時透有一郎の『有』は____、
「さっさと帰れ、この疫病神っ!!」
___そもそも、わたしは、今回のお勤めに反対していたのだ。
あまね様は障りのある旦那様に代わりに、産屋敷当主代理として度々遠方に赴かれる。みな己の役割があるのだと、隠(かくし)一人伴うことも良しとしないから何時も半場強引に彼女の背を追った。
今回の旅の目的は、とある剣士の子孫を訪ねることだという。長い歴史の中で紡がれた血の縁、そして呪いや葦を伝って漸くたどり着いた…おそらくは、唯一現存する“はじまりの呼吸”の最終血統。だから大事なお役目なのだと、彼女は言う。
わたしは、あまね様が神籬(ひもろぎ)の巫女姫であった時から傍にお仕えしていた。産屋敷の当主に嫁がれることが決まった時も、わたしは彼女についていくことを選んだ。わたしが産まれた斎垣(いみがき)家は神籬家の分家筋で、生まれてきた子はみな神籬家の傍仕えとなるのが慣例だった。けれど、これはそんなちっぽけな理由ではない、わたしは神籬ではなく…ずっと、あまね様ただひとりに、この心でお仕えしていた。
だから、産屋敷が呪われた一族であり、悪鬼滅殺の名の下に永く終わらない影の戦争の渦中にいるのだと教えられても。わたしの意思は揺らがなかった、「もう十分です」というあまね様に首を振って。「まだ足りません」と傍にお仕えさせていただくことを選んだ。
だから、____(こんな、こと は、)
水だけでは飽き足らず手杓まで投げつけようとする少年を、“同じ面立ち”の少年が止めている。ぽたぽたと、あまね様の月色の髪から水が滴って、唯一お持ちすることができた旅装にじわりと染みが広がった。夏が近いと言っても、まだまだ冷えるのだ。お風邪を召される前にお着換えを、嗚呼それよりも先に頬の滴を拭って差し上げなければ。
そんな百の言葉が頭を埋め尽くして、少年たちの野犬のような怒鳴り声が遠い。きゃんきゃんと、なんと品のないことだろう。そうだ、最初から、なにもかも気に入らなかった。このような辺鄙な場所にあまね様がおひとり赴かれるのも、きちんと礼を尽くしたのにも関わらず門前払いさせられたことも。あまね様を、まるで怨敵のような目で睨みつけて___怒鳴り声をあげる、彼も、
「…折が悪かったようです、シノ今日はこれで____シノ、?」
あまね様が、わたしを咎める様な声で呼ぶ。けれど踏み出した足は止まらなかった、あまね様が焦った様子で手を伸ばす。けれどわたしが手荷物を投げ捨てる方が早い。止めに入っていた少年が驚いた形相でわたしを見る。けれどわたしが踏み出す方が早い。杓を振り上げた少年がわたしを見る。嗚呼____わたしの振り上げた手が、彼をぶつ方がきっと早い。
_________________パンッ
乾いた音が、新緑の美しい景信山に響いた。

「自分が何をしたのか、わかっているのですか」
ぴしゃりと、あまね様がおっしゃる。その声音からわたしを咎めていらっしゃるのだと解る、けれど、わたしは何一つ間違ったことはしていない。黙したまま下座で頭を下げ続けるわたしに、あまね様は重い息をひとつ吐いた。
「彼らは両親を失って日が浅い、そんな折に訪れたわたしたちこそ招かれざる客なのです。彼らの怒りと警め最もなこと、それを深く詫びることあれど手をあげるなど許されません」
「…」
「…顔を御上げなさい、シノ」
少しだけ優しい声音につられて、漸く顔を上げたわたしに。あまね様は何時もと同じ、まっすぐな瞳でわたしを諫める。
「明日、ひとりで時透家に赴き彼らに謝罪を。許しがいただけるまで、産屋敷家に戻ることを禁じます」
「そんな!」
「反省なさい、あなたにはこれが一番堪えるでしょう」
