竜神(松田陣平)は拾ったウサギを手放すつもりはない

むかしむかしあるところに、りゅうのかみさまがおりました。
そのかみは、ひとのよりつかないたかきやま、そのおくにあるみずうみでしずかにくらしておりました。けれどさびしくはありません、りゅうのかみさまにはとてもなかがよいかみさまたちがいたからです。
そのよるは、なかよしのかみさまのやしろで、たらふくさけとくもつをたべました。ふらり、ふらり。ときおりひゃっくりをして、あめやかみなりをおとしながらのかえりみち。それはとつぜん、りゅうのかみさまのもとにおちてきたのです。
ぽんと、りゅうのかみさまのあたまにおちてきたのは、まっしろなうさぎでした。ふつうそらからうさぎはおちてきません。りゅうのかみさまはすぐにきづきました、きっとうさぎはつきのものであろうと。そう、あのおつきさまには、たくさんのうさぎがすんでいるのです。
うさぎはけがをしていたため、りゅうのかみさまはしかたないとすみかへとつれかえりました。しかし、うさぎはめをさましません。どうやら、つきからころげおちたときにちからをそがれてしまったようで、かみのけんぞくなのにちっともけががなおらないのです。
このままではきっとしんでしまう。しかたないので、りゅうのかみさまは、うさぎにうろこをいちまい、せんじてあたえました。するとうさぎのしろいからだには、りゅうのかみさまのしるしがきざまれました。そうして、りゅうのかみさまのちからをわけてもらったことで、うさぎはすこしずつ、げんきになっていきました。
やがて、うさぎのめがぱちりとひらきました。みたことのないおおきなりゅうをまえに、さいしょはころげておどろいておりましたが。りゅうのかみさまからはなしをきくと、それはそれはとうさぎはこうべをさげていいました
「たすけていただいてありがとうございます。いのちをすくっていただいたおんがえしをさせてください」
ぺこりとあたまをさげたうさぎは、りゅうのかみさまにたずねます。
「じひぶかきりゅうのかみさま、あなたのおなまえをおしえてください」
そうして、うさぎはてんのつきではなく、ちにすまうりゅうのかみさまのけらいとなったのです。れいぎただしいうさぎに、りゅうのかみさまはこたえたました____わたしのなは、
「陣平様」
いくら呼んでも返事がないので、続く廊下を抜けて寝殿を訪ねると、そこに探している神は居られた。ぐるりと巻かれた鮮やかな瑠璃色の尾、その中央に横たわる肩が上下に揺れている。聞こえてくる吐息は穏やかで、すぐにその神が眠っていることに気づいた。
「陣平様、起きて下さいませ。陣平様、」
「ん、…」
「夕食の席がご用意できておりますゆえ、」
この神はどうにも、いつも眠いようで。放っておくと、平気で三月ほど目を覚まさない。最初こそ、心地よくしている方を起こすのは忍びないと思って放っていたが、目覚めた神に「どうして起こさない」と叱られてしまった。一緒に眠るのではないのなら起こせと言い付けられたので、それからは、多少無礼でも大きな体を揺すって、その神を起こすようにしていた。
「陣平様、陣平様」
「…う゛ー…、」
「貴方様がお好きな、あれもご用意してありますから。どうか、お目覚めになってくださいませ」
「…あれぇだあ?」
ぐるると、威嚇する様に喉仏が震えた。鋭い視線に射抜かれながら、「はい、ご用意してます」とびくびくしながら答えれば、その神は酷く渋い顔をしながらも、のそりと重たそうに体を起こしてくれた。
「…ふわあ、…、ねみぃ」
「今宵はもう少し眠られますか」
「はあ? じゃあ、誰がお前の作ったメシ食うんだよ」
「それは」
「俺のために作ったメシを、誰にやろうって」
