by Friedrich Nietzsche
※マーリンの杖を狙うが返り討ちに合う | R-15
「降りられないの」
見上げてくる感情のない瞳に、ぎくりと肩が震える。…間を開けて、こくりと頷けば。その子は「そう」と言って指先を躍らせた。妖精がステップを踏むような軽やかさで凡人類であるわたしが感知できない世界の力を操る仕草。
それに呼応するようにしてふわりと体の周りを風が囲む。体を包む風の感触なんて知りたくなかった、…そう普通に生きていたら知ることなんてなかっただろうに。ぎゅうと目を瞑っている間に、風は鳥籠のようにわたしを包み込んで体を浮かせる。
さくりと足が草を踏む感覚がした。同時に体の周りから解けていく風に、ほっとして目を開く。すると彼がとんと指でわたしの腕を…正確には、わたしが大事に抱えていたものを指差した。
「なに、それ」
「え、ああ… とりさん、巣から落ちちゃったみたいで」
少し手を開くと中から小さな嘴が顔を覗かせる、小さな生まれたばかりの小鳥だ。
野イチゴを集めている途中にか細く鳴いている声に気づいた。どうやら木の上の巣から落ちてしまったようで、必死に鳴きながらまだ満足に飛べない羽をバタつかせて縮こまっていた。その様子を見ているのは忍びなくて、どうにか巣に戻してあげられないものかと木に登った…までは良かった。
慣れないことをするものではない。ふと見下げた地面が思っていたよりも遠いことに気づいて、上にも下にも行くことができなくなってしまったのだ。
「巣に戻してあげようと思ったのだけど、木登りって難しいね」
「…そう、」
そういって、彼はわたしの手からするりと小鳥をすくいあげた。もしかして魔術で巣に返してくれるのだろうか、そう期待して彼を____マーリンの顔を見て、後悔する。
ぐしゃり
何かが、潰れる音がした。
「…帰ろう、シスターが探している」
マーリンの鏡のような瞳に理解したくないものが映っている。彼が手を開いて、べちゃりと何かが地面に落ちた。頭では理解しているのに、現実を目にするのが怖くて視線を下げられない。強い力に固定されたように、彼の顔だけを見つめているわたしを不審に思ったのか、マーリンが首を傾げる。
「なんで怯えているの」
「え」
「そういう味がする」
味と、彼は言った。
「どこかをケガをしたの」
「し て、ない」
「そうならどうして」
「どうして、 って… ねえ、どうして、…… こ、ろ した の …?」
聞きたいのはこちらだった。平然としている目の前の生き物が恐ろしい、心臓の鼓動が飛び出してしまいそうなほど大きく聞こえた。
「君がケガをしたら僕が叱られる」
「____」
「あの味は好きじゃない、もう木に登らないで」
そういってマーリンは踵を返す。わたしが置いておいた野イチゴの籠を手に取って、その手が…真っ赤に染まっているのが、ああ、でもあれは野イチゴの色じゃないあれは 小鳥の、いのちの、いろ。
…その女性は憔悴した様子で教会を訪れたという。母と同じ年頃の娘で、儚く美しい顔をしていたという。行き場のないとすすり泣くその人を教会は受け入れ、時が経つにつれ胎に命を抱いていることをシスターに告白した。その命に父親はおらず、月の精霊の子だと言う。
幻想世界とのあわいが曖昧な世界において、それは珍しいことではなかった。一部の信者は悪魔の子だと罵ったが、彼女の境遇を憐み手を差し伸べるものもいた。…それが、ひつきの母であった。母もまた同じように胎に命を抱き、その誕生を心待ちにしている女性だった。
やがて、わたしたちはすこしの間を置いて生を受けた。
だけとわたしが生まれた時にはもう___マーリンは人語を理解し、二足で歩いていたという。
母親とは似ても似つかない虹色の髪とライラックの瞳。山羊の角のように尖った耳を見て、誰かが叫んだあれは『悪魔の子』だと。
だが小さなわたしには理解できなかった。マーリンのお母さんは優しかったし、わたしの母は魔術師の血を受け継ぐ魔女であったから…そういう生き物もいるのだと、母はわたしに教えた。
生きているのか死んでいるのか分からないお人形さんみたいなマーリンは、別にわたしをイジメたり暴力を奮ったりするわけではない。マーリンよりも、マーリンといるからという理由で石を投げてくる人間の子どもの方がずっと悪魔らしい!
