた提案は行幸であった。わたしは大きく何度も頷いて賛成したが、弟は「ダメ!」「絶対余計なことする!」「姉ちゃんは歩く一級フラグ建築士なんだから!」と許してくれない。けれど、父が魔法の言葉「お姉ちゃんが大好きなのはわかるが、」を唱えると、「さっさと行け!!!」とケープと一緒に追い出されてしまった。

追い出された廊下でいそいそとケープを羽織っていると、少しだけ扉を開いた弟が「すぐ帰ってきて」というから。それに頷いて見せると、勢いよく扉が閉まって白い粉がパラパラ落ちた。扉は、角砂糖で出来ていた。




「…?」

いけない、迷った。
脳裏に顔を真っ赤にして怒鳴りつけてくる弟の様子が浮かんだ、ああきっとそうなる。わたしには未来を予知する特別な力があるのだ、勿論家族限定ではあるが。

(幸い、食べるものには困らなさそうだけれど…)

キャラメルレンガの道に、メレンゲの花畑、イチゴジュースの川にクッキーでできた橋。甘党でないと人にとってはある種の拷問のような視界の暴力だ、わたしが辛党だったらもう死んでいたに違いない。甘いもの好きで良かった、

(でも、これ食べられるのかな。建造物以外は食べられると教えてもらったけど、地面に生えているもの口にするのは中々勇気がいるし)

イチゴの香りに誘われて、そろりと川を覗き込む。甘い香りのする川にわたしの顔が映りこむ、鏡のように反転したわたしはすこし不安そうに眉を寄せていた。自他ともに認める楽天的な性格をしているのだが、やはりこういった未知の、それも海賊のテリトリーでは人並みの憂いは感じる様だ。

どうしたものかと、短い草の上に座り込んでどれくらいの時間が経ったのだろう。あ、この緑色に見えていたのは草じゃなくて、抹茶パウダーだと気づいたころだろう。それまで水の流れる音しか聞こえなかったのに、突然後ろからクシャリと草を踏むような音がしたのだ。

「ここで何をしている」

その低い声は、まるでずっと木の上からかけられるように遠く聞こえてきた。だから最初は空が語りかけてきたのかと思ったのだ、この不思議な国ならそれくらいのことは起こってもおかしくないでしょう。けれど空を見上げようとした一瞬、「違う」とわたしの心を読んだように誰かが制止をかけた。

「後ろだ」
「うしろ?」

まるで知らない言葉であるかのように、意味が解らないまま音を繰り返す。振り返った先、生い茂る深緑色の木々の間に埋もれるようなワインレッドが見えた。口元を隠すたっぷりとした襟巻で目元しか見えないが、見上げるほど大きな偉丈夫の知り合いなど多くはない。それに彼は、ここ数日で知り合った人だから、忘れるはずもなかった。

「シャーロット様、ど 」
「立ち入り禁止の看板を見ていないのか」

___うして、こちらに。
という言葉は、彼の声に被さるようにして消えてしまった。ワンテンポ早い会話について行けず、不自然な間が生まれる。

「すみません、見ておりませんでした。立ち入り禁止と知らず踏み行ってしまい、申し訳ございません」

けれど、まずすべき謝罪だろう。立ち上がってきちんと貴族の礼をとったが、シャーロット様は目元を更に厳しくされる。ア、死んだかもしれない。遠くで弟が、「ね、ねえちゃーーーん!」と叫ぶ声が聞こえるあたり、意外と冷静なのかもしれないけれど、心臓はドキドキしている。

目を離したら殺されてしまう気がして、当たり障りない笑みを浮かべながら彼の反応を待つ。一拍、いや二拍だろうか、永遠にも感じる時間の果てに、漸く彼が動いた。

(      で、   っかい、)

わたしなら十歩はかかるだろう道を、二息で詰めた人は…本当に大きかった。
2mいや、3mはあろうか。足の太さだけで、わたしの胴体とそう変わらない。そういえば、式に参列していた海賊女王もとても大きかった、用意されたウエディングケーキはそれよりもっと大きくて、味も大味かと思えば繊細で美味しかった…ああ、そんなあまり重要ではない情報が頭の中で渋滞しはじめる。