ぐっと不機嫌につり上がった口角から、龍の牙がのぞく。小さい命としての性ゆえ、捕食者のそれにぼっと毛が逆立ってしまう。いつの間にかわたしの背に回っている大きな尾に叩き潰されてはたまらないと、慌てて首を振った。
「いいえいいえ、貴方様のために作りました。だから、貴方様に頂いて欲しいです」
「…たっく 最初からそう言えよ、紛らわしい」
どうやら、神の中でひとつ納得がゆく答えに辿り着けたらしい。短い御髪を掻いて、さらに欠伸をひとつ。その神が動く気になるのを待ちながら、崩れた御召し物をさっと直させていただく。羽織をお持ちした方が良いだろうかと悩んでいると、わたしの手に鋭い爪を備えた御手が回る。
「ゆき、こい」
まっすぐに、蒼い瞳に見抜かれる。主人から与えられた命に、魂に絡まった眷属の印が疾く応えよと疼く。彼の神の尾に、緩やかに身の内を締め付けられていくような感覚。…抗うことはできない。「はい」と答えて、その手が望むままに彼の神の身体に身を寄せた。
ぽんっ
____本来の、白兎の姿になって。
「……、メシ食うか」
「東の間のご用意しております」
膝の上に落ちた白毛玉のわたしをわしわし撫でて、陣平様が立ち上がる。彼が寝殿を後にすると、社の付喪神たちが蔀戸を閉じ、御簾を垂らした。
ここは彼の神が座す社。
深い湖の底に聳える竜之宮。
彼が居る場所だけに金色の明かりが燈り、その尾が這った後は海の底のような暗がりに閉じていく。静寂と蒼い光に包まれた宮は、かつて仕えていた月之宮とは何もかもが異なっている。
月之宮は極楽浄土、常に天女たちが奏でる雅楽と甘い歌声に満ちていた。
わたしのような月兎の他にも、多くの月の眷属たちが済んでおり、何時も祭りのような賑やかさがあった。生まれた時からそれが当たり前であったので、この静寂に満ちた竜之宮には未だ慣れない。…地に住まう神の社というのは、皆こういうものなのだろうか?
「うめえ」
「ようございました」
膝の上のわたしを愛でながら、食事をする竜の神。
陣平様は、月から転げ落ちてしまったわたしを拾い上げ、介抱してくれたこの地の神様だ。古く先代よりこの地を預かっている土地神でもあるらしく、象徴たる貴き山の麓には幾人もの巫女たち居り、常に供物が捧げられていた。
信仰の厚さは、その神の力そのものだ。
それほどの力をもった神に拾われたのは行幸と言えた。主君と離れすぎて神通力を失っていたわたしは、あのままではただ死を待つばかりであっただろう。仮にも月の主に仕えていたのだ、空っぽになった器が必要とした神通力はかなりのものであったはず。…それを、この神は鱗ひとつで賄った。
「陣平様、またお口の傍にこぼしておられますよ」
「はあ、どこだよ」
「そちらではなく、右の方です」
「みぎぃ?」
そう、そのはず…なのだけれど。
この神さまは、時々そんな尊き存在であることを忘れさせるほど、幼い子どものような素振りを見せる。
あまりに見当違いの場所ばかりを探るから、しかたないと人身へをとる。「こちらです」と、指で摘まみ取ると、じっと大人しくしていた神が、そうとわたしの指に口を寄せた。
薄い唇が、触れて。
鋭い牙が、皮膚を擽る。
ぬるりと、二股の舌が指を這う感覚に驚いて動けずにいるうちに、彼の神はわたしの指から食べ屑をすくい取ってしまう。
「あそこだのそっちだの言われてもわかんねぇから、次からはこうしろ」
「はい、…」
こくり、こくりと。天の主に仕えていた時と同じように、ただ頷いて受け入れる。それがわたしたち従属神として生まれてきたものの性。迷いなく、ただ主の思うままに。命じられる通りに、振舞い役割を熟す。それは天にあろうと、地にあろうと変わらない。…ただ一つ、わたしに与えられた在り方だ。
「良い子だなあ、ゆき」
____そのはず…、なのに。
神の手が、わたしの首を覆う。
