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だからアズールアーシェングロットは愚図が嫌いだ




「アズールくんはとても優秀らしいね、ぜひうちの子の勉強を見てあげてよ」

そうしたら、例の件は君が提示した条件通りにしてあげよう。
なんて、人の良い顔で笑って僕を誘う。願ってもいない申し出であった、返事はもちろん「喜んで」。魔法士養成名門校といえば、ナイトレイブンカレッジのお決まりの謳い文句だが。実情、その厳しいカリキュラムについていけず脱落する生徒も多い。

そういう生徒は落ちるところまで堕ちて、そうして深い海の底でアズールに助けを求める。慈悲深い心で彼らを救ってきたアズールにとって、今更小娘ひとりの面倒をみるなど朝駆けの駄賃にもならない。陸でのうのうと生きてきた雑魚の扱いなど、一年生の時に履修済みだ。それで、モストロラウンジの運営が軌道に乗るなら安いもの。___そう、そう思って、安請負した自分を、後々アズールは呪わずにはいられなくなる。

こういう時、陸ではなんというのだったか。
ああそうだ、____あのクソ狸爺、アイツにしてやられた。



「い、いらっしゃいアズールさん! 本日も良い天気ですね!」
「…」
「スリッパどうぞ、アズールさん用に新しく買ってきました。お外は熱かったでしょう、冷たいグレープフルーツジュース用意してありますよ。この前、シチリア産の良いものをいただいたんです」
「…ミワさん」
「あ、もしかして柑橘系は苦手でしたか。なら、水出しのアイスティーを」
「ミワさん」

いたせり尽くせりの歓迎にも関わらず、アズールの顔は歪に引き攣るばかりだ。込み上げてくる嫌な予感を払拭するように深呼吸をして、彼女の名前を呼ぶ。ミワ、と呼ばれた少女は、まるで親に叱られた子どもの様にびくりと震えて恐る恐るアズールを見る。

その目がすぃ〜と下がったと思えば、指先を触れ合わせた手があっちにこっちに大忙し。…本当に嘘がつけない、娘だ。すでにもう諦めているが、少しの…砂浜で星のかけらを見つけるほどの希望を持って、アズールは訊ねる。

「先週、僕がお渡しした宿題…もちろん、全て終わっていますよね?」
「… ァ、… う」
「ミワさん、お返事はしっかりとお願いいたします。そのように口籠ってぼそぼそとしては、相手に失礼ですよ」
「ぅ…」
「…ミワさん?」
「ぅぅぅぅう゛〜〜!」

ごめんなさい!!!!!
玄関で大げさな土下座をかます家主に、アズールは自分の意識が彼方に遠のくのを感じた。


ミワ・ミズナシ___、アズールがモストロラウンジの経営を通じて知り合った輸入を専門とした大手卸業者の社長がいる。彼女はその一人娘にあたり、アズールに商品を格安で融通する条件として提示された存在でもある。簡潔に言おう、…彼女は頭が悪かった。

ものすごく悪かった。悲しいほど悪かった。とてつもなく悪かった。加えて、本人の極度の勉強嫌いが祟り、数多の家庭教師が匙を投げていた。

後半は、契約の後に知ったことだが。社長はその人はとても大らかな人で、娘の成績を重要視はしていないらしい。だがそんな極度の娘バカでも、彼女が落第寸前となれば話は別だ。娘もそれを望んでいないとなれば尚のこと。そうして、渡りに船でやってきたのがアズール・アーシェングロットであったというわけだ。

「ミワさん、あなたの識字能力は当初より大分改善されています。問題文を読めるようになったのですから、あとは解くだけです」
「ウッ あの、わかっているのですが… 問題を読むと、それで満足してしまって」
「問題の戸口を叩いただけで満足しないでください」
「ぐっ…!」

ミワは、人魚と人間のハーフであった。識字能力の低下は、混血によく見られる症状のひとつである。彼女の父は、南海の人魚と恋に落ちミワを授かった。母親を早くに亡くなっているそうだが、これに関しては別段珍しい話でもあるまい。アズールを家庭教師に指名したのはそういうことだ、人魚なら…彼女の抱える障がいを理解できるのではないかと思ったようだが。

(まあ、僕にはそんなものちっとも理解できませんが)

アズールは純潔の人魚だ。しかも出身は珊瑚の海の北、あそこは純血の人魚でなければ住むことの難しい過酷な場所だ。混血など一匹もいなかったし、彼女の苦悩など解りはしない。