これを俗に人は混乱状態というのだが、ああこの足に蹴飛ばされて、そのままイチゴジュースの川に溺れてしまったらどうしよう。

「もう一度、言え」

そのようなわたしの悪い想像はどれも現実では起こらなかった。シャーロット様は地面に片膝をついた、近くなる視線に自然と呼吸が止まる。ゆっくりと文字を指でなぞる様な、幼い子どもに問いかけるような声だった。それにはなんだかとても覚えがある、…だってそれはわたしがするような。小さな弟妹をもつ長子の仕草だ、

それに気づいた時、身体の芯を冷やしていた何かが霞のように溶けて消えた。頭の中で鳴り響いていた警戒色が解けて、自然と頬が緩む。

「シャーロット様、この度はご結婚おめでとうございます」
「…ああ」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、わたしはコルティゼ家の親族として此度の式に参列いたしました。コルティゼ・オルガと申します」
「…シャーロット・カタクリ」

武骨な声に、「存じ上げておりますわ」と返したがそれは彼の望む答えではないようで。ぎゅうと眉間にシワが寄った、怒らせてしまったのだろうか。反射的に一歩下がろうとした体は、しかしそれより先に、背に回った大きな手に遮られてしまった。

「あ」
「気を付けろ…、川に落ちる」
「あ、ああ… ありがとうございます、助かりました」

ア、アと。なんだか、言葉の覚束ない子どもみたいな声を出してしまった。それが少し恥ずかしくて、わたしは少し火照った顔を誤魔化すように話題を探した。

「この川には、お魚さんはいるのですか」
「…いない」
「まあ」
「ワニがいるからな」
「 」

まあ、それは…なるほど、立ち入り禁止なわけだ。
恐ろしい事実にさあと血の気が引くのを感じた。この大きな手は、川に落ちる以外に、恐ろしい海の獣からわたしを守ってくれたのだ。そう思うとなんだかとても大事なものに思えて「ありがとうございます」と伝える。

「シャーロット様のおかげで、ワニさんに食べられずにすみました」

ここは大層危ない、早く川から離れようと動いてみたが、歩く先をあの大きな手がまた塞ぐ。いつの間にか目の前に移動しているバリケードに、驚いて見上げた先で彼は「あまり離れるな」と忠告するような声で言う。

「…それと、声が聞こえない」
「あ」
「…お前の声は小さすぎる」
「すみません、弟にも良く言われるのですが… 治らなくて、」

そこでああもしかしてと、不自然な記憶が答えを得たように閃いた。

「もしかして、最初お声かけいただいた時も聞こえておりませんでしたか」
「…いつはなしだ」
「最初の、立ち入り禁止の看板のお話です」

返って来たのは無言であったが、視線は肯定と同じ重みを持っていた。

「すみません、立ち入り禁止と知らず踏み行ってしまったとお伝えしたのですが」
「…結婚がどうのと言っていただろう」
「それは聞こえていたと思って、違うことを」
「ああ、だからか」

一人納得されたように言う、その意図が解らず言葉を止めた。すると、一度視線が合って、少しそれで「口の動きと、言葉の数が一致していなかった」とニンジャみたいなことを言うから驚いた。

「口の動きが読めるのですか」
「ああ、…だがお前みたいに声の小さいものは、口の動きが読み辛い」
「それはご苦労を、…あのこの距離で不便ないですか」

大きな声で喋るのは苦手だ、声量は変っていないのでまだ聞き取り辛いのかもしれない。そう思って訊ねると、「まだ」というから、彼の掌に、腕に沿って少しだけ近づく。

「ここは」
「…」
「ここでいかがでしょうか」
「…」
「このくらい、ですか」

あと一歩近づけば、身体が触れ合ってしまいそうなほど近い。これでも遠いと言われたと後はもう、お腹に力を入れて精一杯声を張るしかないな。そう思って訊ねると、言葉の代わりに腕が動いてわたしの背中に触れる。ドレス越しに、彼の指先で背骨をなぞる、そのあと力の加減を確かめるような身長差で彼の掌が背中を覆った。