わたしがそうであるように、あまね様もまた長くわたしと共にある。彼女は、わたしが最も嫌がることを良く解っていた。まるでわたしの心を見透かすような言動に何も言い返せない、ただ縋るようにあまね様を見れば。彼女は白い指先で米神を撫でる。
「良いですね。わたしに良く仕えてくれるあなたなら、わたしの言を決して違えることないと信じます」
「あまね様、お待ちください。この為さり様はあんまりです、確かに…その、叩くのはやりすぎたかもしれませんが…」
「そのあと拳で殴り、頭突きをしたことは、過ぎたことではないと?」
「………………………………………」
「シノ」
完全に黙りこくってしまったわたしに、あまね様が命じる。
「解りましたね」
「…………は、 い」
「…本当に、頑迷で困った子」
そう言って、あまね様は少しだけわたしの髪を撫でてくれた。年の離れたわたしを、彼女は時折こうして妹のように扱ってくださる。それが嬉しくもあり、どうにもむず痒い。いくつ歳を重ねても、この女性にとってわたしは…後ろを一生懸命ついてまわる小さな子にしか見えないのだろうか。
翌日。一度、産屋敷家に戻るというあまね様の背を、(袖を噛んで拳を握り締めて)見送った。そしてお宿の女将さんに見送られて、わたしはのっそりと重い足取りで景信山を登る。こうなったら意地を張っていてもしょうがない、昨日は全面的にわたしが悪かった(ということにして)さっさと謝って許してもらおう。
気の弱そうな彼の方は、きっとひたすら頭を下げればきっと許してくれる。問題は…気の強い彼の方だ。恐れ多くもあまね様に水をぶっかけた上、疫病神と…! 神籬家にあって歴代最も強く美しい神通力をお持ちで、『現神娘』と呼ばれていたあまね様を、や、疫病神…!?
ただでさえ、産屋敷当主様がここの所体調を崩されて気を落とされていた彼女になんていうことを。そんなのパーっでいって、ぐーで殴って、最後に頭突きされても許されるわけがない!ああ、思い出しても腹が立つ。やっぱりあまね様が止めるのを振り切って、あの技をかけておけばよかった。
隠の方々に教わった護身術で、相手の手を取って…こう絡めて…肩を地面に向かってこう…固め技というらしいが。これが中々に痛いらしいので、あの生意気な男に一泡吹かせてやれたかもしれない。
そんなことを悶々と考えながら辿り着いた小屋は、ぴっちりと戸が閉じられていた。ご丁寧に連子窓の板戸まで、ご苦労なことだ。小屋の中から流れ出てくる拒絶の気配に、あーーーーキレそう。って、いけない。いけない。それであまね様のお傍に戻れないではないか。ここは穏便に済ませるのだ。
すうと息をして、心を落ち着かせる。よしと、気合を入れてことと戸を叩いた。
「もし、時透様はご在宅でしゅうか」
噛んだ。恥ずかしい。
____かあ、と熱がこもる頬に知らないふりをして、必死に背筋を伸ばしたのに。家の中から「…噛んだ」ってぼそりと呟く声が。この声、気の弱そうな方だな。絶対許さん。
「…昨日の謝罪に参りました。突然のこととで主人が害されたことに我を失い、無礼な振舞いをしてしまったこと心よりお詫び申し上げます」
「_____」
ハイ、無視と。しかし怒鳴ってはいけない、怒ってはいけない。それに、こうなるであろうことは想定している。そのために最終兵器も用意した。
「心ばかりではございますがお品もご用意させていただきました。ふもとの町で評判のカステラというお菓子です、どうぞ納めくださいませ」
紫苑染めした包みを解けば、ぱりとした箱に納められたカステラ菓子。どうだ、ハイカラ今どきのお菓子だぞ。この誘惑には勝てまい。どや?どや?と、カステラ菓子を手にそわそわしていると、カタンと。内側から小さな音がした。
(あ!)