ぱきぱきと、人の肌に本性の鱗が浮かび上がる。長く伸びた爪が頬をなぞり、竜の牙が耳を噛んだ。
「い、」
「そうだ、なにか褒美をやろうか」
「そ、んな いりま、せ」
「つれねぇこというじゃねぇか。俺がやるって言ってんだ…、そこはアリガトウゴザイマスって喜んで受け取るところだろうよ」
「あ、」
「口をあけな」
顎を持ち上げられ、命じられる。視線が合わさる、彼の神の瞳が神通力を宿し瞬いた。とたん、水流のように流れ込んできた彼の神の力の奔流が、わたしから逆らうという選択肢を奪っていく。怖い、そんな言の葉が浮かんでは、
まれていく。怖い、恐ろしい、どうして。尊き神、その命じるがままに在ることが、わたしの使命。
それなのに、どうして___抗うような思いばかりが込み上げるのか。
なにかいけないことをされている気がする。
もう戻れない、その先にゆっくりと流されているような心地がする。
それが解る、けれどその先にあるものが何かわからないから、最後の力で彼の神に抗うことができない。……震える唇が「はい」と音を紡いだ気がした。小さく開いたわたしの口を見て、彼の神の唇が弧を描く。
「ん、」
そうして彼の神は、恩恵を垂らす。わたしは矮小なる身に余るほどあるそれを、必死に受けいれようと藻掻く姿を見て、やはり神はとても愉しそうにわらっておられた。
「客人の前だぞ、衣装くらい整えたらどうだ」
どん。と、腕を組み、開口一番にそんな小言を飛ばしてきた朋友に、ただでさえ機嫌の悪い竜神の眉間に更に力が籠る。
「テメェ…他神(ひと)の社に断りもなく割って入ってきやがったクセに、何様のつもりだ?」
「泥酔して僕の社を水浸しにした君に言われたくない」
「何百年前の話してんだ、アア゛!?」
「七十八年は四か月と十一日前だ、未だ百年も経っていないぞ」
淡々と答える金毛九尾に、竜神はガアッと咆哮をあげた。その気性で神通力が乱れ、水の社がびりびりと揺れる。…社というのはその神の力の象徴そのもので、神域とも称される。その領域にあれば、所謂負けなし無敵モードというやつになれるのだ。
そんな竜神の社に無断に入り込んで、ケンカを吹っかけるなんて無謀かつ無礼な真似は、たとえ上位神であろうとしない。そう、普通なら。しかし、竜神の目の前に立つ狐神はその生い立ちもあり、何かと「例外」が付いて回る神であり、そういった神々の当たり前が通用しないというのは、千年に及ぶ付き合いでいい加減学んだところだ。
「たっく、…ンのようだよ。こっちは、いきなり叩き起こされて機嫌わりぃってのに」
「変化があればすぐに知らせろと僕に言ったのは君だろう。…気にしていると思って、飛んできてやったのに。徒労だったな、もう帰ってもいいか?」
「よくぞお出でくださりました、狐神様。どうぞ、つまらない宮ですがお入りください」
丁寧な口調であるが、その顔は納得してないと書いてあるようだった。しかし、狐神は気にした様子もなく「君がそこまでいうなら仕方ないな」と、さっさと竜之宮に上がっていく。狐神の魂は、恐らく鋼鉄で出来ている。
慣れたように母屋に入る狐神の背にため息を吐き出して、竜神は腕を揮う。その指先に霞がかかり、雲を象る様にして煙管へ転じた。竜神がそれを噛むと火皿に蒼い火が灯り、煙が差しはじめる。吐き出されたそれに神通力が混じり、どこからともなく現れた魚頭の御先が、客神を持て成す準備を始める。
「で、なんだって」
「天の姫宮から知らせが届いた、___内容は、伝えずともわかるだろう」
座した主の背に、魚頭御先が葡萄染の重ねを羽織らせる。着流しの合わせを整えさせながら、煙を味わうと「そうかよ」と涼しい声を返す。
「無事ならば保護して帰すように、そうでないなら知らせを」
「ハッ 何をいまさら」