それに、アズールは文字通り血の滲むような努力で、人魚には習得困難とされる熱砂の国の言葉を独学で覚えた。少し発音が怪しい所もあったが、同級生のお陰で最近は現地の人間ともスムーズに会話ができるほど上達している。そうやって己が力のみで財を築いてきたアズールに、出生から出遅れたなどと言い訳して停滞している生き物の気持ちなぞ解りはしない。

「アズールさんは凄いですね、こんな難しいこといっぱい覚えられて。それなのにわたしは…一年生でもう落第寸前…」
「自身の不出来を嘆く暇があったら手を動かして、一問でも多く問題を解いてください。僕が自己の研鑽に充てようとしていた貴重な時間を、あなたの為に割いているということをお忘れなく」
「はい、はい頑張ります!」
「…返事ばかり威勢が良いですね、本当に」

結局、アズールが宿題として渡したテキストは、半分ほどしか進んでいなかったようだ。だが彼女なりに努力した様子は見て取れる。テキストの問題文を解読しようと必死にペンでなぞり、解る問題にはチャレンジして、理解できない問題はスキップしている。自分ができることと、できないことの判別は着いている証拠だ。だがまだ一問にかかる時間が長すぎる、だから全て熟せない。…課題はまだまだ、山積みのようだ。

「あ、___あの、アズールさん」
「なんですか、その問題ならXをこちらの公式に当てはめて…」
「いえ、あのこの問題はわかる…とおもいます多分。ハイ」
「ではなんですか、勉強に関係のない話題でしたら控えてください」
「勉強…というか、進級に関してで」
「進級に?」

それは重要な話題であった。教材から顔を上げたアズールに、ミワは細々とした声で言う。

「あの進級テスト、基礎科目の他に体力試験がありまして」
「ああ…そういえばそうでしたね」

ミワが通うカレッジは、ナイトレイブンカレッジと同じ街にある。だがその偏差値は雲泥の差、さる貴族や名の知れた有名企業の子女が通うプライベートカレッジだ。ミワに勉強を教えるにあたって、カレッジの基本のスケジュールや必須科目は抑えているので、直ぐにミワが何を言いたいのか察しがついた。

「あなたの人魚としての魔力適正値が高いので、人魚用の試験が課せられるはずです」
「はい」
「なので課題は泳力測定ですね、1.5km泳ぐだけなんて稚魚でもできます」
「泳げません」

アズールの頭が初めて、言葉を理解することを拒否した。

「…すみません、聞こえませんでした」
「泳げない、デス」
「…」

たっぷりと長い時間を置いて、アズールは静かに席を立った。そうしてベランダへと向かうと、高層マンションの最上階でしか見られないその素晴らしい景色に感動する。素晴らしい、いずれ僕もこういった勝ち組の象徴のような生活を送ってみたいものだ。

「アズールさん現実逃避しないで、アズールさん!!!」
「やかましい!!! もう僕は何も考えない、何も考えたくないあなたひとりでどうかしてください!!!」
「そんなこといわないでえええ見捨てないでえええ あずーるさああああん」
「泳げない人魚なんているかああああ」
「うわあああああん」





二週間後。正気に戻ったアズールは、ことの真意を社長に問いただした。どうやら泳げない、というのは本当らしい。人魚である母親が泳ぎ方を教える前に他界、その後は社長の仕事の都合もあり、ミワには常に変身薬を用いた生活を強いた。その結果、ミワは適正があるにも関わらず人魚の姿になったことがなく、指で数えるほどしか泳ぐことをしたことないという。

「スクールの時はどうしていたんですか」
「好きな方を選べたので…陸用の試験を」

照れ臭そうに言うミワには悪いが、アズールは今のところ絶望しか感じていない。もももも、もういっそ泳ぎに関するユニーク魔法を持っているヤツを探すか。適当にいちゃもんを着けて魔法を徴収するのだ、ミワに泳ぎ方を教えるよりもそちらの方が余程効率が良いに決まっている。

そう思ったが、電話口で社長に「せっかくだから、ミワに泳ぎ方を教えてあげてよ!」「人魚のアズールくんなら適任だ」「あ、例の件だけど。質の良いものを安値で買い付けできそうでね、君が提示した金額より安く卸せそうだよ」「じゃ任せたからね、信じているよアズールくん」ガチャリ。

一方的に切られた電話、ツーツーという切断音を聞いて。アズールは生まれて初めて電話を床に叩きつけるという暴挙に出た。ソファに寝転んでいた双子の片割れが「ウワ、吃驚した」「なにヒステリー?」と揶揄ってきたが、こちらはそれどころではない。本当に、なんて厄介な男だ!人の良い笑顔に騙された、とんだ食わせ者じゃないか。

だが、ここでできませんと引き下がるなど、他の誰が許しても、アズール・アーシェングロット自身が決して許さない。僕はできる男だ、どんな困難があろうと望んだことは全て叶えてきた。今回だって同じことだ、持てる知識と経験の全てを費やして、完璧に、スマートに、熟してみせるとも!