「…」
少しだけ開いた戸、その隙間からわたしを睨みつけてくる子。真っ暗な家の中に在ることもあって、もう悪鬼のようだ。いや、この例えは不謹慎だった。ごめんなさい。けれど今が最善の時ではないのだろうか。
「あの、昨日は本当に___」
「____ッチ」
紡ごうとした謝罪は、鋭い舌打ちにかき消された。ダンッと勢いよく閉められる戸、その風圧で前髪が揺れた。繕っていた申し訳なさそうな顔のわたしと、カステラ箱だけが残された。固まるわたしと彼らを隔てる扉の向こうで、何やら言い合っていることが聞こえる。「あんな暴力女は放っておけ!」と、オイ。お前あれだな、気が強い方だろう。
(絶対許さん)
そうして、わたしと時透兄弟の争いの火蓋は切って降ろされた。ちなみにカステラはわたしが全部食べた、大変美味しゅうございました。
わたしは決して諦めなかった、すべては尊きあまね様のため。そう言い聞かせて、毎日足繁く時透家に通った。何度門前払いを受けようと諦めず。雨の日も、風の日も通い続けた。流石に嵐の日は止めた、わたしとて命は惜しいのだ。そうしたら翌日、何時も以上に機嫌最悪といった様子で追い出された。なんで。
そんな日が二週間過ぎれば、わたしの堪忍袋の緒が捻じれた。取り出したるは秘刀、秘儀・泣き落としである。時透家の戸の前で、しとしと(あまね様を思って)泣くわたしに流石に罪悪感が湧いたのか。かたんと、ちいさな音がして___初日以来、決して開かなかった岩戸が、僅かに開いた。
その瞬間を見逃すわけもなく、わたしは背中に隠した手で構えていた金剛杖を“つっかえ”るように戸口に突き刺した。騙されたな、これで戸は閉められまい!
「っテメェ…!」
「ふ、ふふ やっと開けてくださいましたねぇ。時透殿、これはもうわたしの謝罪を受け入れてくださるということですで宜しゅうございますか。ね、ね、そういうことにしましょう。あなたはそうだとおっしゃるだけで良いんです、そうしたらもうわたしは明日から来ませんから。ほら平和的に解決!」
「このブス、ちっとも反省してないじゃないか!」
「反・省っ してますともっ ですからこうして毎日毎日、謝罪にお伺いしているんです!」
「それが謝罪する奴の態度か!」
「あまね様に水をぶっかけておいて偉そうに!」
キエエーーーーーーーーッ
わたしたちは、知能のない猿猪のようにケンカした。
取っ組み合いの喧嘩はどっぷりと夜になるまで続いて、互いを叩く手がぺちぺちと赤子の力しかなると「もうやめなよ…」と、気の小さい方がどこか呆れを含んだ声で言った。その夜は時透家に泊めてもらった。気の強い方は追い返せと何度も怒鳴ったけれど、気の小さい方は頑なにそうはしなかった。
「じゃあ、あのあまね様に言われて毎日ここに来ていたの」
「はい。でもごめんなさい、わたしあの時のことは」
「ううん、良いんだ。僕もあれは兄さんが悪いと思うから。…思っていても、僕はこんなんだから強く言えなくて」
わたしの背の傷に薬を塗るのを手伝ってくれながら、彼はまるで叱られる前の子どもみたいな顔をして言った。
「だから君は凄いね、兄さんが打たれるところなんて久しぶりにみた ふふ」
「…兄弟が打たれたのに、怒っていないの」
「まさか」
理不尽な暴力ではなく、きちんと理由があるものだからと。彼は笑った。寝間着にと貸してくれたのは、少し大きな女性の着物で。聞けば、亡くなった彼らの母親のものだという。そんな大事なものを使えないと断ったが、わたしの着物は土汚れでとても着られないという。家の布団が汚れてしまうとまで言われれば、断る理由はなくなって。破かないように大事に扱うと言えば、彼は眩しそうな顔をしてひとつだけ頷いた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう…」