だから漠然と、彼は無害な生き物だと認識していた。
それが間違いだったと、成長するにつれて痛感する。
____彼は、無害な生き物なんかじゃない。
このままじゃ、いつかわたしも殺されてしまうかもしれない。
抵抗することもできず彼の手で押しつぶされて死んだ小鳥は、わたしの未来の姿に重なって視えたのだ。
「魔術師になるの」
「…うん」
「人間はただでさえ寿命が短いのに、どうして意味のないことに時間を使おうとするのかな」
…後から思えばそれは、それは遠回しに「才能がない」と見下されていたのだろうと思う。わたしがどれほど決死の思いで母に教えを請いているのかも知らないで、この人間未満はまるで全部解っているかのようにいう。それがどうにも腹が立って、わたしは___あろうことか。持っていたものをマーリンに叩きつけてしまった。
「だいきらい!」
ぼろぼろと、泣いてしまう顔を見られたくなくて。わたしは逃げるように走り出した、ズキズキと心の柔らかいところにつけられたキズが痛む。
後ろでマーリンがわたしの名前を呼んでいるような気がした、でも足は止まらない。止まりたくなかった____ああ、もう全部イヤだ。叩きつけた花冠の残骸と一緒に散っていくわたしの憧れ、所詮わたしは地の獣だ。
湖面の月に焦がれて、独り惨めたらしく吠えているだけ。
あの美しい月に触れることなんてできやしない。

逃げるように、母に駄々を捏ねて街を出た。マーリンのお母さんは引き留めようとしたけれど、母は珍しいわたしのワガママを優先してくれた。
最後のお別れの時も、ついぞわたしはマーリンの顔を見ることはなかったと思う。だから彼がその時どんな顔をしていたのかは知らない、でもきっと何時もと同じお人形さんのような顔をしていたに違いない。
元々商売を生業にしていた父と魔術師としてはそこそこに腕の立つ母のお陰で、新しい街に移ってもさして不便があることはなかった。だけど人生とはうまくいかないもので、父母は戦火に巻き込まれて息絶えた。
幸いだったことは、その時のわたしは少女の境を抜けており、魔術師と生きていける最低限の技量を身に着けていたことだろう。おかげで、戦火を逃れ人里離れた場所でも生きることに困ることはなかった。
しばらくして同じように身を隠している魔術師たちと出会った。彼らは王都に向かう途中であるという、時の王が戦争の為魔術師を集めているらしい。その国では流浪の魔術師であっても迫害されることはないらしく、わたしは迷った末に彼らについていくことにした。
そうしてたどり着いた王都、ログレスの都。そこに聳えたつ白亜のキャメロット城は、言葉を失うほど美しい古代魔術の結晶であった。
城だけではない、この国は至る所に魔術が施されている。彼の黒い森とは比較にならないが、それでも現代においてここまで神秘が生きている王国はまずない。
長く森に引きこもっていたわたしにとってはどれもこれもが新鮮で、ふらふらと都を見て回った。
「___ひつき、」
名前が呼ばれる、ああ浮かれていた所為でみんなから離れてしまったのかもしれない。謝らなければと振り返った先で、目が覚めるほどの煌めきが視界を覆い尽くした。
長く伸びた虹色の髪、子どもらしい丸みを失ったライラックの瞳。お人形さんみたいな顔をした月の精霊が___わたしを見て、“わらって”いた。
「アンブローズ郷、いかがされましたか! ああ、そちらの魔術師も本日受け入れる予定の者で、」
「ああ。彼らは予定通り、東の塔に案内しなさい。そこで必要な説明をして、軍門に下ったものには物資の引き渡しを」
「はい承知いたしました、そちらの魔術師は」
「___どうやら、流浪の魔術師たちの中にわたしの弟子が混じっていたようでね」
「彼女への説明はわたしがするから、君たちは他のものを頼むよ」と笑う魔術師に、兵士は驚きながらも拝礼する。他のものが好奇心を覗かせてローブを被ったわたしの顔を覗こうとしたが、それよりも先にコツンと大きな杖が大地を叩いた。
一瞬にして形成される花の魔法陣、次の瞬間には___わたしは見知らぬ部屋のソファに座らされていた。
「いやはや驚いた、まさか受け入れの者に君が混じってくるとはね」
聞いたことのない軽快な笑い声、そうして魔深く被った白のローブを脱いだ人は…良く知っているはずの、知らない人の顔をしていた。
「マーリン」
「うん、久しぶりだねひつき。こんな形で再会するとは思いもしなかったが、まずは元気そうでなによりだ… いや、そうでもないかな? あの後、随分と苦労したようだね」
