「きらい」って言うと泣いちゃう松田陣平のはなし

「ジンペー、お前の父親タイホされたってマジかよ」
松田丈太郎が殺人の容疑で捕まったという事実は翌日には広がり、クラスメイトの全員が知る事実となっていた。誰一人としてその真偽を問うこともなく、その息子である陣平をまるで同罪あるかのように扱い、正義感という名目の下に攻撃をするようになった。
勿論彼は抵抗した。反撃をした。
自分自身と父親を守るために、心を奮い立たせた。
しかし、教師は、先に手を上げた生徒ではなく陣平を悪者のように扱った。学校に呼び出された母親が、何度も頭を下げてスミマセンと壊れた機械のように繰り返す。その声が震えている事実が、更に幼い陣平の心を掻き立てた。
「少しの間、我慢なさい」
___母親は言う、陣平に言い聞かせるように。
青くやつれた母親の顔に、陣平はそれ以上何も言えなくなった。翌日から、陣平は抵抗することを止めた。されるがままになっている陣平に、加害生徒は味を占め正義の名を被ったイジメはエスカレートした。…たった3日そこらのはなしだ、そのたった72時間に起った何もかもが陣平の世界を大きく変えてしまった。
「なんで邪魔すんだよ」
「だれ、こいつ」
「隣のクラスのやつだ」
放課後、逃げるように身を隠し、門が閉まる頃合いに教室へと戻った。廊下にまで良く響く声には覚えがあり、陣平はぴたりと足を止めた。その声は、陣平に「制裁」という名目でいじめを行っている主犯生徒のもので、取り巻きと一緒になって誰かを糾弾しているようだった。
…どうでもよかった。誰が、なにをしていようと。
それよりもランドセルを回収できないことが問題だ。一度何も持たずに家に帰ったら、酷く心配した母親に詰め寄られたのだ。どうした、何がかったのだと。まるで何かに追い立てられているようなその剣幕が、陣平の網膜に焼き付いて、剥がれない。…いま母親は、心身ともに擦り減って、思考する余裕がなくなっている。
触れたら割れてしまいそうな母を、むやみに刺激すること避けたい。零れそうになった舌打ちを飲み込んで、もう少しだけ時間をやり過ごそうと踵を返した陣平の耳に「おい、なんとかいえよ!」と、苛立った声が突き刺さる。
「じんくんの、ランドセルだから」
(_________ゆき、?)
その声は、幼馴染のものだった。
陣平の足が止まる、どうして。隣のクラスの彼女が、ここは陣平のクラスで。なにをしてるんだアイツ。あんな、どんくさいやつが、なんで。あの男の前に、
はくり。と、口が閉じては、開く。
心臓が煩い、何を考えているのか、何をすれば良いのかわからない。身の内に込み上げる衝動があるのに、それに名前を付けられない。
教室からやり取りの声が聞こえる、ヒートアップしていく。聞こえているはずなのに、その意味がわからない。けれど体と心がちぐはぐで、いまにも引き裂かれそうになるほど苦しかった。何もできずに、永遠に似た時間が過ぎていったほんの数分、「ダメだよ」と強い声が聞こえた。
がらりと、教室の扉が開く。
弾かれる様に顔をあげた先で、陣平のランドセルを抱いて転がるように飛び出してきたゆきと目が合った。
バレた。聞いていたことが。
何もできずに、何もせずに、ただ傍観していた事実が。
さあと、一瞬で燃えるように体中で煮え滾っていた血液が冷める。言い訳を、理由を説明しないと。とっさにそんな逃げ文句が頭をついた。けれど、違うだろと、自分がブレーキをかける。そうじゃない、すべきことは。いま、やらないといけないことは。
「ゆき、」
「ジンくん、かえろ」
「あ、」
「はやくいこう、ここいやだよ」
…結局、何を伝えることもできないまま、陣平はゆきに手を引かれて学校を後にした。
学校を離れて暫くすると、ゆきが足を止める。抱きしめていた陣平のランドセルから、何かを剥がすと「おもい、もって」と煩わしそうに眉を顰めた。困惑したままランドセルを受け取ると、ゆきは公園の中へと走っていく。そうして、公衆トイレ横のゴミ箱に、持っていた紙をくしゃりと握り締めて捨てた。
ああ、と気づいた。
きっとあの生徒たちのいじめの一環で、陣平をあざ笑うために何か細工をしていたのだろうと。
ああ、と察した。
それに気づいたゆきが、ランドセルを取り戻してくれたのだろうと。
ああ、と想った。
底抜けに陣平に甘い彼女のことだから、きっと俺がキズをつかないように_____、
「オメェなんて、嫌いだ」
それなのに、戻って来てくれた彼女に毒を吐いてしまう。