「ああ、そこでいい」
「宜しゅうございました、あの。心苦しいのですが、実は迷子になっておりまして」
「知っている」

あ、知っていらした。

どうやら、彼はわたしを罰することはしないらしい。良かった、遠のく死の予感にほっとしたのも束の間。何時まで経っても、シティに戻らせてくれない。この森に用事があるなら道を教えて貰って一人で戻ろうとも思ったが、そういった用事があるわけでもないようで。わたしは場を繋ぐために、一生懸命おしゃべりするしかない。

もしかしてお嫁さんになる女性のことを知りたいのかもしれないと、従姉の話を振ってみたが反応が鈍い。ではどうしようかと試しに弟の話をしてみたら、それまで頷くばかりだった人が「いくつ歳が離れてる」と質問を返してくれた。ならこの話を、いくつか弟について話をした。シャーロット様にも弟妹が多くいるらしく、わたしのはなしに共感すると少しだけ頷いてくれる。

「___ああ、そろそろ戻らないと」

思いの他はずんだ会話に、いつの間にかわたしも時間を忘れて楽しんでしまった。

森を照らす光がオレンジ色に陰って来たころ、小さな声で誰になくそう囁いた。これほど近くにいるのだから、きっと彼の耳には届いたのだろう。ひとつ頷くとわたしの腰に回った掌が…いつの間にそうしていたのか…、そのまま少し下に移動して、まるですくい上げるようとするかのような気配を感じて、慌てて、目の前の人を止める。

「待ってください、高い所は苦手で」

逃げる場所もなくて、彼にしがみ付くような体になってしまった。慌てていた所為で、彼の襟巻を引っ張ってしまう。すると、彼の瞳がきゅうと絞られて、まるでドンッと視えない爆発が胸の内側で湧き怒る。頭の先から雷に打たれたような衝撃、とてもでないが立っていられず、そのままイトが切れた絡繰り人形のように体が崩れ落ちたが、尻もちをつく前に彼の手が支えてくれた。

ありがとうございます、と言いたいのに言葉が出ない。
一拍置いて、時が動き始めたように心臓がばくんとなった。全身の毛穴が開いてどっと汗が噴き出して、呼吸が細くなる。苦しくて、辛い。とにかく助けてほしくて、縋る様に、彼の腕にしがみ付いた。

「息をしろ」
(できない、くるしい)

深く、ゆっくりと。彼が言うけれど、いつも当たり前にできていることが、できない。指の先までびりびりと麻痺のような感覚に支配され、筋肉が弛緩して言うことを利いてくれない。はっはっと、獣のような息を必死に繰り返すわたしを、落ち着かせるように彼が抱き寄せた。

彼の肩口に顔を埋めて、感じる人間の暖かさにほっとしたのも束の間。「目をつぶれ」と言われる、直後彼が地面についていた膝に力を籠める。その意図が知れて、わたしは慌てて瞼を閉じた。直後体を襲った浮遊感、恐ろしくて彼の襟巻にしがみ付いてしまった。きっとシワになってしまうだろうに、彼は怒らなかった。

「オリィ」

どうして、家族だけが呼ぶ愛称を知っているのだろう。





目が覚めると同時にベッドの傍にいた弟がギャン泣きした。その泣き声に気づいて、父も飛んでくる。左右から顔色の悪い父弟に抱きしめられてどうしたものかと考えていると「な゛に゛も゛す゛る゛なっでい゛っだのに゛」と弟が悲痛の叫びを上げながら、わたしの身体を力の限り抱きしめてくれる。