そう言ってわたしの頬に指が触れる。驚いて体を仰け反らせたというのに、白い指は気にした様子もみせずわたしの頬に触れて汚れを拭いとるような仕草をする。
「ご両親のことは残念だ、君の母君はわたしたちにとても良くしてくれた」
「…なんで、知ってるの」
「この世にあることでわたしの知らないことはないよ」
当然のように言う、その声は吟遊詩人のように軽やかで。わたしの記憶に残っているマーリンとは対照的だった。確かに時が経てば成長する、幼い頃の面影から考えられないほど変わっている人もいる。だが…マーリンはそうではない、彼は月の精霊の堕とし子だ。尋常の括りの外にある節理で生きている、この世のテクスチャに戯れで張り付けられた影ともいえる。
生きている世界が違う、倫理観が違う、生態系のステージが違う。
…マーリンが、こんな人間的になることはあり得ない。
「君が考えていることは良く解る」
見透かされたような言葉に、身体が震える。戸棚の中を漁りながら「困惑しているね、そういう味だ」と理解を示すような声音で人外の言葉を口にする。
「あの後、わたしも色々あった。まあなんというか、君たちの言葉でいう天啓みたいなものがあってね。お陰で自分の在り方というものを再定義できた。 この『わたし』はその役割に合わせて調整した結果だよ、どうだい? わたしは前よりもずうと人間らしく振舞えているだろう」
その様子はまるで親に褒めてもらおうとしている子どもの様に無邪気だ、敵意を抱くことが難しい。だけど以前のマーリンを知っているからだろうか、わたしにはどうにもそれが不気味に見えてしまう。
「___ああ、あった。ほらこれを着るといい、わたしが以前使っていたローブだ」
そういって戸棚から引きずりだしたローブは、マーリンが着ているものと同じ色に染められていた。それを自分の身体に宛がい、ふむと首を傾げる。
「君には少し大きいすぎるかもしれないが、そこはお針子の妖精に頼むとしよう。 地下に浴場があるんだ、まずはそこで身を清めてくると良い。なあに、彼らは仕事が早いからね、君が上がる頃にはローブを詰めてくれるよ」
「ま、待って マーリンわたしは」
「君はわたしの弟子」
何時の間にか、マーリンの顔が眼前まで迫っていた。
「そういうことにしておこう、君にとっても…その方が何かと都合が良いと思うのだけど」
吐息を感じるほどの距離、ライラックの瞳がすがめられれば、そこに映ったわたしの像が歪む。
「そうだなあ…名前は、ヴィヴィアンにしようか。かわいらしい響きだ、君に良く似合う」
「なに、え、 ちょっと待って なんで名前、」
「これはわたしだけの物語なのに、はじまりも知らない生き物に軽々しくタイトルを口にされるのは愉快と言い難い」
するりとマーリンの手がわたしの心臓を撫でた。彼の言葉が何一つ理解できなかった、そんなわたしの困惑を見通しているくせに知らないふりをして、マーリンは「いいね」という。肯定以外を許さないと、その目が語っていた。
____その日から、わたしは王宮の筆頭魔術師アンブローズ郷の弟子ヴィヴィアンになった。
程なくして再開した魔術師たちも、当然のようにわたしのことをヴィヴィアンと呼ぶ。何をされたかなど聞くまでもない、マーリンが他の魔術師たちの記憶を弄ったのだろう。忘却の魔術、不特定多数の魔術師の防衛機構を掻い潜って魔術を施すことなど、半精霊の彼にとっては児戯に等しい。
まるで子どもがおままごとで遊ぶように容易く、わたしは名前を奪われた。
マーリンは弟子という立場を使って、事あるごとにわたしを傍に置いた。魔術師という肩書らしく政治に関わることはないが、戦争が起これば王の相談役として軍議に参加し、魔術師を中心とした部隊の指揮を執った。それなりに忙しいであろう最中、一応弟子とした体裁のためか、才能に欠けたわたしがそれでもらしく見えるようにと魔術の手ほどきをしてくれた。
「前よりも上手くなったねひつき、次は拘束の魔術を教えよう」
2人きりの時だけ、彼はわたしの名前を呼ぶ。一度だけ拝顔の功を賜った王にでさえ、わたしのことを偽りの名で紹介した。王は何か察したような雰囲気であったが、マーリンは余程信頼されているのか何も追及されることはなかった。…噂に寄れば、現王アーサー・ペンドラゴンを見出したのは魔術師でもあり…過去現在未来を見通す瞳、魔術の極致・千里眼を保有する預言者・マーリンであるとか。