「兄さんが作るご飯はおいしいから、沢山たべて」
「ッチ 無一郎、こんなただ飯食らいかまうな!」
「ただじゃないよ、カステラ貰ったから」
気の小さい方が打つようにして返す。そ、そういえば今日も買ったんだった…カステラ。あげた記憶が一切ないのだけど、貰われたことになっている…。気の強い方が驚いたように気の小さい方を見ていたが、彼は気にした様子もなくわたしに「これも」と言って自分の漬物をくれた。前評判通り、確かに頂いた夕餉は美味しかった。
「お口が悪くても、料理が上手な人っているんですね イタイッ」
「兄さん、止めてよ」
「お前はどっちの味方をするつもりだ、無一郎!」
「お箸を人に投げない方」
「お止めなさい、シノ____!」
白樺みたいな女の言葉を聞かず、そいつは俺に殴りかかって来た。薄い体で俺の上に跨り、殴った掌を真っ赤に晴らして。太陽の陰りにあって良く見えなかったけれど、その瞳はまっすぐに___“俺”だけを、見ていた。
(…イヤな、夢だ)
加えて、最悪の目覚め。何時もの天上を見上げて、起きようと体を捻じるとずきんと刺すように痛んだ。口の中にじわりと、思い出したように滲む血の味で思い出す。ああ、そうだった。昨日、“あの女”が来て、卑怯にも泣き真似をして家に上がり込んできたのだ。
あのブス、こっちが女相手と手加減をすれば図に乗ってバカスカ殴りやがって。どうみても顔を腫らしてボロボロになっているのは俺なのに、無一郎はなぜか女の味方をする始末。その上、母さんの着物まで貸して、俺に口答えを。…腹が立つ、嗚呼あの女だ。あの女が来てから、俺たちの生活は全部おかしくなった。
俺にはしなければいけないことが沢山ある。無能な弟は役に立たない、お人よしな両親はあっさり死んでしまった。弟は両親に似て楽観的な頭をしているから、俺がしっかりしないといけない、のに
______とん、
包丁の、音だ。
とんとん、とん。
ああ、そういえば味噌の香りもする。
…まさか無一郎が、朝餉の仕度を? 想像してぞっとした、あいつはどうにもぼうとして、人よりも一拍も二拍も遅れている。だから傍で見張っていないと食材を焦がすし、加減知らずで碌でもない味にする。慌てて止めようと起き上がる、何をしているんだと上げようとした怒鳴り声はしかし、目の前の光景に喉の奥へとひっこんでしまう。
板戸を開いた連子窓から朝日が差し込んでいる。
その光に照らされて、白い頭巾が透けて。うす桃色の着物の袖を括って、台所に立つ後ろ姿。
「_____か あ、 さ 」
________「おはよう、有一郎はいつも早起きさんだね」
頭の奥が熱くなって、じわりと何かが滲み出る。胸が苦しい、掻き毟ってなりふり構わず泣いてしまいたい衝動に駆られた。忘れていた記憶…忘れようとした、思い出が、堰を切ってあふれ出す。だってそれは、ふたりぼっちで残されたこの冷たく寂しい現実を生きていくにはあまりに優しすぎる。
俺は強くならないといけない、でなければ誰が無一郎を守るんだ。
俺と違って、あいつは父さんと母さんによく似ているから。きっとまたどこかで誰かの食いものにされて死んでしまう、そんなこと許せるはずがなかった。両親が亡くなった日、俺は冷たい墓前で誓ったんだ。決して、こうはならないと。こんな風に、無一郎を死なせはしないと。だから、________、だから
「目が覚めましたか」
「____っ」
「おはようございます、随分と早起きなんですね」