その言葉は、陣平が放り出された悪意の筵と、同じ色をしていた。
「そうやってイイやつのふりしやがって、どうせお前も同じだろ」
「…」
「おれのこと、親父のこと、人殺しだって。隠れて他のやつとわらってんだ」
「…」
「それで、俺をどうするんだ。殴るのか、突き飛ばすのか。ああ、それとも髪切ってやろうって。いいぜ、好きにしろよ、抵抗なんてしねぇからさあ! おれのことオモチャみてぇにして、なんでもしろよ!」
遠くで、カラスの鳴く声がする。
かあ、かあ。はあ、はあ、その音に重ねるように息が上がっていることに気づいた。まるで全力疾走した後のように、心臓が脈打つ音が耳元に聞こえる。怒鳴ったのは自分で、好きしろと啖呵を切っている癖をして、ゆきの顔が見られない。
彼女がどんな顔をしているのか、知るのが怖かったのだ。
微かに聞こえてくる本音に蓋をして、違うと言い聞かせるように、ゆきの黄色い靴を睨み付けた。泥まみれで、紐が切られた自分のスニーカーとは違う、爪先が内側を向いた小さな足。ああ、____彼女がもし、自分と同じような、暴力に晒された、ら。
「しねよ、おまえなんか」
___死んでしまうかも、しれない。
「どっかいけ、もう顔もみたくねぇ」
___離れないで、傍にいて。
「おまえなんて、だいきらいだ」
___… 、
「…じんくん」
手が触れようとする。柔らかい皮膚の、傷一つない手が。咄嗟に身を引いた、触れた指先から何かが彼女に移ってしまう気がして恐ろしかった。ゆきが「あ、」と言う、その声がどこか悲し気に聞こえて、頭がズキズキした。これ以上話していたくない、何かも放り出して走り出そうとした陣平に気づいたゆきが、先手を取って陣平のシャツをわし掴んだ。
「じ、あ」
「う、 」
飛びついてきたゆきの勢いを受けきれず、そのまま二人してコンクリートの上に転げてしまう。どだんっと、音がする。咄嗟に付いた後ろ手が、コンクリートに擦れてじんと痛んだ。打ち付けた頭と背中が熱い、それに耐える陣平の視界に、真っ赤に染まった夕日空が覆う。
「じんくん、」
その赤を背にしたゆきを、陣平は呆然と見上げていた。
「…泣いてる?」
「……ないて、ねぇ」
「泣いてる」
「っ ないてねぇ…!」
「陣くん、嫌いって言うといつも泣いちゃうのなんで?」
「だ、 あからないてねえ え゛ っ」
「わあ、」
一度溢れ出たものは、もう止めることはできなかった。きっと転げた傷みのせいだ。と、堪えてきた時間の分だけ、心が震えて、涙に変わっていく。ぼろぼろと情けなく泣き喚く陣平に、ゆきが「ごめんね」「いたかった」「じんくん」と言う。その手が触れるのはまだ怖くて、陣平は弱弱しく手を振り払って身を捻じった。
そんな子どもたちの様子を不審に思った大人が集まってきて、…気づかなかったが、この時陣平は頭を打った拍子に血を流していた…火が付いた様子で、救急車を呼ぶ。ゆきが大人たちのその焦り様に触発され、慌てて陣平の上から飛び退こうとしたが、しかし、それを陣平が許さなかった。
近づいては振り払われてきたゆき手を、今度は陣平が力の限り握り締めて、「どっかいく゛じゃね゛ぇ!」と濁声で怒鳴りつけてくる。大人たちはビックリしていたたが、それはゆきが良く知る陣平の何時もの調子であったので、むしろ、少し落ちつきを取り戻した様子で「うん」と頷いて見せた。
そうして陣平がちっともゆきを離さないから、結局一緒に救急車に乗って、そのまま治療されて、ベンチで並んで呼び出された親を待つことになった。その間に泣き疲れ、ゆきに寄りかかる様にして眠ってしまった陣平を見て、殊に事件性はなくただの子どものケンカかと漸く大人たちは納得を示した。
しかし、散々大人たちに事情を聴かれてハイになったゆきは、ずっと緊張していたようで。…大人になってこの時のことを話した時、この状態で眠れる陣平が信じられなかったと小言を貰った。あと、寄りかかられてとても重かったとも。
ゆきの母親と、陣平の母親は学生時代からの友人というやつで。
丈太郎に起ったことを心配したゆきの母親は、すぐにコンタクトを取ろうとしたが、陣平の母親がそれを拒み続けたらしい。仲が良いからこそ、頼れなかったと。呼び出されたことで漸くそのことを話し合えたゆきの母親は、娘を離そうとしない陣平を見て、松田親子を朝倉家に招き、泊っていくように提案した。
その次の日は、母子ともに昼過ぎまでぐっすり寝てしまった。
この三日間、ずっと神経を尖らせていた所為だろう。飛び起きた母親が陣平を叩き起こし、そのままの勢いで向かったリビングには、(陣平を口実にして)学校を休みにしてもらえたゆきがテレビを見てケラケラ笑っていた。