「マーリン、わたし何時までヴィヴィアンでいるの」
「ヴィヴィアンは不満かい、なら違う名前にしようか」
「そうじゃなくて、わたしはヴィヴィアンじゃない。ひつきだよ、」
「知っているとも」
妖精と戯れながらマーリンが笑う。顔に張り付けただけの薄っぺらい笑みに、腹が立つ。
「名前は大事なものでしょう、わたしはひつき。ひつきに戻りたいの、このままじゃみんな本当のわたしのこと忘れちゃうかもしれない」
「忘れていないよ、みな君のことをヴィヴィアンだと覚えているとも。わたしがそうなるように魔術を施したからね、それに…。ひつき、君がひつきであることはわたしが覚えている。だからなにも不安に思う必要はない」
「そうじゃなくて!」
マーリンのローブを掴んで訴える、だけど何一つ彼に響かない。当然だ、彼は人間ではないのだから。
「本当にわからないの、マーリン」
「…ねえ、それなら代わりに教えて欲しいのだけれど」
ひつき、君はいつもいったい何に怯えているんだい。
マーリンの言葉に、わたしは終ぞなにも答えることができなかった。
ある日、噂を聞いた。大きな戦が終わり、時を同じくして王都に身を寄せた魔術師たちと細やかな祝杯を挙げている時のはなしだ。
「アンブローズ郷が持っている楽園の杖、あれは彼の聖地アヴァロンにつながる標なのだそうだ」
アヴァロン、このブリテン島でその名を知らぬ魔術師はいない。ブリテンのどこかにあるとされる常春の島。妖精郷とも呼ばれ、その名の通り六姉妹の妖精によって統治された永久の楽土。
「アンブローズ郷といえば、あの話は本当なのか。アーサー王の誕生を預言したって」
「ああ、郷はアヴァロンの妖精から楽園の杖を授かったそうだ。その時に、この世の全てを見通す瞳を以てして、アーサー王を守護する役目を担ったとか」
(なら____、)
____あの杖が無くなれば、マーリンは元に戻るのかな。
戦が終わると、マーリンは決まって娼館へと赴いた。月の妖精としての性か、彼は性に対して奔放なところがある。それは本質的なものであり、人間でいうところの食事に該当する行為なのだと尤もらしい顔で苦言を呈した王に説明していたことを思い出した。
___その時が、狙い目のはず
「ひつき、君はまたお友達と一緒に飲みに行くのかい」
「うん」
「わたしが言えた立場ではないが、あまり遅くならないようにするんだよ」
「少しみんなで話したら帰るつもり。…ねえマーリン、その杖は置いて行ったら」
邪魔でしょう?と言えば、マーリンはきょんと目を丸くした後「それもそうだね」と言った。塔から娼館へと出かける後姿、その手に楽園の杖がないことを確認して。わたしも酒場へと移動する。
…魔術で、思考を読まれないように結界を張ったので読まれてはいないはずだ。他ならぬマーリンが教えてくれた魔術だ、綻びはないはず。怪しまれない様にいつもどおり酒場を訪れ、彼らと少しだけ酒を飲み交わした。
帰宅した時間も同じ、マーリンは決まってこの日は朝まで帰らない。おそらく戦で消耗した精力を補っているのだろう、急ぐ必要はない。遠見の権能をもつ彼に悟れないようになるべく普段通りに行動した。
自室に一度戻り、姿隠しの魔術を施してそっと彼の部屋に入り込む。大魔術師であるがゆえの怠慢か、彼の部屋には結界のひとつも施されていなかった。だが今はその怠慢さが救いだ、ベッドに無造作に放られた楽園の杖に、どくんと心臓が大きく波打った。
(…この杖のせいで、)
_____「ひつき」
遠い記憶が蘇る。あの小さな街の錆びれた教会、祈りを捧げる母の代わりに小さなわたしの面倒を見てくれていた男の子。手を引けば後ろをついてきて、訊ねれば何でも教えてくれた。にこりとも笑わないけれど、つないだ手を決して振り払わないでいてくれる彼は、わたしにとって_____
(…これを壊せば、きっと)
____今のマーリンは可笑しい、子どもの頃だって確かに変だったけれど。…恐ろしくて非人間で合理的なだけで、決してこんな娯楽で他人の名前を奪うことはしなかった。彼は『調整』だと言っていたけれど、きっと楽園の妖精が悪い魔法をかけたに違いない。
だから軽薄な男のようなふりをする、数多の女性と夜を共にしてまるで使い捨てるように食い物にしている、…だから、だからだからだから。繰り返す否定の言葉に視界が真っ赤に染まる。わたしは焚き付けられるようにして、乱暴に楽園の杖を掴んだ。