記憶が揺れる、虚構が崩れて現実が写り込む。母さんじゃない、台所に立っているのはあの女だった。俺は顔を腕で擦りながら、むしゃくしゃした気持ちのまま言葉を探す。
「煩い、お前勝手に人の家の台所を使うな」
「家主の許可はとりましたよ、彼の」
ひょいと指をさす先で、布団にもぐって無一郎が眠っている。呑気な顔をして眠っているところを見るに、適当な返事をしたに違いない。本当に使えない弟だ、苛立ちで眉間がちりちりする。
「ッ… いいから、お前は本当に さっさと出て い 」
「お味噌汁の味、これで大丈夫ですか? 昨日いただいた味に似せたつもりですが、一応味見してください」
「はあ!? なんで、俺がそんなことを」
ずいと差し出された腕には、少しだけ汁が入っていた。反射的に受け取ってしまったが、従う義理はない。このまま囲炉裏に叩きつけてやろうとしたが、…女がそんな俺を見透かしたようにじっと見つめてくる。その監視する様な、まだしていないことを咎める準備をしているような目が、針の筵に突き刺さる。
…まあ、確かに。食べ物を無駄にするのは、良くないか。そんな言い訳を唱えながら、俺はぐっと椀を煽った。意外だった、うまかった。俺の家の味ではないけど、むかし父さんに一度だけ連れて行ってもらった料亭の味に似ている。
「うまい」
驚いて口をついた言葉に、誰よりも俺が驚いた。はっとした時は遅い、弾かれるように女を見ると、満足そうに踏ん反り返って言う。
「わたしは料理が得意なんです、あまね様も良く褒めてくださいます」
「……ブスでも、料理ができる奴っているんだな」
女がおたまを投げてきたが、目を瞑っても避けられる遅さだから問題ない。「うまいって言ったでしょう」「まずいまずいまずいまずい」「いいい今、まずいって言いました!? それも四回も!」そんな子どもみたいな口論をする俺たちを見て、無一郎が布団の中で笑っていることも知らずに。俺はその日、____初めて、彼女を内側に受け入れたのだと思う。
「名前」
「へ」
「居座るつもりなら家主の名前くらい覚えろ、何様のつもりだ」
「覚えていますよ、時透殿でしょう。別に苗字でもかまいませんでしょう、間違いではないのですから。それに、そういうあなたはわたしの名前を覚えているんですか」
何時の間にか、俺たちの家に当たり前のように女が居座るようになった。
女が来ると、無一郎は喜んだ。そんな無一郎の態度が嬉しいのか、女も毎日手土産を持って来る。女はその度に、俺に「謝罪を受け入れろ」と小うるさく詰め寄ってきたが、俺はそれを「反省していないだろう」と切り捨てる。それだけのやり取りを毎日飽きるほど繰り返した、諦めの悪い女に俺は苛々しているというのに、無一郎はそれを見て楽しそうに笑っていた。
今日もそうして終わるはずだったが、ふと女が「無一郎さん」と呼ぶ声が耳についた。胸の内がざわつく…この女、俺のことは「あれ」とか「それ」とか適当に呼んでおいて、なんで無一郎だけ名前で呼ぶのか。非難するつもりで言った言葉は、まさかの内容で打ち返された。…そういえば、俺も女の名前を知らない。ここに女はひとりしかいないから、それまで困ったこともなく考えたこともなかった。
ぐっとモノを言えなくなる俺に、女が何故か誇らしげな顔をする。その隣で土産の煎餅を食っていた無一郎が「シノ」といった。
俺と女は信じられないものを見る顔で、無一郎を見た。無一郎は俺たちの視線に晒されながら、煎餅をぼりぼり食べる。
「シノだよね」
「え、あれ、 どうして…」
「あまね様がそう呼んでいたから、もしかして違った?」
「い、いえ、あってます…けど、」
「だよね。ちなみに、兄さんは有一郎っていうんだ」
「へ、 へーー」
「……」