「変身薬は先週を最後に服用していませんね」
「あああ、アズールさん このお水とっても冷たいです」
「最初の内だけですよ。人魚になれば適温のはずです、南海の暖かい海水を再現していますから」
「冷たいよ!死んじゃうよ!」
「ええい、死なないといっているでしょう!」

アズールがミワの練習用に選んだ場所は、オクタヴィネル寮の一番大きなプライベートプール。すなわち、寮長専用プールだ。歴代の寮長はみな人魚であるが、その種別は様々。最長のものでクジラの人魚からクリオネの人魚まで、彼らがみな愛用したこの場所は学園の魔法の粋を極めた場所だった。

海水の種類はもちろん、地域を指定すれば細かい水質の再現まで可能。広大なオクタヴィネル寮の海の一角を切り取ったものだが閉塞感を感じないほどに広大だ。

完全なプライベート空間なのであらゆる透視魔法をシャットダウン、かつての寮長の趣味なのかプールサイドは意匠の凝った重厚な造りをしており文句のつけようがない。とはいっても、アズールは自分の人魚の姿はあまり好きではないため、ほとんど利用していない。変身薬の調整なそで必要に駆られて利用するのが精々であった。

「そろそろ薬が切れますね、さあプールに入ってください。服も脱がないと破けてしまいますよ」
「え。え、 え、 え!?」
「諄い」

イラッとしたので、ミワが縁に居ることを良いことにプールに突き落とした。あっさり沈んだ彼女を溺れる前に引っ張り上げ、縁に手をかけさせる。声をかけるも目をぱちくりとさせるだけなので何が起こったのか分かっていない様子だ。それを見たアズールは、仕方ないと魔法筆を振った。

変身魔法の応用である、これで彼女の服はすべてランドリールームに移送された。あとは自立魔法が、きっちりとクリーニングしてくれる。一拍置いて、ミワの顔がぼんと赤くなった。流石に何をされたのかわかったらしい、パニックになりやたらめったらに言葉を叫び始める。だがアズールの知った事ではない、あと10秒、ほらすぐに効果は表れた。

「…戻りましたね、」
「…」

ぺったりとミワの頬に張り付いた髪の隙間から、帯のような鰭が伸びる。鮮やかなピンクローズの鱗と皮膚を彩る華やかな模様、海中を踊るようにたなびく長い鰭。どれも南の海の人魚らしい特徴だった、とにかく派手で機能性に欠けている。

「わわわ わたし人魚に」
「あなたの本来の姿です、さ 泳いでみなさい」
「むりむりむりむり あああアズールさんも泳いでください!」
「甘やかされて育った僕がいえることじゃないですけど、あなたも大概ですね。そんな僕から為になる一言を差し上げます、甘えるな。人生とは過酷なものです」
「わああああ」
「溺れたら助けて差し上げますよ、慈悲の心で」
「わああああああああ」

開始数秒で溺れた。しかもイヤダと泣いて一向に泳ごうとしない、縁から這い出て延々と喚くミワにアズールはメガネを投げ捨てた。そうして「ああもう最悪だ!!」と叫んでプールの中に飛び込むのだから、ミワは目をひん剥いた。わたしみたいなバカの相手をし続けて、とうとう頭が可笑しくなってしまったのかもしれない。戦慄しながらアズールが沈んでいった所を見つめるミワの尾に、突然くるりと何かが巻き付いた。

ん? と振り向いた先で、ピンクローズの尾に黒いものが巻き付いているのが見えた。なんだろうと思うのと、それが勢いよくミワをプールに引き釣り込むのは同時だったと思う。いやああーーーーーと叫ぶ暇などなかった、次の瞬間にはミワの身体はどぶんと海の中に落ちていた。

「ごふごぶごぶ」
「肺ではなく、鰓で呼吸しなさい」
「ごぶごぶごぶ」
「口ではなくて、こっち! 鰓!」
「ごぶごぶごぶ」
「こンのっ、バカ!」

数秒後、そこにはアズールの触腕で水面の上に持ち上げられたミワの姿があった。
顔を涙といろんなものでいっぱいにして泣いているミワに、アズールは鬼の形相で「エラ!!」とわき腹を叩いてくる。最早彼は立派な鬼教官であった。