「本題は別に、おまけのように付け加えられていた内容だ。あちらも、よもや生きているなど考えもしていのだろう」
「だろうなあ。ああ、知ってるか、零(ゼロ)。天の宮様の屋敷にゃあ、月兎が五万と居るそうだぜ。例え不慮の事故で数十匹のたれ死のうが、次の月が満ちる頃には宮様が月の花を指で弾いて生ませるんだと。…そんなもんが、一匹地に転がり落ちまったところで、だあれも気に止めやしねえさ」
そう暗がりに嗤う竜神は、随分と治安の悪い顔をしていた。…と、思ったが狐神はその言葉を、魚頭御先が注いだ酒で飲み込んだ。彼の竜神と天の神々の間には、深い因縁がある。それは先代から続くもので、天は全てが在るべくして整ったと考えているが……、少なくとも彼の竜神は、それを諾としてはいない。
「…つまり、先に話した通りに返答してかまわないと」
「ああ、頼むわ」
「一応訊くが、彼女は無事なんだろうな」
丸ごと放っておくほうが簡単だし、目の前の神を信用していないわけではない。これはどちらかというと義務的な質問だ、片棒を担ぐ代わりに答えろという意図を視線に乗せると、竜神は嗚呼となんでもないというように答えた。
「怪我もすっかり治った、ヒロの旦那が融通してくれた薬のおかげだな。昨日ちいと疲れさしちまったもんで、会わせてやれねぇが…今はぐっすり眠っているよ」
「それなら良いが…、ヒロにお礼は言ったんだろうな」
「そっちかよ! ホント、仲良いなお前ら」
呆れたように肩を震わせる竜神を、怪しむ様な目で狐神がねめつける。そっちは、あとで裏取りしておこう。
「そういえば、萩原が喜んでいたよ」
「萩のやつが?」
「ああ、彼女のおかげでお前が寝過ごすことがなくなっただろう。きちんと雨を降らすようになったから、雨師に小言を言われなくなったと」
彼女が宮に住まう前、竜神はこの湖の底で眠ってばかりいた。平気で一月を寝て過ごすもので、その間に地は干上がってしまい、干ばつを引き起こし人も獣も、命は等しく死に至る。そうならないように、神に仕える人間が雨乞いの儀式を執り行い、雨師がそれを聞き届け、雨を降らす。…しかし、龍が眠ってしまっていては、そうはいかない。
龍とは自然現象そのものであり、その存在は雨や雷と同義である。
雨を降らそうにも、雨の化身たる龍が眠っていては雨師もどうしようもない。
しかし、おいそれと龍を叩き起こすなんてことはできないから、竜神の知古の朋友である風神へと苦情が殺到した。そうして業を煮やした風神が、竜神を叩き起こしに行って、漸く雨が降る。…それが、ここ数百年の恒例となっていた。
「ああ…、だろうな。雨師には知り合いが多いから、怒らせるとナンパに支障が出るんだとよ」
「萩原は、相変わらずだな…。まあ、僕としても雨が降るのはありがたい。最近は、五穀豊穣を祈願する人間が多くてな。彼女がいなかったら、萩原じゃなくて僕が君を叩き起こしに来ていたかもしれないぞ」
「げっ、それはどうか勘弁してく零」
「つまらん、二点」
「厳しいねぇ、好きなくせに」
弾む会話に、酒へと延びる手の数が増えていく。そうして程よく温まり、気を許した朋友相手ということもあり、狐神はいつもより言葉が滑っていることを自覚しながらも、気になっていたことを口にした。
「それにしても、うまくやったな。あれはお前以外にはできないだろう」
「なんことだよ」
「彼女のことさ。初めて見た時は、隅々まで施されていた天津神の加護が、いまでは殆ど国津神(きみ)の加護に置き換わっている。あれほどのものを解体するのは、大変だっただろう」
「いーや、楽勝だったね。むしろ、お前とケンカした時にぶっ放された拘束付きの結界の方がよっぽど骨が折れたわ」
「それは良かった。アレは君用に組んだ特別性でね、完成するのに百年くらいかかった」