気まずい空気がながれた、のだと思う。
それから俺は、女のことを「シノ」と呼んだ。けれど、女は頑なに俺のことを名前で呼ぼうとしなかった。シノは、俺以上に頑固で融通が利かない。すぐに手を出すし嘘もつくし、ブスでガサツな救いようのない女だ。
シノは、あの白樺女に仕えているようで。俺に謝罪を受け入れてもらえるまで帰ってきてはいけないと言い付けされたらしい。シノはしくしくと悲しそうな顔で当時のことを語る、それを無視してさっさと薪を割りながら考える。
(ああそうか、つまり)
_____俺が謝罪を受け入れなければ、シノはずっとここにいるのか。
ずっと、“ここ”に閉じ込められる。
そう思うと、胸の内が仄暗いものに包まれた。光一つ見えないくらい感情なのに、酷く穏やかに感じる。斧が食い込んだ薪木を叩きつけると、罅が裂けてぱきんと薪が割れた。地面に倒れた薪が右と左に落ちて、まるでそれは、今俺の前にある選択肢のようだった。別たれた道、どちらかを選べば決してもう一方に戻れないことは解っている。
シノがいると、無一郎は良く笑った。ぎこちなくも以前と同じように俺に接してくる、両親が死んでからすっかり様変わりしていた関係が戻ろうとしていた。重く苦しく、水の底にいるようだった時透の家は、両親がいたときのような穏やかさを取り戻しつつあった。どちらかというと俺は無口な方だが、その分シノが良く喋る。女というのはおしゃべりなものだと聞いていたが、母はどちらかというと物静かな人だったから変な生き物を見ている気分だ。
母と、シノを見間違えたのは最初の一度だけ。シノは知れば知るほどに、母とは全く違った。母よりも小さい体だけれど呆れるほど活気に溢れていたし、性根が粗雑で乱暴だ。けれど箸使いが綺麗だった、時折見せる所作はまるで良家の子女のよう。良く楽しそうに笑うのに、決して大きな口を開けない。袖で口元を隠してころころと笑う姿を見ると、心臓が締め付けられているように痛かった。
「あれはどっちの嫁御さんだい、明るくていい子じゃないか」
景信山の裾で、父の代から取引のある日傭(ひよう)のじいさんに木材を届けるのが今日の仕事だった。腰が悪いじいさんの代わりに、俺と無一郎で木材を荷車に移し替えているとそんなことを聞かれた。まるで天気のはなしをするようにぽんと言ってくるものだから、俺は「ああ、シノは」と言いかけて止める。
待て待て待て、今はなんていった。口を滑らせたと気づいたのは、「へえ、シノっていうのか」とじいさんが煙管の灰を落としてから。心臓がバクバクした、木材を括ろうとしていた腕が空ぶって縄が掛からない。目に見えて動揺する俺とは違って、無一郎はさらりと答えた。
「そう、シノ。一緒にいると楽しいよ」
「へえ、じゃあ無一郎の嫁さんか」
「ううん、僕じゃなくて兄さん」
「 ハァ!?」
嘘八百を並べ始めた無一郎に、頭がかあっと赤くなった。何を言っているんだこいつは、言葉の意味を解って口にしているのか。すぐさま否定したが「だよね」と俺を見て笑う無一郎と、「そうかそうか」とカラカラ笑うじいさんに言葉が出ない。
「やっぱりそうか、じゃあダメだなあ。実を言うとうちの若いのがその娘にちいと熱を上げてな、すれ違う時に挨拶されただけだってぇのに惚れ込んじまって」
「へえ、そうなんだ」
「時透の家に上がっていくのが見えたから、そうじゃねぇかと思ったが。確認する前に相手がいるって切り捨ててちまうのも可哀そうだろ。お前さんたちの嫁御じゃなけりゃあ、口利きしてやろうとも考えたが」
「ダメだ」