「えら゛ っでなに゛〜!」
「おま、 き昨日散々教えたことをもう忘れたと? 良いですか、人魚はねエラで呼吸するんです。人間が肺で呼吸する代わりです、ここほら。わかりますか?」
「くすぐったいです」
「真面目にやれ」

触腕できゅっと首を絞められたので、ミワは慌ててコクコク頷いた。これでもずっと本気なのだ、すこし人より呑み込みが悪いだけで。

数週間後。そうしてアズールが懇切丁寧にあれこれ教えた甲斐があったのだろう、ミワはある程度自力で泳げるようになった。勉強よりも目に見えて成長するのが嬉しいのだろう、ミワは少し長く潜って遠くに泳げると、その度に嬉しそうにアズールに報告した。その様子があまりにも無邪気なものだから、アズールも呆れたように笑うしかない。例えその泳力が、泳ぎ始めた稚魚なみでも。

「そういえば、アズールさんはタコさんなんですね」
「…今更ですか」
「えへへ、今まで見ている余裕がなくて」

照れ臭そうに笑うミワは、アズールの手をぎゅうと握っている。そうしていないと潮に流されてしまうからだ。アズールはどんな激流の中でも吸盤で岩肌に吸い付けば流されない、だが彼女はそうではない。しかも人魚初心者の彼女は、泳げるようになったといっても人間に毛が生えた程度。

少しの潮の流れで、あっちへこっちへ成すがままに流されていくミワ。それをその度、アズールが触腕で捕まえて引き戻した。

「あまり手間をかけさせないでください」

何度目かになる注意、こちらは割と本気で怒っているというのに。ミワはへにゃりと笑って「ごめんなさい」と笑う。北の海ではアズールより鈍間でグズな人魚はいなかった、南の海に行ったことはないが流石に彼女よりは真面であると思うからして。

(僕よりグズで鈍間で、その上落第寸前なほど頭が悪い人魚なんて)
____果たして、ひとりで生きていけるのだろうか?

タツノオトシゴを見つけて飛び出していったミワを触腕で回収しながら考える。このあんぽんたん、僕の心配も知らずにヘラヘラ笑いやがって。こっちがどれだけ、毎日毎日お前のために頭を費やしていると思っているんだ。

(いや、そもそもそんなことは僕が心配することでは)

ない。

「アズールさん」
「…なんですか、その手に持っているのは。レースの刺繍?」
「落ちてました! マリアベールでしょうか、まだ真っ白で使えそうですよ。そうだアズールさん被ってみてください」
「ちょ、」

「ふふ、まるで花嫁さんみたいですね」

花の刺繍が施されたレースは、深く昏い海の底で生き抜くために進化したこの身にそぐうはずもない。これ以上になく不釣り合いなものを、深海の怪物相手に被せて良く笑えたものだ。

「…ご冗談を、僕は男です」

余った触腕でベールを奪えば、ミワがああと顔を陰らせる。しゅんとしたその表情が、彼女らしい素直なものだったから、なんだかとても面白く思えて少しだけ笑ってしまった。____大丈夫、その顔はすぐに笑顔を取り戻す。

「その役目はあなたの方が相応しいでしょう」

彼女の長い髪にベールを纏わせる、気付いたミワが指で触れて微笑んだ。陰っていた表情がすぐに、お日様いっぱいの笑みへと変わる。ほら、僕の思った通りだ。

ピンクローズの鱗が、水面の光を受けて煌めいている。たなびくようにして彼女を包む鰭は美しく、その様子は童話で語られるプリンセスのようであった。その様子が北の湖で生きていたアズールには眩しくて、少しだけ目を閉じた。

(ああもう、しょうがないですね)

しょうがい、これはしょうがないことだ。そもそも、こんなバカ女を面倒みられるだけの甲斐性がある人魚なんて、そういない。加えて、彼女の父親の要求に応えることができて、彼女が海で迷子にならないように捕まえることができて、彼女が…その好奇心の赴くままに自由に生きることを手助けできるものなんて、ええきっと。僕以外にいないでしょう?







「ごめんなさい」

___ああ、チクショウ。
だというのに、この女どうやらそれをまるっきり分かっていないようで。

シルクのテーブルクロスに頭が付きそうなほど、大げさに頭を下げるミワの様子に記憶がフラッシュバックする。初めて彼女に会って、勉強を教えた学生時代の記憶。ああどうやら、この日の為に用意した特別な贈り物は、まだ当分ベルベットの上でお休みしてもらうことになりそうだ。

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