「じんくんもみよ」と手を引かれて、一緒にVHSに録画されたアニメを見ている子どもたちの背で、母親たちは少し早いおやつだとホットケーキを焼いた。陣平はゆきと一緒にそれをたらふく食べて、オレンジジュースとお菓子をほおばりながら、昨日のことなど丸っと忘れて遊んだ。
いつも通りの、陣平の世界がそこにはあった。
これまでの三日間が、まるで悪い夢のようであった。
けれど、テレビに流れたニュースが、これが現実であると知らしめる。硬くなる母親の横顔、それに寄り添うゆきの母親。朝倉家を出たら、きっと昨日と厳しい現実が荒波となって松田家を襲うのだろう。それでも、___なにもかも知らないというふりをして、隣で笑ってくれる少女の手を放したくはなかった。
だからこそ決めたのだ、陣平は____、
俺は___、

「喧嘩上等の悪ガキになっちゃったんだね」
「ああ゛?」
「わ、こわいかお」
「ケンカ売って来たのはコイツらだぞ! 俺は悪かねぇ!」
気絶した不良の胸倉を掴んだ陣平がぐわりと吠える。その向こうで「あ、ゆきちゃ〜ん」と萩原が甘い声で呼ぶ。駆け寄ってくる笑顔が眩しすぎて、地に伏している不良たちが容赦なく踏みつけられている様子は見えなかったということにしておこう。
「また補導されちゃうよ」
「うん、だから俺はその前に逃げるね」
「はあ!? あ、おい萩っテメェにげ、」
「こらーーーーっ! 何をしとるかあ!!」
つんざくような、警察官(顔見知り)の怒鳴り声が響いた。
要領の良い萩原はさっさと逃げ出し、陣平はしっかり不良の胸倉を掴んだまま見つかったのでお縄となった。警察嫌いの松田がギャンつく怒鳴って事実説明をしている間、すで恒例となっているので光景にぼうと眺めていたゆきに、「大変だね」ともうひとりの警察官が声をかける。
「ケンカ早い幼馴染を持つと」
「はい、まあ…」
「相手が問題を起こして回っている不良たちの間は、大事にはならないが。あの性格だと、それも何時まで持つか。…君もねえ、いい加減、彼との関係を見直した方がいいんじゃないのかい」
心配されているのか、まとめて問題児扱いされているのか解らない声かけに、ゆきはいつもの調子で曖昧に首を傾げ、話をぼやかした。それが警察官の目にどう映ったのか解らない、深いため息の後「だから」と言葉を続けようとしたが、その後は聞こえなかった。
ぐいと、腕を引かれる。
警察官とゆきの間を遮るように割り込んできた陣平が、鋭い目つきで駐在を睨み付けた。その視線を受けてたじろぐ様子に、ふんっと鼻息を鳴らした陣平が「ゆき」と視線だけ振り返る。
「帰んぞ」
「…あれ、交番に行かないの」
「ゲンジューチュウイでいいだと、……あったりめぇだろ。こっちは被害者だってぇの」
ぶつぶつ言う陣平に、遠くを見れば、屍累々を前に頭を抱えてどこかに連絡する警察官が見えた。追ってくる様子がないのを見ると、どうやら陣平の言うことは嘘ではないらしい。さっさと帰路につこうとしている陣平に引きずられるようにして続きながら、僅かに振り返って声をかけてくれた警察官へと頭を下げる。返す様子を確認できなかった、更に強く腕を引かれ「離れんな」と叱声が飛んできたからだ。
「…うん、離れると陣くん泣いちゃうから」
「ハッ 誰が泣くか、むしろセーセーするね」
「嫌いって言っても泣いちゃう」
「テメェがな」
「わたしは泣かないよ、陣くんはエンエン泣いちゃうけど」
揶揄われていることが分かったのか、「言ってろ、バァーカ!」と言う声には少しの苛立ちと羞恥が見え隠れてしていた。それでもゆきの手を引く力は緩まない、
「ねえ、掴むんじゃなくてつなご」
返事の代わりに、少しだけ陣平の掴む手が緩まる。ゆきが掌を浮かして、誘うように宙に浮く陣平の指に指を絡めて、きゅっと薬指を握った。それに気づいた陣平が、応えるようにゆきの親指を握り込んだ。
「離すなよ」
「うん、…陣くん ケガ、いたくない?」
「このくれぇ親父とのスパーで慣れてるし、ナメときゃ治る。どこもイタかねぇから、気にすんな」
「そっか」
「そーだよ」
夕焼けで伸びた二人の影が重なった。それがまるで仲良しのように見えてゆきが肩を震わせて笑うと、何が気に入らないのか陣平が体を寄せてとんっとぶつかってくる。「やだあ」と言っても離れない、そうして子どもの時と変わらず、ずっと二人は一緒にいる。真偽を問うまでもなく、その事実だけが未来へと続いていけばいい。