その言葉だけは、いやにしっかりと口をついた。その時、俺はどんな顔をしていたのだろう。解らないけれど、俺を見たじいさんが「わかってるから、怖い顔すんな」と手を挙げてお道化る。調子のいいジジイだった、何時も物事を誇張して話す。けれど冗談だとしても、そんな話は聞きたくなかった。
「怖い顔」
荷車を引いて、家に帰る。その道中で、無一郎がそんなことをいう。「煩い」と切って捨てたが「シノが怖がるよ」と生意気を言うから、「あれがそんなタマか」と嘲笑する。
「僕もシノのこと好きだけど」
「……お前、いまなんて」
「兄さんならいいよ。兄さんとシノが一緒になったら、僕もずっと一緒にいられるから」
「お、お前さっきから何を」
「だって兄さんも好きでしょう、シノのこと」
「す すすす 好きなわけないだろう! あんなブス!」
「素直になりないよ。シノが来てから、兄さんいつも楽しそう」
「どこがだ!」
「兄さんは、村に行ってもさっさと帰っちゃうから知らないだろうけど。シノすごく人目を惹くんだ、美人だから当然だよね。僕、さっきみたいにシノのこと紹介して欲しいって言われたの今日が初めてじゃないよ」
「は、 はあ? お前、そんなこと俺に一言も」
「あ、大丈夫。何時も、兄さんのお嫁さんだからダメって言ってるから」
ガダン。とんでもないことを言い始めた無一郎に、荷車の轅を落としてしまった。引き手を失った荷車が、斜面に合わせてからからと落ちていく。それを慌てて掴み引き留めて、俺は無一郎を叱った。
「お前、どうしてそんな適当なことを言ったんだ!」
「じゃあ、シノは僕と兄さんとは無関係のお嬢さんで。少し元気だけど明るくて気立が良い娘さんだから、もちろん紹介するよって言った方が良かった?」
「違う、そうじゃない。そもそも俺たちとシノは無関係だ、そんなこと俺たちがどうと口を挟める話じゃないことだって考えればわかるだろう。第一、あいつが結婚していないとか、地元に許嫁がいる可能性だって」
「いないって、僕聞いた。別に好きな人がいるわけでもないって、シノ言ってたよ」
無一郎の言葉に、なぜか俺はほっとしていた。自分で口にも関わらず、シノに他に好いた男がいるかもしれないという可能性は、酷く胸の内に重く押しかかって来た。ずくずくと毒のように蝕んで、頭の中を真っ赤に染め上げそうな暴力的な衝動は、しかし頭の内に満たす前に無一郎の言葉によって解き放たれる。
そんな俺を見て取ったのか、無一郎が言う。
「ダメなんでしょう、シノへの口利きは」
「ぐっ」
「シノ、外れのお店に売っていた簪が気になるって言ってた。藤の花が細工されたやつ、今度見に行ってきなよ」
「かっ かかかか簪って、お前っその意味解って言ってるのか!」
男から女に簪を贈るというのは、意味があることだ。田舎者の俺でも知っている、特別な意味。生涯でただ一人の女性に贈る意味は、…自分と一緒になってほしいという、願いだ。
「兄さんがあげないなら、僕があげる」と言ってさっさと荷車を引く無一郎に、頭に血が上った。生意気が過ぎるのでガツンと言ってやろうとも思ったけれど、遠くから俺たちを呼ぶシノの声が聞こえてきて引っ込んでしまった。無一郎が「シノ〜! ここだよ〜!」と大きく手を振ると、遠くでぴょんと跳ねる影が見えた。危ないだろう、なにをしてるんだアイツ!
「ただいま!」
「おかえりなさい」
シノが言う。お前の家じゃない癖に、おかえりってなんだ。俺は正しいはずなのに、なぜか無一郎とシノがじっと俺のことを見る。まるで挨拶がないことを批難するような視線に耐え切れず、諦めて「ただいま」と小さく言えば。2人は満足したように笑って、シノが「おかえりなさい」と言った。その声が、言葉が…暫くの間、頭に染みついて消えなかった。
(たっっっっっっっっ か !)