「何もしてないわ」
「ぢゃあなんでシャーロット・カタクリが姉ちゃん連れてくるんだよ!」
「そういえばここはどこ」
「ホールケーキ城だよバカ野郎!!!」

それが弟の限界だったらしく、それからはぐじゅぐじゅ言いながら黙ってしまった。仕方ないので父に助け舟を求めれば、ぽつぽつと事のあらましを語ってくれる。

姉が帰って来たと扉を開けた父弟の目の前に、突然シャーロット・カタクリが現れたそうな。父が慌てて結婚の祝辞を申し上げようとしたが、その腕に眠る(気絶)わたしを見つけて言葉を失う。死んでいるのかとぞっとした父に、気絶しているだけだと教えてくれたが何故かそのまま城に連れて行くと言われる。意味が解らない、とこの下りの時に父が10回くらい繰り返していたので、本当に意味が解らなかったのだろう。当事者であるはずのわたしも意味が解らない。

だが、シャーロット・カタクリとしては決定事項だったようで、父の言葉など聞いていない。一応知らせてやっただけだというようにさっさと何処ぞに向かうので、止めようにも気になるのならついてこいの一点張り。慌てて荷物を整え、なぜか新郎が新婦ではない女を抱いて登城する後ろを、可能な限り気配を消して父弟は着いて行った。そうして訳が分からないままこの部屋に通され、通夜のような空気の中わたしが目覚めるのを待ち今に至ると。

「そそそ それで、いったい何があったんだい。わかりやすく迅速に説明してくれ、わたしの可愛いオリィ」
「この部屋の壁紙ドーナツ柄でかわいい」

「姉ちゃん」「コルティゼ・オルガ」

「ごめんなさい、わたしも良く解らなくて」

素直に白状すると、まアわかってましたけど?という顔をした弟が、もの言いたげな溜息をついた。おもーく、ながーい溜息だ。お姉ちゃんは肩身が狭いよ。

そうしてああでもない、こうでもないと父弟が話しているのを聞いていると、シャーロット・カタクリが訪れた。一瞬で背が伸びた父弟、さっきとは打って変わって地蔵のようになってしまった2人を見つめていると「気分は」と訊ねられる。

「大丈夫です。父から聞きました、お手間をおかけしてしまったようで」
「気にするな、…気絶したのは俺の覇気の所為だ」
「はき」
「…後で説明する」

“あと”、“あと”があるのか。そのことに内心驚いたが、それ以上に優先すべきことがあるというように彼は手に持っていた紙束を差し出してくる。

「確認してくれ、修正漏れはねェはずだ」
「???」
「ここにサインを」

逆手に持っていたペンを渡され、彼の指がとんと紙束の一番の空欄を示した。

「…あの」
「なんだ」
「ここ、新婦名って書いてあります」
「ああ、何か間違いか?」
「新郎はあなたの名前に」
「先にサインしておいた、手間が省けるだろう」
「あなたは…昨日、姉と結婚したと思うのですが」

進む会話、父の顔色が青を通り越して土色になっている。弟はもうダメらしい、撃たれたような言葉を残してベッドの上に倒れてしまった。

「…ああ、」

彼の視線が空を見る、そして言葉を選ぶようにしてわたしに答えをくれる。

「誤発注だ」

誤発注。

「ママの許可は取ってきた。…お前が望むなら式もやり直す、ウエディングドレスもお前が気に入る色とデザインで」
「待ってください、あの混乱して。誤発注ってなんですか、つまりわたしを発注したつもりが違う人が来たと言っている様に聞こえるのですが」
「そうだ」
「???」

もう何も解らない。それなのに「サインを」と彼が急かすから、わたしは震える手でサインした。文字がガタガタで、お世辞にも綺麗とは言えない筆跡なのに彼はそれを見て、とても眩しそうに目尻を和らげる。そうしてわたしはどういうわけか、シャーロット・カタクリの第一夫人になった。

良く解らないまま(式もウエディングドレスも要らないといったわたしに細やかながら料理長から贈られた)ケーキを食べていると、隣でドーナツを頬張っていた彼が「フクロウナギを知っているか」と唐突な話題を振ってきた。あまり詳しくないので「お魚さんですか」と訊いたけれど、彼は何も答えずひとり満足そうな顔で紅茶を楽しんでいた。

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