手に取ったそれは予想以上に重い、だが手触りからして材質は木のように思える。なら問題はない、さっさと折るか燃やすかして、捨ててしま__________気づいた時には、すでに楽園の杖を握るわたしの腕に白い腕が巻き付いていた。
「ひつき」
耳元で声がした、それは良く知っている声で。絡みつくほど甘く優しい声音をしていた。背筋に冷たいものが落ちるより先に、逃げようと腕を振り払う。そのまま楽園の杖を投げつけてやろうとかと思ったが、その手はあっけなくマーリンの手に捕まれた。
楽園の杖が落ちて、大きな音をたてて床に転がった。それと同時に、腕を掴まれたままベッドの上と押し付けられる。掴まれた手首が痛い、滲み出た涙で歪む視界で見上げれば長い髪がカーテンのように垂れさがってきて。
「ん 、 !」
「___」
噛み付くような、キスだったと思う。驚いて固まってしまっているわたしを、冷たいライラックの瞳が映し出している。キス、ああ_____わたし、マーリンとキスをしているんだ。ようやく理解した時、わたしは酷いパニックに襲われた。
被さってくるマーリンの身体を押し退けようと、全身を使って躍起になって暴れた。だけど小さい頃とは違い、男の身体になった彼はびくともしない。そんな抵抗意味がないというように、自由であった逆手も絡め捕ってベッドに押し付けてくる。
長く息を止めてられなくて、口を開けば待っていたようにマーリンがキスを深めた。キスが深まるほどに、身体の奥に何か視えないものが入ってきて、…ぞろりと身の内を喰われる感覚に襲われた。恐ろしくて逃げたくて、持てるすべての力で暴れても、マーリンは決してそれを許さない。
何度もキスをした、何度も喰われた。
___そうして抵抗する力さえも奪われると、ベッドの上に縫い付けた手をマーリンが優しく嬲るような仕草でつないだ。まるで恋人を相手にしているように、
「_____は、 ぁ」
どれほどそうしていたのだろう。頭の中が、真っ白だ。感じていた怒りも羞恥も、…心地よさでさえ。生まれた端から食べられてしまったと…漠然とそう感じた。初めてだったのに、そうだと分かった。
「…それで、君はわたしの杖に何の用があったのかな」
教えてくれるかい、とマーリンは口の端を舐めながら訊く。食事を終えて満たされた獣の顔だ、全部ぜんぶわたしの中で生まれた感情を食い漁った妖精が、まるで被害者のような口ぶりで言う。
それが酷く癇に障った、感情がぶれる。忘れていた怒りが込み上げて、悲しくもないのに涙が出た。見られたくなくて、逃げようとしても儘ならない。その零れ落ちた感情すら、「ああ、もったいない」と彼は捕食しようとする。涙を吸われて、感情がロストしていく。それが嫌で、忘れたくなくて、わたしは子どもの様に支離滅裂に叫んだ。
「いや イヤ___こわい、 返して、返してよぉ」
「うん、なにを返して欲しいんだい」
「あ ぁ゛、 マーリンを、 かえし、て」
「わたしを? おかしなこというね、わたしを先に棄てたのは君だというのに」
マーリンが強い口調で繰り返す、その声は彼にしては早口で強張っていた。まるで怒っているようなそれに違和感を覚えながら、わたしは夢現のまま続ける。
「マーリン、 マーリン… かえして、 わたしの、」
「…君は怯えただろう、物心つき始めたときだ。わたしを避けるようになった」
「ちが、 ちが、 う わたしは、 」
______彼のことが好きだった、恐ろしくも美しい月の妖精が。
彼の見せる人間ではない側面に恐怖し、恐ろしいと思いながらも。わたしは離れたくなかった、マーリンのことが好きだから…傍にいたかった。そのために魔術師になろうとおもった、ただの人間のまま半妖精である彼の傍に居続けることは難しいと知ったから。
少しでも好きな人の傍にいたかった。…できれば彼を、理解してあげたかった。
それなのにその努力は、外ならぬマーリン自身に否定された。
わたしの恋心は、あの日彼に渡そうと思っていた花冠と一緒に散ったのだ。
それなのに、また出会ってしまった。放っておいてくれれば良かったのに、軽薄になったマーリンの行動は忘れていた恋心を呼び覚ますには十分すぎた。
少年から大人の男になった美しいひと。太くなった喉元、低い声、涼やかな眼差し、整った掌に膨れた剣の痕。七色の髪が陽の光に透けて煌めく様が好き、まるであの小さな教会であなたと過ごした穏やかな日々を思い出させるから。
「すきだったの」
あなたが。
「かえ、して ____わたしのマーリンを、かえ し て」
『ひつき』を返して、すべて手遅れになる前に。