2人に隠れるように訪れた村の端、漸く見つけた藤の簪は高かった。とても手持ちの金では到底買えない。半分やさぐれるような気持ちで、足元の小石を思い切り川に蹴り飛ばせば、突然後ろから「なにをしてるんですか」声をかけられて心臓が止まるかと思った。
「っ!? !!?」
「何を驚いているんです。あ、別に後をつけていたわけじゃないですよ、ここわたしが泊っている宿から近いんです」
「はあ? 知るかそんなこと」
「いま小腹が空いたのでおうどんのお店いくところなんです、普段は浅草でお店を出しているところのようで。とても美味しいのですよ、川に小石を蹴飛ばすくらい暇なら一緒にいかがですか」
「……はあ、」
「なぜ溜息」
…なんだか、真面目に考えている自分が馬鹿らしく思えてきて。その日は、一緒にうどんを食って帰った。家に帰ると、留守番していた無一郎が「兄さんだけずるい」と不貞腐れたが知るか。俺はそれ以上に現実見せられて打ちひしがれてんだよ。
シノの着ている着物は、俺の粗末な着物よりも上等で。神職の分家と言っていたから、それなり格式の在る家で育ったであろうことは分かっていた。…シノは、こんな山奥のあばら家で生きていける様な女じゃない。
(…剣士、か)
布団の横になっていると、ふとその言葉が頭を過る。邪念だ、そう解っていても止められない。…あの白樺の女は、俺たちが名のある剣士の子孫だと言った。だからその受け継がれた才あるならば、共に“鬼”と戦って欲しいと。最初は世迷い事をと何一つ信じなかった、けれど今…シノから同じ話を聞いたのなら、俺はきっと信じるだろう。
鬼と呼ばれる存在が、御伽噺でしか聞いたことない悪鬼羅刹がこの世には在るという。それは日のない夜を徘徊し、罪のない人々の血肉を貪り食う。その頚を斬り落とし、人の世を守って来た組織が白樺の女の家だという。確か組織の名を___鬼殺隊、率いる大家は産屋敷。
産まれてこの方、俺たちは刀なぞ握ったことはない。父と一緒に斧を振って生きてきた。確かに父は運動神経が良い方であったが、ただの杣人の域を出ない程度。刀を扱えるなど聞いたことがない、だからきっと父も時透の家が遡れば武家侍であったことなど寝耳に水だったはずだ。
(だからといって、何になる。人に言われた大義名分なぞに踊らされるな、所詮俺たちは杣人。この手には刀ではなく斧が似合いだ)
父が、その父がそうしてきたように。きっとどこかの遠い祖先が、刀を棄てて斧を持った。ならば俺たちは、斧を持つべきだ。無辜の民を救うなんて大それたことできるわけがない、そんなことができるのはやっぱり“選ばれた人間”だけだ。
______「ねぇ、剣士になろうよ。鬼に苦しめられている人たちを助けてあげようよ、___僕たちならきっと、」
無一郎の言葉が頭を過って、ずきんと心臓の辺りが痛んだ。…できやしない、そう自分に言い聞かせて俺は布団の中で息を殺すように眠りについた。
そうして考えないようにしたことを、俺はすぐに後悔することになる。
蒸し暑い夜のことだった。夏になると早く夜が来る、何時もの様子で家に居座っていたシノは宿に戻る時間を見誤って、その日は家に泊まることになった。戸は閉めて置いてというシノを遮って、俺たちは戸を開けた。その日は本当に暑くて、そうしないと死んでしまいそうだったから。
シノは不安そうにしていた、彼女は夜を極端に恐れるきらいがあったから。もっときちんと考えるべきだった、その時の俺たちは____まだ、自分たちの生きる世のことを、正しく理解できていなかった。
「ああああ ____!」
血飛沫が上がる、絹を裂くような悲鳴も。
暗がりの中音もなく忍び込んできたナニかは、真っ先にシノを狙った。背を斬られたシノを抱いて無一郎が下がる。その爪にシノの血を滴らせて、下卑た声が「女の血肉は美味い」とか「悲鳴が心地よい」とかそんなことを言っていた気がする。
けれど、その時のことはそれ以上うまく思い出せない。
目の前が真っ赤になった。生まれてから一度も感じたことない、腹の底から吹き零れ出る様な激しい怒りだった。獣のような咆哮を上げて、
その後、俺たちはシノを背負って家を出た。既に体は限界だった、けれどそんなものは気にならなった。シノを医者に診せるまで持てばいい、それだけで十分だ。自分の命なんてどうでもよかった、俺も、無一郎も。自分の命を捧げてもいい、神様仏様どうか、シノを_______助けてください、と。
「本当に、運が良かった」
暫くして、目が覚めると俺たちは産屋敷の家にいた。いつからそうしていたのか解らない、覚えているのは村医者の戸を叩き割って、ぐーすか寝てたじじいを叩き起こしたこと。そこでシノを診てもらった、ああそういえば彼女はどこに。不安に揺れる俺たちの見透かすように、産屋敷の当主は「シノも無事だ、今は別の部屋で休んでいる」と教えてくれた。
